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なぜ善と悪は生じたのですか?

A 回答 (16件中1~10件)

簡単に言うと、人間には思考があるからではないでしょうか。

  本能で生きてる生物に善や悪などないのに、人間にとって都合の悪い生物は悪になりますからね。。なにが善で悪かの基準を決めてるのは人間ですから。 多数派の意見が善で少数派の意見が悪になってる世の中ですよね。  日本でも戦争が必要善な時代もありましたし。    鯨を食べてた日本は他の国からは悪ですし。他の国も捕鯨してたし、してるのに…   それぞれ違う思考の人間と交わって生きていくにはある程度 似た思考が必要です。乱れますから  それについていけない思考の考えや行動が悪。 人を傷をつける好意= 理解できないし腹立たしい=悪   やむおえない理由で生きてくために人を殺した= 本人以外理解できない理由=少数派 = 本人以外は理由がわからないので第三者は理解できないし殺人という行為が腹立たしい=悪
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自分がやっていることに意味を持たせたいからではないでしょうか。

本当は意味がないということに人は耐えられないのではないかと思います。やっていることに意味を与えるためには何かの基準が必要となります。善悪いに限らず美醜にしても長短、寒暖などの簡単なことでも何かの基準がなければ決められません。
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この世界が、不調和世界対、調和世界と言う、正反対のものがぶつかる世界だからです。

だから不調和の悪と、調和の善が存在します。仏教では、この世界を仮の世界といいます。不調和世界の脳の自我と、調和世界の大自然の心の無我が、出会うために、仮の世界の、この地球がつくられました。だから人の心は、自我と無我の二つの心が、合体して出来ています。目的は、不調和を調和に変換するためです。また仮の世界なので、始めと終わりがあります。マヤ暦では、2012年が終わりだと言われています。終わると、仕切り直しになるから、人の心は解体されて、それぞれ元の世界へ帰ります。自我は、不調和の脳の世界へ、人は、自然の心である無我なので、調和の神の世界へ帰ります。
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それは、この世界や宇宙がなぜ生じたかというのと同じです。


わかりません。

後出しじゃんけん」のように後から、何でも理由はつけれます。

 自分で自分が納得できる理由を考えるといいと思いますよ。

 エゴの問題かも知れませんね。自分にとっていいが、相手にとって悪いことかもしれません。集団の中に生きてると他者が存在しますから。
 ですから例えば、強盗は自分にとっていい。とられるほうは自分にとって悪。ということでしょうか。
 自分勝手が問題だということかもしれません。
 また自分がよければいいという心が肥大すると、独裁者と呼びます。ファシストですね。
 意識が低いと自分の利益しか目に入らない、視野狭窄になりますから、悪を作り出しやすいということでしょうか。
 善も悪もないという言葉がありますが、つまりは、集団で生きる場合、他者のことを考えないといけないという簡単なことでしょう。
 ですから、そこまで認識ができてない人に善悪を教えることをします。
 「善がなければ悪はない」というのはすでに哲学的言葉遊びになって、 現実観念から遊離した、空想的展開から生まれた文章でしょう。
 善がなければ悪はない」と言っても善があり悪があるので、あるものに対してどう対処するのか、と言うのが現実です。
 あるものに対して、理由を求めても、この世から存在をなくすことができない以上、空想の言葉遊びでしょう。
 しかし、自分の中から悪を消して善を生じさせると言うのは、現実として有効ですね。
 ですから、自分の中からどうすれば、悪がなくなるかというのが現実に有益なことになります。
 ひとつは、なぜあるか、ではなく、どうすればいいかという対処を知るのが現実的ですね。
 人を大事に思いやるところから、自分の中の自分勝手な悪に対処する方法が大事ではないでしょうか。
 
なぜ生じたか。とはこの世界や宇宙がなぜ生じたかというのと同じでわかりません。しかしあるのは事実です。
 それは幸せと不幸にたどり着く思考だと思います。
 つまり、いいことをしてれば幸福になり、悪をしてれば不幸になる。という簡単な考えですが、現実では坂井のりpが悪に染まれば、不幸になるということです。
 なぜ、という思考から思考の飛躍をすれば、厳然と「ある」と認識し、それに「対処」する方法が求められるでしょう。
 なぜあるか。理由はわかりません。しかし、理由がわかっても、わからなくても、善悪から幸不幸まであると言う現実は変わりませんね。
 善の影として、反対のことが生じたと言うことでしょうか。

 その結論は怖いですね。それなら善をなくせば悪がなくなるとか、
 詭弁です。そんな狂った考えは善をなくし、法律をなくし何をやってもいいというくだらない非現実的空想の思考にたどり着くでしょう。
 そんな考えを信じる馬鹿な人はいないでしょうが。

 善がなければ悪ばかり
 です。当たり前ですが。だから罪は法律で規制しているんですし。

善がなければ悪ばかり
 そんなの当然ですよ。

善がなければ悪はないというのは狂った思考です。
 「考え」や「思考」によって、社会は運営されてます。
 ですから狂った思考は社会に害毒です。間違いは間違いと言いましょう。
 法律をなくせば、殺人を許可したのと同じです。恐ろしい社会になります。ですから、最初に悪があり、それを規制する法律の善ができるんです。
 
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聖書的に言えば、「神は良い麦種と、悪い麦種を、人のこころに蒔かれた。


その人がその人生において、良い麦と悪い麦のどちらを多く、そのこころに育てるか。
その人の臨終の時まで見守り、「良い麦は天の倉へ、悪い麦はまとめて燃やすため」です。
良い麦を育てた人は天の国に入り、
悪い麦ばかり育ててしまった人は、あの世でそのおそろしい報いを受けるためだとおもいます。
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 こんにちは。



 ★ 善がなければ悪はない
 ☆ とわたしも同じく考えます。一般に
 ○ 悪とは善の欠如なり。
 ☆ と言われるようにです。善が損傷をこうむったその部分 これが悪であると捉えます。

 それでは
 ○ 善とは何か。あるいは
 ★ なぜ善と悪は生じたのですか?
 ☆ ひとは孤独ですが 孤独として独立しています。独立していますが また 社会つまり共同生活において生きており 互いに関係し合っています。個人として独立しているゆえに互いに関係性を持ちます。
 この社会的な関係性の側面では ひとは 互いに自分の生活のくせ(エートス)を交じわらせます。このくせについて 誰が見ても好ましく誰にとってもよいと思われるものを 《善》と呼んだと考えられます。
 その善を傷つけるおこない これが非善(反善)であり《悪》と呼ぶというわけです。

 たとえばまづ 善でも悪でもないことがらがあります。
 食べるのに箸でかフォークでか手でかは いづれが善でいづれが悪かは決まりません。(手でと聞くと 衛生上 善悪が決まるのではないかという感じを受けますが そのような条件を持ち出せば 箸の場合もフォークの場合も同じことになります)。
 車が走るのが右か左かは どちらが善かは決まらないと思います。
 ところが 反対車線を走って 衝突事故を起こしたとなると その行為は 法規違反である前に 一般に生命軽視の行為として 善が欠如した考えに基づいていると判断されます。つまり それは 悪であると人びとの主観が共同化されたかたちで 判断が下ります。
 同じく 食べ物に毒を混入することは ひとに危害を加えることとして善ではありません。

 すでに飛躍してまとめますが
 ○ おそらく 人びとに共通の善とは ひとという存在であり 生命存在である。 
 ○ さらには 存在は生きているので その生きるという意志のはたらき これが 上の大前提のかぎりで 善である。
 ○ ぎゃくに言えば ひとの意志を無視する行為は 善が損なわれるので 悪である。
 ○ ひとに危害を加えるのは この意志がはたらかないようにさせるので 悪である。

 では
 ★ なぜ善と悪は生じたのですか?
 ☆ 存在が 時空間的に限りあるものだからです。
 ○ 限りなく生きるのならば 一たん損なわれた善は いづれは元の状態を回復することができるでしょう。
 ○ 悪が生じれば そのつど元の善の状態を回復するよう つとめればよいわけです。
 ○ あるいは 意志による判断と選択およびその行為が 自由だからです。
 ○ 限りなく生きるのならば この自由は もはや自由と呼ぶほどのものではなくなります。未練を残しうらみを持って死んだというゾンビや幽霊になるといった考えを持つ必要なく ずっと生きているのですから 元の善を次から次へと取り戻すことができるからです。
 ○ このような有限の人生において生命存在における自然本性として意志を持つというのは それが自由だということを意味しています。
 ○ この自由意志は まったくの自由です。その大前提である人間存在そのものを傷つけることさえ自由であるというあそびを持ちます。おのれつまり自由意志に逆らうという自由をも 自由意志は持ちます。
 ○ したがって 自由意志という善から その善の損傷行為としての悪が生じました。
 ○ おそらくは この善の損傷は うそに始まります。それが証拠に うそをつくとき わたしたちは顔を赤らめたり やましさを感じたりします。
 ○ やがてじんるいの知恵は うそも方便と言いました。この限りある生および社会的な共生をとうとんで なんとかこの次から次へ現われ出て来て 世の中を覆ってしまっている悪を共同自治しようと いろんな知恵を出し合います。
 ○ 悪もしくは罪が覆われているひとは さいわいなれ。と聞いています。あるいは《めざめた人》も現われたと言っていますね。――法治社会を築くまでに到ったのですが 法律に訴える前に 考え方の問題があるように思いますが いかがでしょうか。
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>善がなければ悪はない



いえ。

人を殺さないことは善い事ではありませんよね。

物を盗まないことは善い事ではありませんよね。

勇気があることは必ずしも善い事ではありませんよね。



例えば川上で製造時に出る多量の汚水を川に流したら、川下の人は飲めなくなるじゃないですか。

で、川上の人がその工業で生活していたら、製造をやめることは川上の集団の生活危機を招くので、川下の人がやめろと言っても「はいやめます」とすぐ了承できず、他の川から水を汲めって言なるじゃないですか。

各勢力があって、統合をよびかけても、そうですかって簡単にはならないじゃないですか。
大和朝廷を祭ろわなかったので、エタと呼ばれて迫害されたって、日本の歴史にあるじゃないですか。

片方からみたら都合のいいことでも、片方からしたら都合が悪いことってあるわけで、片方から見たらいいことだと思っても、片方からみたら悪ってなることもあるわけです。
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ひとりのとき→すべて自己満足の方向でことたりる→善も悪もない


二人以上の時→自分ひとりだけの考えではやっていけない→自分も他人も納得すること(善)でおおむねやっていく→自分も相手もみとめないこと=やってはいけない→悪

社会ができた時の必須のルールとして発生したのではないでしょうか?

>善がなければ悪はない
善が出来たからその反動として悪も出来たと仰りたいのでしょうか。
そういうことではないと思います。善と悪はひとつのものの表と裏といった関係ではありません。遠く隔たったふたつの無関係のものです。それぞれ構造的に発生せざるを得なかったということではありますが。
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自分にとって(広義で)都合の悪いことを悪と名づけたのでしょうね、最初は。


対義語としての善でしょう。

広義で、と注釈したように、「都合の悪いこと」というのは多種多様です。
まず、人は生まれつき理性を(たとえ片鱗と言えども)携えてこの世に生を受けますから、自らの本能的部分が悪と映ることもあります。
異なる人種を抹殺、あるいはその権利を侵害するのは自国の民族にとっての善と思われた時期もありましたが、今は偶々そういった思想が受け入れられる時代ではないようです。
しかし、我が国では(というかどこの国でも似たようなものかもしれませんが)新型インフルエンザで数人が死亡しただけで大騒ぎしますが、年間自殺者が3万人を超えることに関して、それ以上の感慨を持って受け止める人はおそらく少数でしょう。
なぜかというと、この国においては、社会的敗者として自殺という道を選択するのはあくまで個人的な責任であって、他者としての社会が手を差し伸べて問題を解決することが特には善と認識されていないからです。
個人の総体としての社会が悪として働いた結果である、という単純な理屈に気づかないか、目を背けているわけです。

自殺する人にとって、他者、あるいは社会は悪と認識されることでしょう。
彼ら、彼女らは、自らにとっての善を現世で主張するタイミングを見失ったことになります。

善でも悪でもないもの。
それが世界の始まりだったはずです。
人間の【個人的都合】で善悪という概念は生じました。
つまり、感覚し、認識し、という能力が人間に備わっていたことが、善悪の生じた理由、ということになるのでしょう。
 
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>>善がなければ悪はない


逆でもいいと思います。


悪があるから、善が生まれた。

立法はこの過程だと思います。
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