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スレッドを開いて頂きありがとうございます。

前もって断っておきますが、私は全ての無償の愛を偽善だと言いたいわけではありません。偽善が結果的に他者の幸せにつながる事もいっぱいあると知っています。
ただ、時々この哲学カテにも出現しますが、愛について意見するとき、無償の愛が本物の愛だとか、自我の忘却が重要だとか、そういう主張をする人は結局のところお花畑論者にすぎないのではないでしょうか。

私たちが人を好きになるパターンには2パターンがあると思います。

自我が根本にあるパターン→【自分を好きでいてくれるからAが好き】
無償の愛のパターン→【Aに自分が好かれていなくても、自分はAが好き】

明らかに世の中の恋愛関係、友人関係のほとんどは前者の感情によって形成・破壊されています。(もしかしたら私にはそう見えるだけなのかもしれませんが)

とすれば、無償の愛は結局世の中にはほとんど存在しない、世の中の愛はほとんど打算に基づいているのでは。

大体、無償の愛を唱えるなら自分の財産とかをアフリカあたりの貧困国に寄付して、今にも死にそうな人を助けろよと思います。自分の頭の中だけで完結している、行動が伴っていない「無償の愛」を語るやつは吐き気がする。ただの幻想好き、キリスト気取りに見えます。

繰り返しますが、偽善としての無償の愛が役に立つことも世の中にたくさんあると思います。しかし、あくまでもその愛は偽善であることを認識すべきではないでしょうか?本物の無償の愛は、出会えたらラッキーぐらいの代物なのではないでしょうか?

面白い意見をお待ちしております。

A 回答 (17件中1~10件)

面白い意見はありません。



質問者様は、無償の愛だからといってそれが無限とは限らない、というごく簡単なことにお気づきなっていないんですね。

>大体、無償の愛を唱えるなら自分の財産とかをアフリカあたりの貧困国に寄付して、今にも死にそうな人を助けろよと思います。自分の頭の中だけで完結している、行動が伴っていない「無償の愛」を語るやつは吐き気がする。ただの幻想好き、キリスト気取りに見えます。<

何かを否定したい時に、むやみにハードルを高くしてそれを超えていないからそんなもの嘘だ、なんてやる論法、あほらしいですよ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました!

お礼日時:2013/12/11 23:16

まだ開いてましたね。


私が割と最近気がつたことを書きます。

「無償の愛」のイメージがそれぞれに違うのでしょうね。

無償=見返りを期待しない
愛=相手が誰であれ何であれ、情が絡まない純粋な愛

無償の愛は、自分が好きとか嫌いとか情を抜きにして与えることができるものが「愛」でしょう。
無償の愛と言うぐらいですので、それは無償であって有償ではない。

愛を渡すこと自体が無償と言うことだと思います。
「愛してると言うなら金をくれ」
これは無償の愛と同時に有償の形を請求しています。

愛だけを純粋に渡す行為が「無償の愛」でしょう。


具体的に言えば、いつも笑顔で人と接すること。
笑顔は相手に対してのプレゼントです。
物は残りませんが、相手の優しい気持ちは残るでしょ。

相手を理解しようとする姿勢。
誰でも自分のことを理解してもらいたいと思っています。
辛抱強く、相手の話しに耳を傾けるのも愛だと思います。


無償の愛って、特別な時の特別なものでなく、日常にいつも人と接するときに
自分の中にほっこり持ってる愛を使えることではないでしょうか。

勿論無償なので「私が笑顔でいるから相手も笑顔でいるべきだ」とも思いません。
始めて会った人にでも、相手が好きとか嫌いとか無い状態でも渡せます。
自分の情は、関係ありません。


自分の中の作り上げたイメージを疑うのも大切かなと思います。
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質問者様の中では、「無償の愛」は偽善的なものと本物との2種類に分類されているようです。


ところが、前者と後者のどちらを批判したいのかがよく分かりません。
文章の前半では「偽善が結果的に他者の幸せにつながる事もある」「無償の愛を唱える者は結局お花畑論者だ」と前者の肩を持つような事を言ったかと思えば、文章の後半では「偽善であることを認識しろ」「本物は出会えたらラッキーくらいの代物だ」と今度は後者を持ち上げるような事を言っています。
考えが混乱しているように思えます。質問は最後の3行だけでよかったのでは?
そのうえでお答えすると、偽善は偽善を自覚しろ、というのはほぼ同意です。
本物の無償の愛は希少である、というのは不同意です。
本物の無償の愛はありふれていて、だれでも一度や二度はやったことがあると思います。
その同じ人間が、偽善的無償の愛や、最初から見返りを要求する打算的愛も同時に行っている、というのが人間の本質だと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2013/12/11 23:09

そこなんですよね、偽善服。


経験値も知識欲も装飾品なことはバカにもわかるんですが、
それが芸風と繋がるものかどうか。
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最近読んだ村上龍さんの本に書いてあったのですが、「愛と依存は別もの」であり、「愛」するためには「自立」が必要であると。



「自立」を説明しろ、と言われるとつらいのですが、人間として独立した社会的な代謝体系を維持できる事が「自立」であり、その事が人を愛する資格なのだと考えます。つまり、自身で常に(社会的な)エネルギーを産生し続ける事ができなければ、他にエネルギーを注ぎ続ける事ができないだろ、という理解です。

自立した人が人を愛する時に、その愛は「無償」のものとなり得るのではないでしょうか。

したがって、「無償の愛が本物」という言い方は意味がないような気がします。互いが依存し合って生きて行く先には「無償」はあり得ないという事を言っているだけなのではないでしょうか。

参考:恋愛の格差 村上龍
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この回答へのお礼

深みのある考え方ですね。ありがとうございました!

お礼日時:2013/02/23 10:54

 キリスト教徒の方には申し訳ありませんが、キリストは偶像だと思います。

聖書は度々手を加えられて、美しい面だけを誇張して、人間味は消し去って、「人はこうあるべきだ」「いつか救世主が救ってくれる」そう考えさせれば支配が楽になるから、そんな道具として生まれ育ったものだと思います。マリアも仏陀も、そうだと思います。信じれば生きるのが楽になるから、信じれば疑う事を放棄できるから、信じれば自分は救われるから。
 だからと言って宗教が悪いものとは思いません。大多数を救っていると言う事実もあります。なんの話かと言うと、物事の価値は人によって変化するということです。


 誰かが行う軽はずみな偽善が、苦しみに喘ぐ貧困民にとっては無償の愛に成り得るかも知れません。無償の愛と思って行った行為が、誰かのプライドを傷つけ、一方でそれを俯瞰で見ている傍観者にはただの偽善に映るかもしれません。
 小さな駄々を厳しくしつけるその行為が、愛だったと気が付くのは多く年齢を重ねた後です。
 時間によっても、人によっても受け取る愛や善の形は変わってきます。
 邪魔だと思って入れた十円玉が、巡り巡って非難難民の食料になるかもしれません。難民にとっては「日本人のお陰で……」と考える人もいらっしゃるかもしれません。

 他者を全て知りえることはできません。他者を全て愛する、他者に全て『愛されている』と感じて貰う事は不可能です。テレビの無い時代に音声だけで独裁者、救世主を作り上げるのは簡単でした。ですが情報化社会ではそれも不可能です。完璧な人間は存在しません。無償の愛は存在しません。それらは偶像だと思います。

 質問者様が先に述べられていた「私は全ての無償の愛を偽善だと言いたいわけではありません。偽善が結果的に他者の幸せにつながる事もいっぱいあると知っています」と言う言葉、賛成です。しかしながら偽善を良しと言いつつも、偽善を自覚しろと言っています。それはやはり偽善を軽んじていて、偽善を悪しと考えているからではないでしょうか。

 偽善は、善にも無償の愛でも悪にでも成りえます。全ての行為は受け取り手次第です。
 無償の愛と思って行っている善を偽善と認識させるのは少し酷に思います。無償と信じて与えてあげる善や愛ならば満足感を感じますが、偽善と感じて与える善や愛はその人に懺悔や申し訳なさを与える機械が増える事でしょう。無償の愛と信じる行為が減れば、受け取り手の不利益は想像に難くありません。

 善や愛は送る側(送ってあげる側)の感情ではなく、あくまで受け取り手の感情としてあるべきではないでしょうか。前述の「無償の愛は存在しない」というのは送り手の立場に立った場合で、受け手の立場からすれば無償の愛も存在しうると思います。

 無償でも有償でも、自分の存在肯定の為でも共依存でも悪意でも犯罪でも、受け取り手が無償の愛と感じれば、それは無償の愛ではないでしょうか。



 少しでも思考の足しにして頂ければ幸いです。

 
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2013/12/11 23:11

無償の愛の実践を、「人間だからできた」


と言った人がいた。
お姑さんにいじめられながらも、夫の親として仕え
最後は下の世話までした。
限界になって医師に相談して、施設に入れることになった時
「あなたはここまで本当によくやりましたよ。」
と言われた。
その時は涙がでた
救われる思いがした、と言っていた。
葛藤に耐えながらも、与える心を失わずに世話をしたことを
「人間だからできた」と言っていた。
誇らしげな気配は微塵もない
見捨てないという実践を飾ることもない
無償の愛とは、そうしたものではないでしょうか
すこし重いですが・・・。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

お礼日時:2013/02/23 10:54

無償の愛が「無償」なのは、目先の取引においての話だ。


ゲーム理論において、お互い相手に最大限に与えようと
した場合が、誰もが最大限に得られる、という結果がある。

目先の損得にこだわると、その奪い合いに労力を費やす
だけでなく、トータルな世界の生産性を阻害し、結局、
誰もが損をする(その中で一部の人が多少得をする)
結果となるのだ。

この世界は、お金の損得で動いているようだが、家庭の
中でお金のやり取りをしているだろうか?
人は気づいていないだけで、まだ償の愛は残っており、
そもそも生命的な本質は交配と増殖=家庭の方なのだ。
その生殖を確実にするために、二次的に派生したのが
道具であり産業、経済に過ぎないのだ。
経済(お金)を優先し、「専業主婦はお荷物だ」などと
言い出した時点で、人類は狂っているのだ。

人が生きるのは物質的豊かさのためではなく、精神的
充足量の人生を通算した最大化のためである。
人はお金をもらうためにイヤイヤ働くのではなく、それ
自体が、生物として本質的目的である“生きる事”であり、
社会生命として助け合う喜びのためである。
「無償=お金に左右されない」方が真実なのだ。
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本人からすれば、無償という自覚はないわけです。

なぜなら、感情が満足するからです。

本人ではなく、助けられた側からすれば、無償の愛と感じてしまうことはあるでしょう。

他人の視点から見た表現ではないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

お礼日時:2013/02/23 10:55

 こんにちは。



 震災で助け合いをするのは 無償の愛ではないですか?

 助け合いというように いつかは自分も補助を受けることを期待しているから 無償にはならないという理論ですか?

 あるいは 好き嫌いの感情がない場合には 愛とは言わないという理論ですか?
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