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お世話になります。以前梵我一如について質問させてもらったことがある者です。
インドの伝統では、梵と我が究極ではひとつである、という真理はどのように体感されるものなのでしょうか。我はどこまでも対象化できない存在だとされているそうですが、そうすると梵も同じく対象化できない存在になるのだと思いますが、その両者の合一は論理的に、また感覚的にはどういう仕組みになっている、ということになるのでしょうか。
わかりにくい質問ですみませんが、インド人なりの納得の仕方というか、どのように腹に落ちつくのか、というあたりに関しての質問です。
ご存知のかたよろしくお願いします。

A 回答 (7件)

 


質問はたいへん難しいもので回答が困難とも言えます。ただ、「梵我一如」という思想は、ウパニシャッドに遡るとしても、その後の二千年、二千五百年の思想の歴史で展開して行ったものです。

このことを考えると、インドにおける重要な思想体系としての「サーンキヤ思想」における「プルシャの独存」という考えと、独存のための修行過程が一つの答えになるかも知れません。「プルシャ」というのは、純粋精神とも言えるもので、これは或る意味でアートマンの言い換えでもあるのです。

つまり、精神の現象と世界などの物質現象の現れについて、これを理論的に説明する思想がサーンキヤ思想なのです。そしてサーンキヤ思想では、「プルシャの独存」という仏教だと「解脱」に対応するような、純粋精神の実現の課題を考えます。どのようにプルシャの純粋性を達成するか。

実は、サーンキヤ思想のこのような課題に対応する「実践的修行体系」として、古典ヨーガの瞑想修行や思想のシステムが構想され築かれています。つまり、古典ヨーガでは、プルシャの独存の達成のための修行の段階を説明し、最終の「独存」に至るまでの瞑想修行の過程が解説されているのですが、このような古典ヨーガの瞑想修行過程において、「得られる体験」が、梵我一如の真理の確認体験の一つだとも言えます。

なぜなら、先にプルシャとは、アートマンの言い換えだとも言いましたが、「プルシャの独存」とはどういう事態なのかを考えると、これが「梵我一如」と密接な関係を持つことが分かります。「プルシャの独存」は、マーヤーの幻からの「完全な離脱」を意味します。

このとき、個々の人のプルシャは、その「本質」が明らかになる訳で、独存状態においては、プルシャは「誰かのプルシャ」ではなくなり、個々人の精神の根柢にある、原型としてのアートマンそのものに一致し、アートマンはこのとき、個々人のアートマンではなく、本来の「唯一なるアートマン」となり、この「唯一のアートマン」とは則ち、「ブラフマン」に他ならないからです。

ブラフマンがマーヤーにおいて現象を展開してゆくことにおいて、わたしとかあなたなどの「個人」の区別が生まれ、その個人の主体精神の本質としてアートマンが考えられているのであって、マーヤーから脱した純粋なアートマン、つまり「独存のプルシャ」は、結局、ブラフマンと一致することになるのです。

インドにおいては、古典ヨーガの瞑想修行を通じて、梵我一如の真理が体感されるのだとも言えます。(古典ヨーガとは、『ヨーガ・スートラ』に述べられている瞑想修行体系とその実践思想で、ヨーガはこの後、様々に展開し多様なものとなりますが、しかし、根本には、古典ヨーガの思想が流れています。ヨーガ一般の最終目標は、マーヤーからの離脱、従って、プルシャ、アートマンの独存なのです。従って、ヨーガの瞑想修行を通じて、梵我一如の真理の確認が試みられるとも言えます)。

なお、ヒンドゥー思想には「自我の四つの意識水準」という考えがあるのですが、この考えも含めて、不二一元論の真理確認について、参考URLのページに説明があります。質問者にとって示唆となるのではないかとも思います。
 

参考URL:http://www.max.hi-ho.ne.jp/aisis/memo-random-1/r …

この回答への補足

ありがとうございます。
金岡秀友著『インド哲学史概説』という本によると、サーンキヤ学派ははっきりと二元論の立場に立っていて、ヴェーダの理想とする梵我の一元論から決別してしまっていること、それからこの学派は理を覚って解脱するのが主で、瞑想は補助的に用いられる、というようなことがるる書いてあります。
できれば伝統的なヴェーダーンタ学派の理解をお願いしたいと思います。

補足日時:2004/11/30 21:31
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釈迦は,無神論者であったとは言えない.


ただ覚りへの道を説いた.

人がどのように梵我一如を体感するかなど聞いても意味がない.
神の存在を言えば,
人はそれを現実に見ようとしてしまう.
擬人化された神など妄想の種でしかない.
覚りへの邪魔になるだけだ.
と釈迦は言うだろう.

この回答への補足

質問がうまくないのかも知れませんが、別に釈迦のことをお尋ねしているわけじゃありません。ウパニシャッド哲学で最重要とされる、梵と我の関係を質問しているだけです。

補足日時:2004/11/25 20:27
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仏教に仏凡一体という言葉があります。


仏心凡心一体ということですが、
凡心とは凡夫(人間)の心ということで、
欲や怒りや愚痴の煩悩のかたまりです。
私たちはそれらのものに毎日煩わせ悩まされて
満たそうとしても、なくそうとしても、安心・満足できません。
そこで仏様が大安心大満足の心(仏心)を与えようと
されているのです。
その通りに仏心を頂いた人は仏心と私の心(凡心)が
一体になります。^^^^^
ちょうど炭に火をつけたようなもので
どこからが炭でどこまでが火か分けられません。
同じように黒くて冷たい人間の心と
真っ赤で暖かい仏の心とが一体になったことを
仏凡一体といいます。
梵我一如も同じ意味ではないでしょうか。

この回答への補足

ありがとうございます。一応インド思想の概論は読んだうえで質問させてもらっているのですが、大乗仏教で仏と衆生が一体だ、と主張するずっと以前から、ウパニシャッドの梵我一如という思想はあるわけですし、内容も結構違うように思います。

補足日時:2004/11/25 20:32
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#3、ごめん 「(3)その通りです。

(1)に同じ」は意味不明、間違いです。
(2)唯我独尊の我って、ここでいう我とは違うんじゃないでしょうか?
(2)天上天下唯我独尊という意味は、梵天と我が同じという意味です。つまり釈尊は、地上に肉体(我)をもって自らが梵天であることを悟ったという意味ですね。更に、天上天下唯我独尊という意味は(1)での羊羹一本分ということにもなりますね。ちょっと大き目の羊羹というのではないと取れますね。こう言い放った方は、前にも後にもいませんね。これが本当の意味での梵我一如ですね。
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#1からの追伸程度に


(1)羊羹を半分、半分と無限に切っていってもその1つ1つは羊羹ですね。積分の考え方ですね。最初の1つの羊羹を梵天とすれば、微小の羊羹が我になりますね。どれも羊羹ですね。これ算数の鼠算なんですね。
(3)その通りです。(1)に同じ
(3)天平の甍、空海伝でも読むといいですね。空海という名の由来が、高知の足摺岬の洞窟で修行をされているときに体が巨大になり、口には流れ星が入ったという神秘体験をし、そのとき見た空と海から空海となずけたとのことですから。
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> 梵と我が究極ではひとつである、という真理はどのように体感されるもの



個別の、「宗派の教義」に付いては、ほとんど何も知りませんが、「梵我一如」とは、
自然的世界の根本原理である、「梵」(ブラフマン)と、人格的な自我の原理である、
「我」(アートマン)との、同一無差別であるという思想、と言うことらしいですね。

このような思想の会得は、仏教を習得する個人の境涯や、能力によっても違ってくると
は思われますが、私の場合は、主に「日蓮御書」や「仏教解説書」や「進化論啓蒙書」
などを、同時平行的に読んでいるときに、その根本の原理が理解できたように思います。

少し具体的に説明しますと、大乗仏教には、心の中の状態を表す「理論の一つ」として、
「十界」や「十界互具」と言うような考え方が有るのですが、これら時々刻々と変わる、
人間の心理状態とは、一体どのような【 人間の本質 】から発生して来るのものか?と、
考えて見た時、【 人間の本質も、生命の本質 】も、基本的には同一原理で動いていて、
究極の部分では、「何ら変わりの無いものだった」と、気付く瞬間が出て来たわけです。

それらの思想が理解出来てきて、【 考え方の習慣 】も、迷いの少ないものとなると、
実際には、それからも長い年月は掛かりましたが、体感の感覚で有る【 感情 】の方も、
「満足感の多く出る心理状態」に徐々に変わって来た、と言うのが現在の状況ですね。

> 地球即我といった空海上人の体感例が有名ですね。

大乗に限ったことかは、良く知りませんが、石や水などの物質を含め「宇宙全体が生命」
の本質を持つと考えられるようになれば、【 人間の本質も、宇宙の本質 】も同じだと、
まぁ「理論的な悟り」だけですが、一応得られた、と言える状態になるのでしょう。

しかしやはりと言うか、「理論的な悟り」だけは単なる知識レベルの悟りなので有って、
「本当の悟り」とは、その行動に表れてこそが、本当の本物になれると思われますので、
日ごろからの、多少の「実践修行」は、必要とされるのでしょう。

とは言っても、私が最近もバイクに乗っていたとき、停車中の自動車の横をすり抜けた
途端、その自動車から激しくクラクションを鳴らされ、追掛けてきた自動車の女性から、
『 接触したデショ! 』と抗議が有ったときには、流石に怒りが爆発してしまったこと
も有ったような状態なので、< 私もまだまだ修行が足りていない!人間だった >と、
改めて、自分自身に教えられてしまったと言うような、お粗末な今日この頃です。(w

この回答への補足

ありがとうございます。質問がうまくなかったのだと思いますが、ポイントは要するに、次のようなことです。
ヴェーダの中ではアートマンは自分を動かす存在&原理なので、自分の意識の中に対象化できない存在だとされているそうです。そのアートマンと本来同じだというブラフマンとの合一は、「私」にとってはどういう風に知覚されるのか。対象にならないはずのものがどういう論理で観察できるということになっているのか。そして、その時(梵我一如が体感されるとき)はインド人にはどういう心の状態をさすことになっているのか。

補足日時:2004/11/25 20:39
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参考程度に


数学的に表現すると、1が2に分れ2が4に分れと無限に分裂して行きます。無限に分裂したそれぞれが我として本来の梵は一番最初の1になります。つまり、梵と我は同じ数字ということですね。でも一番最初の梵(1)は、天上天下唯我独尊と言い放った釈尊のみで、一般的な梵は、分裂数からみて最初のほうを全て梵として考えますね。つまり上の数ということで、梵我一如というのは、我が上位の梵の一部、及び我同士が同じであることを理解し体感することですね。体感例としては、地球即我といった空海上人の体感例が有名ですね。

この回答への補足

すいません、ちょっと独創的な回答ですよね。
以下の点、もしおわかりになるなら教えてください。
(1)表現上のたとえだとは思いますが、我は梵が分かれたものではないんじゃないでしょうか? それに分かれていったら数字は小さくなるわけで、元の数字とは違いますよね。個が全体と一緒、というのは数字ではちょっとたとえられないのでは?
(2)唯我独尊の我って、ここでいう我とは違うんじゃないでしょうか?
(3)空海は本当にそういうことを書いているんでしょうか?

補足日時:2004/11/22 20:40
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