なぜ直接には説かなかったのでしょう?
(α)の見解: バラモンないしウパニシャドの思想を改めさせるための開拓者として立ったから 直接には説かなかったが それはしかるべく後世において説かれるように用意はしておいた。
それは 仏性をそのまま出すと ヱ゛ーダにおける《アートマン(我)》と紛らわしくなるからだ。
(β)の見解: 《仏性ないし如来蔵》は ブッダの説ではない。
(γ):その他(?)
* もし(β)の見解を採る場合 ではブッダはいったい何を言おうとしているのでしょう? つまり潜在的な能力が普遍的にあるかないか分からないけれども いわゆる《さとり》を目指すということなのでしょうか?
* ブッダにかんしては 何もちっとも分かっていないのではないでしょうか? 活かすべきものがあるとすれば 大いに明らかにして共有の財産としたいと思います。なければ はっきりと無いとやはり明らかにすべきだと考えます。どうでしょう?
No.22
- 回答日時:
No.16です
>>>
物言いもあります。次のひとつの問いにまとめることができます。
○ 《心の伸び》は
( a ) 仏性を求めて伸びるのか? それとも
( b ) 仏性と仮りに呼ぶ生命力なりそのような〔良心とその自由意志のごとき〕自然本性なりが おのづと伸びるのか?
<<<
私であれば、質問文を以下の様にします。
以下、●●は実在物ないし概念とします。
概念の場合、その概念が指し示すであろう対象については「ある・ない」を不問とします。
===
(a)●●を求めて「自ら」(みずから・能動的に)伸びるのか?
それとも
(b)●●によって(受動的に)伸ばされるのか?
それとも
(c)能動性と受動性とが【全く同時に】働くことで「自ずから」(おのずから)伸び・伸ばされるのか?
===
私の場合、(c)です。
「自ずから(おのずから)伸びる」は、(a)と(c)とを混同している表現のように思われます。
「自ずから」も(他者の力を借りずに)「独りでに」であれば、「自ら」と同じになってしまい混同が生まれます。これは自然を「しぜん」とよむか「じねん」とよむかにも関連することでしょうが、その「しぜん・じねん」といった概念にすら、曖昧性が混在しています。
これは、暗黙裏に生じる(「内部・外部」といった)境界線の設定によっています。
以下は、蛇足かもしれませんが、参考までに。。。
>>> http://www2.big.or.jp/~yba/Real/q52.html
自然法爾の事。
「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず。
正嘉二年十二月十四日 愚禿親鸞[八十六歳]『親鸞聖人御消息』14)
---
訳
「自然の自はおのずからということであります。人の側のはからいではありません。」
<<<
これは、如来を「人の側」に対置することで「おのずから」を受動的に読もうとしている態度になります。
>>>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6# …
自然(じねん) [編集]
「じねん」は自然の呉音読みであり、「しぜん」と読んだときとは違った意味を持つようになる。
自然(じねん)とは、万物が現在あるがままに存在しているものであり、因果によって生じたのではないとする無因論のこと。仏教の因果論を否定する。外道の思想のひとつである。
また外からの影響なしに本来的に持っている性質から一定の状態が生じること(自然法爾)という意味や、「偶然」「たまたま」といった意味も持つ。
(中略、以下は「自然・しぜん」の説明の一部)
一つの傾向として、西洋では自然と人間を完全に分離した考えを持つが、日本では人間は自然の一部と考える。
<<<
ゐきの説明では、「じねん」の項の説明よりも「しぜん」の項の説明の「一つの傾向として、西洋では自然と人間を完全に分離した考えを持つが、日本では人間は自然の一部と考える。」が的を射ていると思います。厳然とした境界で切り離すことの出来ない「私」と「外部」といった概念であれば、能動・受動は同時であり、決して一方的に生じるものではないという考え方になります。
>>>gooの辞書
じねん 0 【自然】
補足説明呉音
(1)〔仏〕 ある事物や事態が、外部からの影響力によるのではなく、それが本来的に備えている性質によって、一定の状態や特性を生ずること。 →自然法爾(じねんほうに)
(2)万物は因果によって生じたのではなく、現在あるがままに存在しているものだとする考え。仏教の因果論を否定する無因論で、外道(げどう)の思想の一つ。
(3)人為が加わらないこと。ひとりでにそうなること。ありのまま。
「コレワ別ノ子細デワナイ。タダ天道ノ―ヂャ/天草本伊曾保」
(4)たまたまそうであること。偶然。
「衣の内より火出で来て焼けぬ。此れ―の事かと思ひて/今昔 4」
補足説明古くは「じねん」はありのままの意、「しぜん」は万一の意に使い分けられた
<<<
ゐきの「じねん」の説明とほぼ同じです。が、問題になるのは、(1)にて、既に「内部・外部」を区分してしまっているということです。(3)でもそうです。「人為」という言葉が使われています。ただし、「ありのまま」としたときには、区分の無い状態が示唆され得ます。
更に言えば、(2)の「仏教の因果論を否定する無因論で、外道(げどう)の思想の一つ。 」という捉え方に興味があります。これは、自他に境界を設定することで成立しうる概念です。
「受動・能動の同時成立」は、その作用の大きさの差異によって因果的に捉える方が理にかなっている場合が多いですが、たとえば偶有性といった概念等の場合の「たまたま」については、強いて言えば受動性と能動性が対等になります。この「たまたま」について「能動性」が強いと見なすなら「因果論」へと向かうことになるでしょうし、「受動性」が強いとすれば、別の意味での「因果論」へと向かうことでしょう。でも、そうではない中間状態があるはずです。http://genxx.com/blog/archives/000187.html
そういった観点から、この(2)の「外道の一つ」といった考えがいつ成立したのかを知りたいと思って調べています。
※個人的には「外道」ではなく、正にブッダが伝えたかった核心ではないかと内心思っているところです。
少なくとも「スッタニパータ」には記載がない様に思われます。
(調べて判らなければ、gooで質問に出すかも知れません)
私が「仏教に関する誤解の歴史」を紐解いているのは、まさに「自然(じねん)」に対する視点の揺らぎが隠されていないかを探るためと言っても過言ではありません。
この回答への補足
じねんさん ようやく話がどんどん進むようになりました。ご回答に対してと同じく そのことにもやはり感謝を申し上げます。とともに しかも――たぶんわたしのように――相手の弱いところを容赦なく 吸血鬼のごとくにして共生および互いに力を合わせての愛にあふれる尋究が 大事なのではないでしょうか?
この点は手前味噌のままにしまして。
じねんさん独自の探究をめぐって ふと ほかに
○ エピクロスの《原子の運動にかんする方向の偏り(パレンクリシス parengklisis / クリナメン clinamen )》説
☆ についてもちらっと思い浮かびました。お伝えします。よいサイトが見つかりません。
▲ デモクリトス × エピクロス:「宇宙=機械」のはじまり
http://homepage1.nifty.com/kurubushi/card59265.h …
この主題から入ります。そしてわたしの結論から行きます。
○ 自然には自然環界と社会的自然とがある。
○ 社会的自然は ひとの意志的・作為的・能動的な行為とその関係錯綜をむろん含むが そしてそのような人間の行為関係からそもそも成っているが 大きくは=その全体としては 人間の意志と意図が直接には与らない自然史過程を成す。
○ ちなみに 突然変異のごとく あたかも光のごとく自由意志も曲がるかのように 合理的な因果関係を超えてのように《方向の片寄り》が起きることがある。
☆ つまりは このことは理論的には単純なことです。すなわち
◆ 自然法爾の事。 :「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず。
☆ つまり 経験世界を超えた《なぞ》の問題です。《はからひ》もそして認識も ままならないというものです。
■ ( goo辞書)・・・仏教の因果論を否定する無因論
☆ これはまちがいです。因果関係の認識は 経験合理性によってとうぜん行ないます。そこでは《はからひ》をも認識します。《なぞ》はこの因果論を 否定するのではなく 超えるのです。非思考なのですから。これを
◆ 自然法爾
☆ と言ったはずです。
■ 無因論
☆ ではありません。無因と有因とを超えて 因果関係が《分からない(つまり 分かるか分からないかが分からない)》と言っているのみです。ですから
★ ※個人的には「外道」ではなく、正にブッダが伝えたかった核心ではないかと内心思っているところです。
☆ というご発言についてはその探究の精神に敬意を表しますが 果たしてブッダがそう言ったのか。どう言ったのか。親鸞と同じことを言ったのか。これはまだ分かりません。
《心の伸び》にかんして
★ (c) 「受動・能動の同時成立」
☆ に対しては すでに触れた次のような内容がわたしの対案です。
☆☆ (No.16補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ( b )の場合は
○ それゆえ その伸びとしての――なんなら たましいなり霊なりのちからの――はたらきを わたしがわたしという存在のこととして受けとめすでに受け容れていること が伴なわれています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 言いかえると
○ 自然法爾(なぞ)が 基本です。その基礎の上でこのなぞの出来事〔としての社会的自然たる行為関係の錯綜〕をわたしが受け容れる。
○ わたしの意図し意識して行なった意志内容については その《受け容れ・確認》において《主体的・能動的な行為》であると認める。
○ あとは受け身だ。しかも意志による能動の行為も 自然環界や社会的自然を受けとめるという受け身から出発している。
○ しかもこの受け身も 受け容れることにおいて主体的な行為である。(なぞの非思考を おのれの心の伸びとして受けとめ受け容れるのは 主体としての信仰行為である)。
・
☆☆ 《心の伸び》は ( a ) 仏性を求めて伸びるのか?
☆ というとき これは
★ (a)●●を求めて「自ら」(みずから・能動的に)伸びるのか?
☆ という表現とは焦点の当て方が 微妙に違っています。(舌足らずでした)。
○ そもそも《仏性ないし さとり》をたどり着けるかどうか分からない彼岸〔もしくは目指すべき星〕として掲げるということ。
☆ を意味させています。言いかえると 《仏性》がひとに内在しているかどうか知らないという立ち場のことです。修行至上主義のような立ち場のことです。
このようなわたしとの対話における絡みをも考え合わせていただいて 独自の主題についても探究して行かれることを望みますが いかがでしょうか。
* そうとう程度進んだと思います。それにしてもブッダは まだとぼけていると思います。そしてブッディストたちは なお沈黙のままです。
No.19
- 回答日時:
仏教を、読み進むには読解力が必要です。
あと寝ぼけた質問は控えるようにしてください。
(興味を持つということとそれが出来るということは、まったく別のことです。シナリオと哲学は別物です。)
よほど何かこころの襞にでも触れることばが欲しいのかい。
何が聞きたい?
★ 読解力が足りない。
★ あぁ わたしは寝ぼけていたと気づいた。
★ 興味はあるのだが まだまだ親しむというところまでは行かない。
☆ こう気づいているから よき道しるべが欲しい。か。
けれども
★ 目覚めた。
☆ のだろう? 《ブッダ》というのは 《めざめた》という意味だよ。ぢゃあ あなたももうブッダだ。
好きなところから進み入っていけばいいのでは?
それか もしくは はっきりと自分の疑問を明らかにしてそれを問い求めて行きなさい。うたがいからすべては始まります。質問を掲げればいいではないですか。
No.18
- 回答日時:
誤字訂正:
個我を存続させようとする人とが善性を伴うケースもあるとは思いますが
⇒個我を存続させようとする人が善性を伴うケースもあるとは思いますが
個我自体が善性を伴っているかどうかと言うこととは一概には言えないでしょう。
⇒個我自体が善性を伴っているかどうかと言うこととは別であり、一概には言えないでしょう。
>活かすべきものがあるとすれば
その人に素直な感受性があれば、大抵は、どんなものからでも学ぶことが出来ます。活かすべきものが無いとするなら、それは自分自身の問題でしょう。何を言っても無駄な、何からも学べない、活かすことの出来ない者はいるものです。そういった人間が、「こんなものには意味が無い」とか、「こんなものからは学べない」と言うのは、傲慢にも程が在ると言わねばなりません。
>共有の財産としたいと思います。
貴方がそれをここでいうべきでは在りません。せめて自分の財産、学びとしてから、その言葉を言ってください。
与える者が「共有の財産としたい」と言うならまだわかりますが、教えを請うている人間が、「共有の財産としたい」と言うのは、間違ってませんか?教えてもらっているのだが、素直にそれを認めたくないから、「共有の財産としたい」とは、人を侮り、依存するのは程ほどにしろ と言わねばなりません。知恵というものは、各自おのおのが、自分の財産とすれば良いだけの話です。自分のものとするかしないかは、その人の精神的在り方によって決まるものであって、共有するとかしないとか言うことではないでしょう。
どうでしょう、さぁ、どうなんでしょう?
No.17
- 回答日時:
>>>
★ >>>ロジェ=ポル・ドロワ「虚無の信仰」,
☆ こんなものにうつつを抜かしていたんぢゃ 百年待ってもだめだと観念しかけます。
<<<
以前、お勧めしていた2冊(正確には3冊)
ロジェ=ポル・ドロワの「虚無の信仰」(西欧はなぜ仏教を恐れたか)
http://www.transview.co.jp/05/top.htm
幻想の東洋―オリエンタリズムの系譜(上下2巻) 、弥永 信美 (著)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480089 …
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480089 …
ですが、仏教(的な概念)の歴史を考える上で、はずせないと思います。逆説的に言えば、(複数の視点からの考えが網羅されうる)「誤解の歴史」をきちんと押さえることこそが、「百年も待たずに」(自身にとって)正しい観念を得る近道だと思いますが、いかがでしょうか?
bragelonne様の多くの疑問が、これらの本によって氷解するのでは?と思っておりますが、既に読まれていたのでしたら、ご容赦下さい。
>>>ロジェ=ポル・ドロワ「虚無の信仰」, p. 10
仏教は、ペシミズムと結びつけられ、死をもたらし、すべてを否定する思想、世界の「正常な」、つまりは、西洋の、キリスト教の、生と密着した、肯定的な秩序にまっこうから対立する思想とみなされた。むろん、これは誤解であった。だが、この誤解にはいったいどういう意味があったのだろうか。本書の目的は、この誤解の分析を試みることにある。
<<<
それで あなたの疑問は氷解したのですか?
という見方をつねにわたしはしています。ピンと来たら読んでいたはずです。
前回 やっと合意点に達しました。ですからその遠まわりをさせたのは むしろそのような本だったのではないでしょうか? そうとうわたしは疑り深いのです。ブッダに対する咬みつき方が ひととは違うのでしょう。
No.16
- 回答日時:
存在そのものでなく、個や我 が強くなればその分、善性や悪性の傾向が強くなると言うことはできるでしょう。
個、我 を持続、発展させようとするとき、嘘偽り、欺瞞や誤謬によってそれを図ろうとするなら、それは、悪の度合いが強いと言って良いでしょう。我が強く、尚且つキモチの悪い人がいますが、それが原因でしょう。
とにかく、個やわれ を持続すること、そのものが善であるということは言えません。個我を存続させようとする人とが善性を伴うケースもあるとは思いますが、個我自体が善性を伴っているかどうかと言うこととは一概には言えないでしょう。
不正を働くことで利益を得ている悪徳会社組織が、「維持存続が第一命題だ」と言って、不正を働き続けたり、開き直ったりするのは、許されません。個々の人間存在についても同じことです。
とにかく、幼児性を克服するには、「親」から自立するしかないでしょう。誰のことを言っているのかは、解るはずです。
人間に働きかけたり、話しかけたりする、人格を明確にもつ存在は、それなりの存在でしかないということを知るべきです。
この回答への補足
下のお礼欄をおぎないます。
あなただけにそうっとおおしえします。
☆☆ (お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
よほどうつくしい光であるなら 少しはその輝きを和らげ あたかも塵と同じくなってでも その相手のたましいと共生するようにしてください。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ところが この
○ たましい
☆ の見当たらないひとがいるようです。かなり長いこと断続的にですがやり取りしていても たましいをどこかに捨ててきたひとがいるようです。
あなただけにそうっとおしえて差し上げます。ないしょですよ。
《日の光》を超えて なぞの光に照らしだされるようにしましょう。
善と悪とを超えた光のことを思うべきでしょう。
うそ偽りをおのれの自己表現とするひとも はじめは やましさを覚えためらったはずです。そこに 愛があります。善と悪とを超えたところの愛がはたらいています。
悪徳は 五十歩百歩です。悪徳にかかわらない人間がいますか?
幼児性でも悪人でもいいぢゃないですか。和光同塵といってるぢゃないですか。光の問題ですよ。よほどうつくしい光であるなら 少しはその輝きを和らげ あたかも塵と同じくなってでも その相手のたましいと共生するようにしてください。あなたにそのこころはあるのでしょう?
No.15
- 回答日時:
No.2です
bragelonne様、比較的簡単な推論だったとおもっていたのですが、伝わらなかったようなので、推論過程を記載しておきます。
ブッダが《仏性》なる「言葉・概念」にて、(いわゆる)大乗仏教での教理として言われているところの「性質・状態」を説いたとしても、説かなかったとしても、そういった「概念」は「ブッダの思索」から始まって様々な紆余曲折を経てきた「思索」としてあるわけです。
すなわち、《仏性》なる「言葉・概念」はブッダの存在無くして成り立たないわけですから、「その成立には、ブッダの思索が関与している」というのが正確な言い回しでしょうね。
で、《仏性》が「すべての衆生にある」(一切衆生悉有仏性)と考えるのか、限られた人びとにある(あるいは、悪人にはない)とするのか、あるいは、出家して特殊な修行を積まなければ得られないとするのか、という見解の違いがあるわけです。
さらには、
>>>
なお、天台宗では、一切悉有仏性として、衆生(人間)に限らず、山川草木や生類すべてに仏性があるとする考えも後世に生まれた。
<<<
という考え方も出てくるわけです。
どれが正しく、どれが誤っているのか?
まず、《仏性》なるものが、あらゆる衆生、あらゆる生類にあまねく(「可能性」としてでも)含まれているとするならば、それは、ブッダが悟りを開く前からあったと言わざるを得ない。
【もし仮に】ブッダから、あるいは死後から生じたとするならば、人類、あるいは生類は、その前後で「全体的に進化した」ないし(キリスト教的に言えばイエスの贖罪に該当することが生じた)と見なさざるを得なくなるなるでしょう。
つぎに、《仏性》なるものが、(生まれながらにして)限られた人にしか備わっていないとするならば、初期の仏教が形而上的思惟としてしりぞけようとした輪廻観(備わっていないのは、前世の悪業によるなど)へと直結することでしょう。
さて、《仏性》なる概念ですが、「何に」生じる、ないし「どこに」あるのでしょうか?
手の先? 頭の中? 心の中?
それこそ初期の仏教が形而上的思惟としてしりぞけた《霊魂》なる概念に関連して「生じる」、あるいは《霊魂》なるものにあるといえるのではないでしょうか?
まさに、「毛など生えていない亀の体毛が硬いか柔らかいかを問うに等しい。」になるのではないでしょうか?
《仏性》なるものが、「ある・ない」というより、そういった《仏性》なるものを「求め続けようとする」ことの方が大切なのではないでしょうか?
その「求め続けようとする」ことこそが、「心の伸び」という概念に該当するのではないでしょうか?
この回答への補足
じねん――自然法爾もしくは法爾自然でしたら わたしの賛同する親鸞ですが――さん これだけやり取りを重ねて来たなら もうざっくばらんに言っても 驚かれないでしょうし わたしのこころがあやまって受け取られるということもないでしょう。
あなたの文章は 間延びしていますよ。
〔わたしが 推論の過程を明らかにすべしと要請したとしてもです〕。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(あ) 《仏性》なるものが、「ある・ない」というより、そういった《仏性》なるものを「求め続けようとする」ことの方が大切なのではないでしょうか?
(い) その「求め続けようとする」ことこそが、「心の伸び」という概念に該当するのではないでしょうか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ この箇所だけで今回にとっては 回答になります。
まともな回答だと思います。そしてただし物言いもあります。次のひとつの問いにまとめることができます。
○ 《心の伸び》は
( a ) 仏性を求めて伸びるのか? それとも
( b ) 仏性と仮りに呼ぶ生命力なりそのような〔良心とその自由意志のごとき〕自然本性なりが おのづと伸びるのか?
☆ ( b )の場合は
○ それゆえ その伸びとしての――なんなら たましいなり霊なりのちからの――はたらきを わたしがわたしという存在のこととして受けとめすでに受け容れていること が伴なわれています。
もしブッダが ( a )のみしか言っていないとしたら まったくくだらない独り善がりになるでしょう。ぎゃくに言いかえると ブッダもそれなりのことを言っていたのだから それを《仏性》という見方において完成させたのは 後世の人たちであった。となるはずです。
そしてただし 枝葉末節のことながら理論としては矛盾をかかえて成り立つわけではないのですから
○ 《諸法無我》説とこの《仏性》説とは 互いに矛盾する。
☆ ことになるはずです。その問題が残ります。
ぜひこの主題について明らかにしていただきたい。広くおしえを乞います。
というのが 今回の質問です。
* このじねんさんのご回答に接して 質問趣旨における(α)~(γ)の分類といった見方から 一歩前へ進みました。感謝を表わすとともに さらになお問題の解明へご協力を願っておきたいと思います。
* 引用箇所の(あ)の見方は とどのつまりとして言えば 敗北主義です。非思考つまり心の伸びは 賭けですから ひとつに決めるものです。負けてもいいから決めます。そのほうが 敗北主義よりもとうといのです。
* (い)の《心の伸び》は 経験現実です。そうではないという意味での(つまり ただの形而上学の問題だという意味での)《概念》ではありません。
* ――何に向かって伸びるか。それは 《なぞ》です。形而下のことでも形而上のことでもなく 要するに経験世界を超えたところのなぞに向かってです。つまり非思考です。
No.14
- 回答日時:
>○ 仏性 ☆ にからめて考えてみてください。
はい、仏性もからんでいます。それがない人はいないでしょう。
しかし、虚無的世界観を持つが故に自分を束縛し、拘束し続けようとする亡者に囚われているのであれば、分別をつけ、きっちりとサヨナラを言う英断が必要でしょう。怒って暴力を振るう人に対して、「これがこの人の愛情表現なんだ」と言うなら、話は別ですが。
もし、あなたが混乱しているなら、その人に対して、分別をきっちりつける振る舞いが必要でしょう、その人が虚無的世界観しか持てず、その世界観を強要してくることで、自分も 虚しく なっているのであれば。
SOLAR_RAY さん 少しは生き返りましたね。この言葉にカチンと来たなら たしかに生きているでしょう。
まづ言っておきますが
★ はい、仏性もからんでいます。それがない人はいないでしょう。
☆ というとき そして日本人のほとんどはこれに同意するであろうとき しかしながら
○ ブッダ自身は この仏性について語っていない。
☆ ということと どうつなげますか? というのが問いです。
さておまけです。
★ 怒って暴力を振るう人に対して、「これがこの人の愛情表現なんだ」と言うなら、話は別ですが。
☆ 抵抗するに決まっているぢゃないですか。ただしその怒りは 死ではなく大きくは愛に含まれるという意味です。
★ 暴力
☆ は自己のおよびほかの人の意志を踏みにじることであるゆえ 自己表現であったとしても 無効です。初めからなかったことになります。おのれの意志を 曲げてでも言葉で表わした場合・つまり うそ偽りであった場合 それでも これは大きくは 愛です。
なぜなら うそ偽りに関しては 胸を張りでかい顔をして言ったことがないと言える人がこの世にいますか? だったら 五十歩百歩です。すべては 愛の中で行なわれています。そう見ないほうが 非現実的であるでしょう。共生という意味です。
★ 〔自分が〕虚無的世界観を持つが故に自分を束縛し、拘束し続けようとする亡者・・・であれば
☆ 話は別です。
★ もし、あなたが混乱しているなら、その人に対して、分別をきっちりつける振る舞いが必要でしょう、その人が虚無的世界観しか持てず、その世界観を強要してくることで、自分も 虚しく なっているのであれば。
☆ これに関しては primeape さんとのやり取りの中の
○ 和光同塵
☆ に注目してください。あるいは もしお望みなら コリント人への第一の手紙 9章19-23節を参照してください。
No.13
- 回答日時:
オコリザルです。
今回はbragelonneさんへの思索のとっかかり。
★ 経典の編纂
☆ はブッダの死後ですけれど 末法になってからではないですよ。その点は 勘違いしておられるようですので ひとこと。
私の見解では、、、
死とは即 入滅です。
娑婆とおさらばです。
釈迦様はカメへの憧憬たる、今生の夢をこの世に礎として残しただけですよ。
この見解に、忠犬ハチ公はその忠犬ぶりを発揮するでしょうがね。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
釈迦様はカメへの憧憬たる、今生の夢をこの世に礎として残しただけですよ。
この見解に、忠犬ハチ公はその忠犬ぶりを発揮するでしょうがね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ これはかなり歴史的な実際を しかも辛辣に 言い当てた発言だと思います。
とそれと同時に 直前などで触れましたように
★ 即身成仏
☆ は 生きて実現できるという説もありますので
★ 夢
☆ には終わらないさとりという問題は 残っていると思います。
○ 死んだらおしまい。
☆ なのは そのとおりです。
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