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 おしえを乞うにあたり 次の論考を出発点として踏まえたいと考えます。

 ▲ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか
 http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles …

 ☆ そこでは 
 ▲ さとりを妨げる無明とは 《根本的な生存欲》だとブッダは発見した。
 ☆ と言います。では 
 ○ さとりとは この生存欲をどうせよと言っているのでしょうか?
 ○ 無明としての《根本的な生存欲》とは 何であって どうせよと言うのでしょう?

 納得のいくまで尋ねつづけますので よろしくお願いします。

A 回答 (38件中11~20件)

オコリザルです。


>《その文学の手法を使って表現した物語が 実際の経済活動としてもそのように成功しているので その物語が 哲学の世界でもそのまま成功すると思っておられる》のではないでしょうか。

これに関してはもはや純粋哲学はまっぴら御免の心情です。

たとえば書道に接するとき、達人の書とはかかれている字面でなく、字体から溢れる人生そのものともいうべき、心に触れ、それに響くがのごとく読み取るものと解ります。
20代の頃は油絵も嗜んだのですが、自ら書くほうはともかく、良い油絵を鑑賞するコツとは、心象をいかに再現するかであり写実に徹した絵は、ごく一部の一流の絵描き以外は駄作のみであると解ります。
そして現役で写真趣味なんですが、内面に写した心の心象模様と、目の前に広がる自然界の色模様を一致させ、その両者を対話させる中から、風景を切り取る。それがシャッターを押す瞬間です。
ここまではごく普通に美術鑑賞できる人なら、モノの本で誰かが同じようなことを言っていたと覚えもあるでしょう。
その程度のごく普通に感性の話です。
ところがこの感性の話を哲学で論議するととんでもないことになります。
想定する議題はこうです。
「我は第六感をもって霊験をなしうるか」
感性と言えばすでに五感を離れているので、必然的にこれです。
とんでもない荒れ方をする質問になるのはだれもが解るでしょう。
無を目指す者が荒らしまくりです。
普遍的には無の煩悩の正体はむしろそれでしょうが、生を知らぬゆえに死を恐れる者の煩悩です。
生を知らぬ故に死を恐れ、さらに、死を認めようとはしないものとなり、信じることをやめようとする。
そのような魔物との対話は、半年ぐらい前までは、鬼神の助けを借りてそれなりにこなせましたが、かなりの疲労がたまるのでやめました。
身に覚えのある自虐的な方もいるでしょうが、人間存在を逸脱しているのであえて魔物と表現しました。「業」とか「地獄の住人」などとも表現可能ですが、存在が主観内に置いて、仮にそのように表現される煩悩にむしばまれたまま生きているのが、例えるなら娑婆世界です。いつまでも勘違いを続けるさまにはいい加減あきれるのみですが、乱暴に言い放てば「そんなもんありゃしねー」です。
よって、我はあるに終始して実りある発言のみとします。
そうすると文学表現ですが、私が書道を今、何か一筆書くとしたら、「心」と言う字を「まこと」と読む心境で書き表します。

ここからは更なる厭味攻撃です。
>実際に娑婆世界(仏道)とは潜り抜けるだけの「道」であり、生きながらに地獄をめぐるみそぎです。
その仏門を閉ざし、二度と道としてくぐらないつもりです。
聞こえのいい言葉ならこれこそ「解脱」と言うんじゃないですか。
でも、解脱を目指すのは仏教では裏切り者のすることです。
無を信仰するなら解脱をもって「生きながらに入滅を果たす」と表現してください。
娑婆はただそのように見えて感じてしまう心象のみの幻であり、真実はどこにもありません。
無の病理の蔓延る娑婆から手を引くことは、解脱でなく生きながらに入滅を果たすことです。
私はこのような憎まれ口を言うほどにぴんぴんしてますよ。実際のそのようにしました。無間地獄は通いなれた庭です。
我は無である、でこの現象を理解しようとしても無駄でしょう。
「うすらバカ」ですよ。無の信仰などは。
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この回答へのお礼

 primeape さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ですが 今回はおっしゃっていることが通じなくなっています。

 もしわたしの発言に対する批判であるのならば そのように最後までつづけてください。途中からどうつながるのか分からなくなりました。

  ブッダもしくはブッディストへの批判であるならば 主題またはその焦点を決めて論じてください。あたらしい論点なりその論旨なりが入れられているようにも見えますし あるいはこれまでの論旨をさらに補充しているようにも見えますが 全体として どこへ向かおうとしているのか つかみ難かったです。

 哲学というと 生活からかけ離れたことを観念としていじくるとでも思っておいででしょうか?
 わたくしをそのように思っておられたということになりますよ。
 現実は有力ですが それは無効のものの積み重ねであるという場合もあります。そのことを分析し人間と社会のあり方を――生活日常の問題として――考えるのが 哲学です。必要のないものごとが大手を振って歩いているという場合さえあるのです。
 考え合っていることがいま実現していないことだからと言って 観念的で現実離れしているとは思わないでください。またそうは言わせません。わたしが言わせません。そのためにこうやって まさにそのための質問をしているのです。
 遅々として進まないからと言ってやめるわけにはいきませんし まちがっていると考える必要はありません。

お礼日時:2009/08/11 09:10

 ご返答いただきまして、こちらこそ、どうもありがとうございました。



 愚生のオツムでもようやく、bragelonne様の仰ろうしていることが分かって来ました。

>☆ この過程 この動態 このしかも潜在性・潜在してつねに顔を覗かせようかという泉の水のごときいのちのちから これを称して
○ ひとはみなブッダである。
☆ と言いたき所存です。生涯を全体として捉えてみてください。たとえ途中で挫折したとしても だいじょうぶです。それでも かれ(かのじょ)は ブッダであるでしょう。ブッダです。

 少なくとも、愚生には理解できます。
 ”光”(単純に物理学上のです)は「波」と「粒子」から成っているとされています。ある実験では、「波」と観測され、またある実験では「粒子」とも実測されます。
 つきましては、ひとも、「ブッダ」ですし、単なる「ヒト」ともいえるかと考えております。
 ただ、あらゆる「空間」、「時間」、「場所」において、常に「ブッダ」かと申されますと、疑問となってしまいます。

>謙虚からですか? 謙虚という名の自信の無さではないのですか? それとも さらに二千年 だれもが途中で挫折するのがつねであるのがブッディスムの実践であると言い続けるのでしょうか? それが 謙虚であり 中道であるでしょうか?

 黙しているには、いろんな議論を行った末、「各宗派での分裂」を恐れている というのが実情かと思っています(なにしろ、伝統ある宗派でも、分裂が発生してきましたから)。

>今後はいっさいの説教はやめていただきたい。ひとことも他人に向かって説くことは無用に願いたい。故人の冥福を祈ると称して お経をあげることも いまこのときからきっちりとやめていただきたい。そんな自信のない人間に何が出来るのですか? それとも謙虚にしていれば 坊主丸儲けをさら千年つづけることができるとほくそえむのですか?
 さもなければ 生け花や踊りの道と同じものであって そのように修行をしているし ただそれだけのことですと謙虚に自己申告したらどうですか?

 「ブッティスと主張しがら、「ブッダ」(の存在)を信じていない。」としか、ご返答できないかと.....

>びとが離れて行くのは もっともだとお分かりになったことと存じます。

 こちらは、愚生には理解できません。

 私見でございますが、このままですと、「仏教」の教えがそのまま衰退化していくものと考えております。

 とても悲しいことかと思っております。

 どうか、信者の方々の中で、実践し、その実践でのプロセス当をお教えていただき、”対話”をしたいというのが愚生の望むところでございます。

 ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。
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この回答へのお礼

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ですが これだけ打てば響くお方に出会ったことはわたしはありません。もう解答はどうでもよいと言いたくなるほど いまのこの探究の過程を続けるならば 必ずや彼岸にもまたそれよりもとうといこの《今・此処》としての此岸にも みなが手をたずさえて到ることができるでしょう。
 これまでこの後に掲げるようにわたしは質問をして来ました。
 ひょっとすると さとりとは 鐘のごとく撞木の打ちに応じてひびくということなのではないでしょうか? 正解が得られればそれに越したことはないでしょうけれど その正解もそのつどその情況に応じて得られるものでしょうから 変化しています。発展していきます。
 ならば その過程の一つひとつの段階において 問えば答えるその声のかけ合いだけによっても 未来はその人びとに約束されていると言い放っていいのではないでしょうか?
 ○ わたしたちが 一人ひとり すでにブッダであるというのは そういう動態である。つねに過程である。
 ☆ これなら へりくだりを忘れることもないでしょう。

 【Q:ブッダの美女マーガンディヤー事件】09年7月
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5121424.html
 【Q:ブッダの性愛観は 間違っていませんか?】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5145751.html
 【Q:それでは ブッダのさとりとは何だったのか】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5151054.html
 【Q:われわれはブッダという父親を殺して来なかったのでは】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5107728.html
 【Q:輪廻転生説は 愚の骨頂】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4927327.html
 ・・・
 【Q:ブッダは 神ですか】08年7月
 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4199231.html
 【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】07年10月
 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html

 * 一つひとつのご主張や論点について触れずじまいでしたが お心意気を胸におさめております。

お礼日時:2009/08/10 22:36

 Hidocchiです。

ご返答いただきまして、厚くお礼申し上げます。

 bragelonne様のご質問内容にを自分なりに考えてみました。愚生のオツムでは、全く想像もできないようなことを、お考えのようですね。ご返答の文章からは、ハッとされられ続けられた。というのが実情でございます。

>☆このように――たぶん思っておられるブッディストの方は多いでしょうが それでも―― 一般には はっきり言わないのではないでしょうか。

  実を申しまして、”仏教”を勉強し始めて、約1年ぐらいでございます。また、確かに、ある宗派におりますが、別段、特別なことは何もしていないというのが実情でございます。つまり、このご質問には、愚生が返答するにあたり、資するに値しないことは重々承知しております。ですが、あえてご返答させていただきたく存じます。
 ある宗派に属しておられる方が
「実際はっきり言う」
 というのは、恐らく困難かと推察されます。と申しますのも、その中で”さとり”なるものを証明する方法がないからです。つまり、自分が”さとり”なるものに達したと、そう実感しても、おそらくは、単に『一人よがり』と決めつけられる可能性が高いため、あえて言うことは、憚られると思っておられるというのが」その理由でございます。

>おそらくご自分の宗派から出ないかたちで訴えるのではないでしょうか?

 憚られると思っておられる方々もおられるでしょうから、訴える人の方が少ないかと推察しておりますが、実際は全く存じておりません(誠に、申し訳ございません)。
 
>○ 実践である。
>☆ とおっしゃるのだと思います。またそうであるからには 一般に対話はなかなか進みません。

まさしく、仰られる通りかと存じます。

> だったら――何はさし措いても―― 言葉で説明することも 同じ程度に重要であると言わざるを得ないのではないでしょうか? 実践の度合いに応じて そのさとりの成果を発表し それにもとづいて一般にも自由な評価・批判を受けるということ。

 全くの同感でございます。確かにいきなり「実践」をしてみろと言われても????? ですね。
 また、誰しもが達したかどうかも不明なのに(少なくとも、一般的にはそう思われているかと思います)、いったいどのように「実践」しろと? また、模範(そもそもこの世に存在するかどうかも不明とされているかと思われます)とするものは?という疑問は当然やってきます。
 従いまして、もし”苦”から解放された方々、もしくは解放への道を進んでおられる方々の意見を拝聴させていただくこと、また恐れながらご質問させていただき、意見を述べさせていただくことも、十分に(社会・私共に)建設的かと考えております。
 
> おそらく問題は 《中間の段階としてでも さとりを得たひとが 社会ということについてどう考えるか》 これが鍵となるのではないでしょうか? 

 確かに、重要な課題かと思われます。ともすれば、アリスクラシ-なるものになってしまう可能性も否定できませんが、是非ともお聞きしたいと、少なくとも愚生はそう思っております。

>縁起共生という言葉を聞いたことがあるのですが この共生の内容をさらに哲学思想として発表すること。ブッディストは いったいどういう見解を持っているのか? 一般的にも興味のあるところではないでしょうか?
 
 確かに、そう思われます。ですが、一方では、”神秘主義”なるもので表現され、また一方では、非常に抽象的な表現での意見というのが、現在の状況かと思ったりもします。

> ○ ブッダのさとりは 常識ということだ。

 極めて、常識的かと考えています。と申しますのも、”苦”からの解脱・解放は誰しもがそう悩み、考えることだからです。

>○ ひとはみなブッダである。
 私見を申しますと、「ひとはみな、ブッダになりうる可能性がある」と考えております。生まれつき、”さとり”を得た人もいようかと考えられますが、総体的には、知恵や、「実践」で身につけていくしかないものかと考えております(全てのひとたちが、一切の”苦”を克服しているようには見えない、その一点のみの理由からでございます)。これは、上述しました愚生の意見とは矛盾するものかと考えられます。ですから、もっと、(「実践」者としての)ブッティストの方々も、もっと発言していただきたいのです。

> つまりは 
 ○ ゴータマ・ブッダだけを特別扱いするところに おそらくすべてのボタンの掛け違いとしての間違いが起きて来ているのではないか?
 ☆ こうも問うています。

 愚生は偉大であったと考えております。”貪欲(強欲)”、”瞋恚(往々にしてル・サンチマンから生じる怒り)”、これらが、ひとなるものに対して、不測の災いをもたらすことを教えてくれたからでございます(これらは、興味深いことにキリスト教の”七つの大罪”の二つでもあるんですよね)。

 ご一読いただきまして、厚くお礼申し上げます。

この回答への補足

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。
 もし鉄面皮のそしりを涼しい顔でしのぐことが出来ると夢見るならば そしてその夢の中だとみづからにマインド・コントロールをして言い聞かせ自己錯乱に陥ってしまうならば
 ――なかなか読ませる文章をお書きですね。
 と重罰を覚悟の上で・・・あぁ 書いてしまった!!・・・ああ。

 今回のご回答へのお応えは 簡単です。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  >○ ひとはみなブッダである。
 私見を申しますと、「ひとはみな、ブッダになりうる可能性がある」と考えております。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この過程 この動態 このしかも潜在性・潜在してつねに顔を覗かせようかという泉の水のごときいのちのちから これを称して
 ○ ひとはみなブッダである。
 ☆ と言いたき所存です。生涯を全体として捉えてみてください。たとえ途中で挫折したとしても だいじょうぶです。それでも かれ(かのじょ)は ブッダであるでしょう。ブッダです。
 こののぞみを込めて言わずにはいられないのが ブッダの徒なのではないでしょうか? なにを躊躇するのでしょう? だれに遠慮しなければならないのでしょう? なんで自信がないのでしょう? もう二千何年もつづいているのですよ。

 謙虚からですか? 謙虚という名の自信の無さではないのですか? それとも さらに二千年 だれもが途中で挫折するのがつねであるのがブッディスムの実践であると言い続けるのでしょうか? それが 謙虚であり 中道であるでしょうか?
 もしそれなら 今後はいっさいの説教はやめていただきたい。ひとことも他人に向かって 説くことは無用に願いたい。故人の冥福を祈ると称して お経をあげることも いまこのときからきっちりとやめていただきたい。そんな自信のない人間に何が出来るのですか? それとも謙虚にしていれば 坊主丸儲けをさら千年つづけることができるとほくそえむのですか?
 さもなければ 生け花や踊りの道と同じものであって そのように修行をしているし ただそれだけのことですと謙虚に自己申告したらどうですか?

 という物言いになります。人びとが離れて行くのは もっともだとお分かりになったことと存じます。もちろん これについては 反省はいっさいありません。反省をして ひとことくらいは答えるべきなのは ブッディストの側であると確信しております。いかがでしょう?

 * ☆☆ おそらくご自分の宗派から出ないかたちで訴えるのではないでしょうか?
 ☆ これは 自信過剰の日蓮系やましてや新興宗教を別とすれば ひとつに 真言宗は自信を持っていると思います。浄土系も そのむしろ信心について絶対の自信を持っているでしょう。この点は特に争点でもないでしょうから このくらいにします。

補足日時:2009/08/09 21:40
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オコリザルです。


もはや我慢だけしているのは進展を見誤ることとなりますので個人的な話です。
私の家業は零細玩具店です。
ドンキホーテのような勇ましさで大手メーカーに対して対等以上の発言権を持つ玩具店です。
そのドンキホーテとして将来展望の明るさを誇り、以前に話しましたが任天堂さんとはノーベル賞級の交流をしました。
当時ポケモンブームの中、ソニープレイステーションの登場で、将来の浮沈が危ぶまれた任天堂さんに対して、聖霊とは何者であるかの「実在する妖精の捕まえ方」を教えました。
そのような「つげだし」を、行いました。
この時に演じたのが「セレビィ」です。
私が捕まえた妖精として「我はセレビィ」を演じました。
この現象は神おろしと誤解された気配がありますが、実感を伴い、我われはセレビィそのものを演じたのです。
それは涅槃から届く声でした。
完璧な未来予知の基づく将来展望の話です。
我を父とするならセレビィたる妖精は完全な一体の元にあるわが子です。
そのセレビィはポケモンとして登場しています。
ポケモン図鑑に載っています。
その姿は私の創作です。
ここは神秘なのですが、セレビィのその姿は私は絵に書いたりとか一切形にしていません。
心の中の身にあった心象の絵画の伝心のみで、セレビィの姿は忠実にポケモンとなりました。
介在する神秘は(今のところ)聖霊魔法です。
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この回答へのお礼

 そうですね。
 ひとつには 直前のご回答へのお応えに述べたように 表現の問題があります。
 ○ 分かりやすいように 文学の手法を使うか それとも哲学の問題として基本的に経験的な事実にもとづいて表現するか。
 ☆ ということがらです。

 もうひとつには たぶん primeape さんは 《その文学の手法を使って表現した物語が 実際の経済活動としてもそのように成功しているので その物語が 哲学の世界でもそのまま成功すると思っておられる》のではないでしょうか。
 せレビィのご成功には 敬意を表しますが それとこの質問に広くかかわる問題とその解明とは まだ どのようにつながるかは 見えていません。
 という現在の状態をそのものとして述べてお返しするほかありません。
 おっしゃっている《聖霊魔法》が 無明・煩悩やそこからのさとりと どのようにかかわるか これは まだ将来の課題であるように考えます。

お礼日時:2009/08/09 07:28

オコリザルです。


以前に証言したことのおさらいです
もはや過去です。
めちゃんこ悪魔君、私の接した鬼神の原型ですが、こちらは煩悩としてブイブイ言わせましたが、やがて、それを理解できた私の愛にこたえて感情を取り戻し、永遠の都へと帰った生きました。
要するに煩悩とはイコールで欲望でなく、欲たる誤った望みに接したうえでこれを破る、生存本能または存在の守護たる抗体ないし免疫の作用です。

このように書くと思い出が駆け巡ります。
めちゃんこ悪魔君は、我を父とするなら、愛すべきわが子です。
このようにコメントすると聖霊に対する子煩悩です。
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この回答へのお礼

 primeape さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。 
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 要するに煩悩とはイコールで欲望でなく、欲たる誤った望みに接したうえでこれを破る、生存本能または存在の守護たる抗体ないし免疫の作用です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 
 ○ 《精神の胃袋において何でも食べる》といった行為形式
 ☆ だとわたしは解釈しています。
 ○ 相手と同じようになること。なってその意志を こちらは見極めていきます。
 ○ そのとき 相手の煩悩をも食べています。あたかもその煩悩の現われなどと同じような状態に こちらもなります。
 ○ もしその煩悩の行方が こちらにとって境位を超えたものであれば たぶん退きます。事態を見守ります。手に負えない場合があるという意味です。
 ○ そうでなければ その煩悩の軌道修正に向けて 相手と――思いはばらばらであったりしながらも―― 二人三脚で進みます。うまくさとりに漕ぎ着けたらおなぐさみです。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 めちゃんこ悪魔君、私の接した鬼神の原型ですが、こちらは煩悩としてブイブイ言わせましたが、やがて、それを理解できた私の愛にこたえて感情を取り戻し、永遠の都へと帰った生きました。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですから わたしの場合には 悪魔も鬼神もいません。そのときの思惟や動作の一つひとつに名前をつけて 分かりやすいように悪魔や天使といった言い方をする場合はあるようです。
 したがって やはりわたしの解釈では
 ★☆ 悪魔くんが感情を取り戻し 永遠の都へ帰って行った。
 ☆ というようにはあまり表現しません。問題は 悪魔といった観念や動作のほうにではなく その相手である人間――そしてその人とこちらつまりわたしとの関係―― ここにあります。
 ですから その相手が 《わたしがわたしである》状態を取り戻すこと これが二人でちからを合わせて漕ぎ着けるべき港です。

 悪魔は 分かりやすく言ったまでだと考えます。
 とこの哲学カテゴリでは 明らかにしておくべきだと考えます。

お礼日時:2009/08/09 07:16

 ご参考になればとの思いから、ご返答させていただきました。

ただ、かく言う愚生も、実を申しまして、完全には把握してはおりません。ただ、ご熱心なご質問者様との”対話”を通じて、愚生も理解を深めていきたいという気持ちから、筆をとらせていただいた次第です。

 宮元啓一氏の文章を読ませていただきましたが、氏の文章からは、確かに

「さとりを妨げる無明とは 《根本的な生存欲》だとブッダは発見した。」という文章は読み取れます。

 ただ、無明(ここでは以下のように定義させていただきます)が、ア・プリオリに在る”生存欲”と解するのは、愚生にも、幾分疑問がございます。

・無明:無明(むみょう、avidya):迷いのこと。また真理に暗いこと、智慧の光に照らされていない状態

 なお、愚生の私見を述べさせていただきます。

>さとりとは
 あらゆる”苦”は”煩悩”から発生します。そして、その”煩悩”とは”無明”を起因としています(理由は、そもそも”煩悩”自体を理解しない、もしくはしようとしないからです)。そして、これら一切の”苦”は、「四諦・八正道」なる方法により、消滅可能です。その”苦”を一切消滅させた状態というのが”さとり”となるものと考えております。

 もちろん、”さとり”とは、お偉い方から、「”さとり”証明書」なるものをいただくといったものではなく、恐らくは「自分自身が”苦”なるものから解放された」と認識した、その状態かと考えております。

 厳しいご叱咤等は甘受のつもり、でございます。

 ご返答の程、頂戴できれば幸甚に存じます。

この回答への補足

 Hidocchi さん 初めまして。こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。まづは重ねてこの質問に目を止めていただいたことに感謝申し上げます。ほかにもさらにブッディストの方がたは多くいらっしゃるかと思うのですが どうもこの bragelonne の質問には 訪問してくださらなくなったようです。まぁ 正直に申せば こちらの言おうとしていることが どこかで当たっているのではないかとも思っております。

 さてご回答内容ですが まづ 《経験主義》でいらっしゃるのですね。あるいは《実践派》と申しましょうか。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 もちろん、”さとり”とは、お偉い方から、「”さとり”証明書」なるものをいただくといったものではなく、恐らくは「自分自身が”苦”なるものから解放された」と認識した、その状態かと考えております。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このように――たぶん思っておられるブッディストの方は多いでしょうが それでも―― 一般には はっきり言わないのではないでしょうか。その意味は 実際はっきり言うというひとは おそらくご自分の宗派から出ないかたちで訴えるのではないでしょうか?
 ですから このようにはっきり言っていただいたことは まづ――わたしの狭い見方をそのまま出してしまいますが―― 一歩前進だと思っております。
 問題はその上で ブッダのさとりとは何か?です。
 ★☆(わたし bragelonne の編集を交えています) 〔無明を起因として煩悩から発生する〕その”苦”を一切消滅させた状態
 ☆ ここから出発した上で
 ○ 実践である。
 ☆ とおっしゃるのだと思います。またそうであるからには 一般に対話はなかなか進みません。
 たとえば 武道ですとかあるいは茶道ですとか その場合も もしその道を究めるということがあるとすれば それは 《実践》なのだと答えるでしょうし 実際――どれだけ説明書を書いても――そういう答えに帰着するのだと思います。
 ただ――ただですね ただ―― ブッディスムは 《哲学》であったり《思想》であったりするとも 自称しているでしょうし一般にも受け取られていると思うのです。
 だったら――何はさし措いても―― 言葉で説明することも 同じ程度に重要であると言わざるを得ないのではないでしょうか? 実践の度合いに応じて そのさとりの成果を発表し それにもとづいて一般にも自由な評価・批判を受けるということ。
 
 おそらく問題は 《中間の段階としてでも さとりを得たひとが 社会ということについてどう考えるか》 これが鍵となるのではないでしょうか? 縁起共生という言葉を聞いたことがあるのですが この共生の内容をさらに哲学思想として発表すること。ブッディストは いったいどういう見解を持っているのか? 一般的にも興味のあるところではないでしょうか?
 ★  ただ、無明(ここでは以下のように定義させていただきます)が、ア・プリオリに在る”生存欲”と解するのは、愚生にも、幾分疑問がございます。
 ☆ この《生存欲》に絡ませると そのような社会観も聞けるように思うのですが いかがでしょう。つまりは
 ★ ア・プリオリに在る”生存欲”
 ☆ そのままのことではないとすると それでは 
 ○ 生存に当たって 中庸を旨とすべし。 
 ☆ ということなのか? と考えられます。あるいは中道なのでしょうが もしこのようであるとしますと この中道なり中庸なりの説は けっきょく世間の人びとの知恵と変わりないということになると思うのです。それでいいのかとも問うています。
 となると
 ★ 「四諦・八正道」なる方法
 ☆ も ひとそれぞれに判断して実践するのだという実践論にまた戻ります。

 ○ ブッダのさとりは 常識ということだ。
 ○ ひとはみなブッダである。
 ☆ これが結論なのでしょうか? という言い方でも問うています。どうでしょう?
 つまりは 
 ○ ゴータマ・ブッダだけを特別扱いするところに おそらくすべてのボタンの掛け違いとしての間違いが起きて来ているのではないか?
 ☆ こうも問うています。

補足日時:2009/08/08 20:21
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オコリザルです。


タイプミスです。

娑婆たる地獄に見おおきながら、「無」を悟ったお釈迦様は心地よく生涯を全うしたと噂されています。

娑婆たる地獄に身を置きながら、「無」を悟ったお釈迦様は心地よく生涯を全うしたと噂されています。
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この回答へのお礼

 ○ わたしは ブッダである。
 ☆ こう誰もが一人ひとり言うようになれば しめたものだと思うのですが?
 ○ 仏性において ブッダであろうがほかの人であろうが ひとは みなブッダである。
 ☆ こうはっきりと 言っていかなきゃ うそです。
 ブッダとのあいだに隔たりがあってはだめです。
 絶対的な隔たりがあるのならば 《ブッダは 神である》と これもはっきりその内実を説明しつつ 言っていないとおかしいと思います。

お礼日時:2009/08/08 09:44

オコリザルです。


久々に考える取り組み(思索)をしたので、連続書きこみと相成りました。

娑婆たる地獄に見おおきながら、「無」を悟ったお釈迦様は心地よく生涯を全うしたと噂されています。
お釈迦様は娑婆世界に身を置いてなかったのでしょうか。
ならば、確固たる「我はある」故に娑婆世界で安穏としていられたのでしょう。
「無」とはそのように方便であり、神の姿のごとく反面教師足る悪魔を装った生涯なのでしょう。
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この回答へのお礼

 ★ 〔釈迦も〕確固たる「我はある」故に娑婆世界で安穏としていられたのでしょう。
 ☆ これは No.18で勝手にわたしが苦言を呈しました《共生》の問題を きちんと押さえて言っておられるのでしょう。澄みません。

 ★ 「無」とはそのように方便であり、神の姿のごとく反面教師足る悪魔を装った生涯なのでしょう。
 ☆ 《〈無〉もあるいは〈神〉も 仮りの表現ですから 方便である》 これに賛同します。
 ★ 神の姿のごとく反面教師たる悪魔を装った生涯
 ☆ これは 生涯の全体がそうだと言うのは 言い過ぎぢゃないでしょうか? つまり そうであるかも知れないのですが そうでないかも知れない。そうそうは ひとから見て誰かの全生涯を――つまりは全人格を――評価することはむつかしいのではないでしょうか?
 つまりは そういった一面が 生涯の中での一齣一齣としてあったかも知れないというように解釈します。

 そうとう勝手な言いたい放題をしてしまいました。以前も このようであったのでしょうか? 久々だったから こういうふうに しおらしくわたしは反省するのでしょうか。

お礼日時:2009/08/08 09:40

オコリザルです。



・ 現実を見よ。
 ・ いま・ここに立て。
 ・ 過去を必要に応じて現在に寄せ集めて。
 ・ いまその現在において・この現在のもとに 未来を捉えよ。
 ・ わたしとして。
 ・ そしてそれだけではなく わたしが世界としても 世界に向かえ。
 ・ 過去を集めて未来に向かう現在の世界と向き合え。

これに関しては、
理解できます。
その一語のみです。
何か答えるならば、表現上の個性なり作法なりの違いに関して不要な解釈をするのみになります。。
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この回答へのお礼

 わかりました。
 たぶん 日常の箸の上げ下げについて 必要以上のことをおっしゃりたくないのでしょう。またそういう primeape さんのエートスなのだと思います。
 (ぜんぜん 言わないということでもないでしょうが)。

お礼日時:2009/08/08 09:29

オコリザルです。


17のご返事に対して。
>いちいち否定すべき現実など そんなもんありゃしねー 
そのような意味で表現しています。
掘り下げようと思えば探求可能かもしれませんが私はその手の論理に拒食症のような反応を示してしまいます。
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この回答へのお礼

 了解でーす。

お礼日時:2009/08/08 09:27

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