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小林秀雄って言う名前や、江藤淳って言う名前に、文学関係の本を読んでいると、結構ぶつかります。気になって時々彼らが書いた本を手にとって見るんですが、私には取り付く島もないほどに、理解不能なんです。これほど、全然分らないっていうことになると、しかも彼らの著作が読書層の中で多く読まれてるっていうことを考えると、私自身に何か知的欠陥があるのかと、向きになって読もうとするんですが、何しろまったくわけが分らないって言う感覚は拭い去りがたく、こんな難解な文章を書いた彼らに逆に反感を持ってしまいます。
この感覚分ってくれる人いたら回答願います。私も読んでみたけど全然わかんないんだよって言う人いないんですか?

A 回答 (16件中1~10件)

すいません。



つながらないので、クリックしている間に、同じ回答が重複しました。
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私は、若い頃、小林秀雄と江藤淳が好きであり、かなり影響を受けました。



彼らのわかりにくさは、彼らが批評家であるとい点にあるのだと思います。

批評というのは、他人の作品について、誉めたり批判したりすることです。対象となる作品に触れていないと、その批評の言わんとすることを理解することは難しいのが当然です。

小林秀雄の場合には、その対象が、文学作品のみならず、音楽(モーツァルト)、絵画(フランス印象派)、古典(西行、実朝)など広範囲に渡っています。これらの音楽や絵画に触れていないと、理解は困難になります。

江藤淳の場合には、文学者、特に、明治の文豪、夏目漱石の作品への批評や、その伝記に関する著作の比重が大きいです。

私は、漱石の小説、「こころ」や「坊ちゃん」などが好きであり、また、西行や実朝の和歌も読んでおり、それらの理解を深めるために、小林や江藤に接近しました。

文学史的にいえば、小林は近代批評の確立者であり、江藤は、小林の影響を受けた、その継承者です。近代批評をわかりやすく言うと、それまでの批評が、単に他人の作品を説明したり、紹介したりした補完的な役割しか持たなかったものを、初めて、おのれの思想を語る、小説とならぶ、独立の文学作品としたのです。

このことは、例えば、小林の「近代絵画」のテーマと重なります。印象派以前の西洋の絵画が、それまで、単に、絵が、歴史の一場面を記録したり、人の肖像を残すというような従属的な手段であったものが、モネやセザンヌのような印象派の絵画が、作者個人の感じ方を、色彩から表現するという、独立的な価値を与えたという、西欧近代の誕生につながり、この近代絵画の誕生を介して、小林は、おのれを語っているのです。そこに、「近代」の意味を暗示し、自分がそれを体現しようとしているのです。

対象作品にひとつでも読んだり、触れたりした後で、彼らの批評を読むと理解は早くなります。

わからないことを自覚するのは、大切なことです。わかろうと努力するからです。
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私は、若い頃、小林秀雄と江藤淳が好きであり、かなり影響を受けました。



彼らのわかりにくさは、彼らが批評家であるとい点にあるのだと思います。

批評というのは、他人の作品について、誉めたり批判したりすることです。対象となる作品に触れていないと、その批評の言わんとすることを理解することは難しいのが当然です。

小林秀雄の場合には、その対象が、文学作品のみならず、音楽(モーツァルト)、絵画(フランス印象派)、古典(西行、実朝)など広範囲に渡っています。これらの音楽や絵画に触れていないと、理解は困難になります。

江藤淳の場合には、文学者、特に、明治の文豪、夏目漱石の作品への批評や、その伝記に関する著作の比重が大きいです。

私は、漱石の小説、「こころ」や「坊ちゃん」などが好きであり、また、西行や実朝の和歌も読んでおり、それらの理解を深めるために、小林や江藤に接近しました。

文学史的にいえば、小林は近代批評の確立者であり、江藤は、小林の影響を受けた、その継承者です。近代批評をわかりやすく言うと、それまでの批評が、単に他人の作品を説明したり、紹介したりした補完的な役割しか持たなかったものを、初めて、おのれの思想を語る、小説とならぶ、独立の文学作品としたのです。

このことは、例えば、小林の「近代絵画」のテーマと重なります。印象派以前の西洋の絵画が、それまで、単に、絵が、歴史の一場面を記録したり、人の肖像を残すというような従属的な手段であったものが、モネやセザンヌのような印象派の絵画が、作者個人の感じ方を、色彩から表現するという、独立的な価値を与えたという、西欧近代の誕生につながり、この近代絵画の誕生を介して、小林は、おのれを語っているのです。そこに、「近代」の意味を暗示し、自分がそれを体現しようとしているのです。

対象作品にひとつでも読んだり、触れたりした後で、彼らの批評を読むと理解は早くなります。

わからないことを自覚するのは、大切なことです。わかろうと努力するからです。
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私は、若い頃、小林秀雄と江藤淳が好きであり、かなり影響を受けました。



彼らのわかりにくさは、彼らが批評家であるとい点にあるのだと思います。

批評というのは、他人の作品について、誉めたり批判したりすることです。対象となる作品に触れていないと、その批評の言わんとすることを理解することは難しいのが当然です。

小林秀雄の場合には、その対象が、文学作品のみならず、音楽(モーツァルト)、絵画(フランス印象派)、古典(西行、実朝)など広範囲に渡っています。これらの音楽や絵画に触れていないと、理解は困難になります。

江藤淳の場合には、文学者、特に、明治の文豪、夏目漱石の作品への批評や、その伝記に関する著作の比重が大きいです。

私は、漱石の小説、「こころ」や「坊ちゃん」などが好きであり、また、西行や実朝の和歌も読んでおり、それらの理解を深めるために、小林や江藤に接近しました。

文学史的にいえば、小林は近代批評の確立者であり、江藤は、小林の影響を受けた、その継承者です。近代批評をわかりやすく言うと、それまでの批評が、単に他人の作品を説明したり、紹介したりした補完的な役割しか持たなかったものを、初めて、おのれの思想を語る、小説とならぶ、独立の文学作品としたのです。

このことは、例えば、小林の「近代絵画」のテーマと重なります。印象派以前の西洋の絵画が、それまで、単に、絵が、歴史の一場面を記録したり、人の肖像を残すというような従属的な手段であったものが、モネやセザンヌのような印象派の絵画が、作者個人の感じ方を、色彩から表現するという、独立的な価値を与えたという、西欧近代の誕生につながり、この近代絵画の誕生を介して、小林は、おのれを語っているのです。そこに、「近代」の意味を暗示し、自分がそれを体現しようとしているのです。

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彼らのわかりにくさは、彼らが批評家であるとい点にあるのだと思います。

批評というのは、他人の作品について、誉めたり批判したりすることです。対象となる作品に触れていないと、その批評の言わんとすることを理解することは難しいのが当然です。

小林秀雄の場合には、その対象が、文学作品のみならず、音楽(モーツァルト)、絵画(フランス印象派)、古典(西行、実朝)など広範囲に渡っています。これらの音楽や絵画に触れていないと、理解は困難になります。

江藤淳の場合には、文学者、特に、明治の文豪、夏目漱石の作品への批評や、その伝記に関する著作の比重が大きいです。

私は、漱石の小説、「こころ」や「坊ちゃん」などが好きであり、また、西行や実朝の和歌も読んでおり、それらの理解を深めるために、小林や江藤に接近しました。

文学史的にいえば、小林は近代批評の確立者であり、江藤は、小林の影響を受けた、その継承者です。近代批評をわかりやすく言うと、それまでの批評が、単に他人の作品を説明したり、紹介したりした補完的な役割しか持たなかったものを、初めて、おのれの思想を語る、小説とならぶ、独立の文学作品としたのです。

このことは、例えば、小林の「近代絵画」のテーマと重なります。印象派以前の西洋の絵画が、それまで、単に、絵が、歴史の一場面を記録したり、人の肖像を残すというような従属的な手段であったものが、モネやセザンヌのような印象派の絵画が、作者個人の感じ方を、色彩から表現するという、独立的な価値を与えたという、西欧近代の誕生につながり、この近代絵画の誕生を介して、小林は、おのれを語っているのです。そこに、「近代」の意味を暗示し、自分がそれを体現しようとしているのです。

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彼らのわかりにくさは、彼らが批評家であるとい点にあるのだと思います。

批評というのは、他人の作品について、誉めたり批判したりすることです。対象となる作品に触れていないと、その批評の言わんとすることを理解することは難しいのが当然です。

小林秀雄の場合には、その対象が、文学作品のみならず、音楽(モーツァルト)、絵画(フランス印象派)、古典(西行、実朝)など広範囲に渡っています。これらの音楽や絵画に触れていないと、理解は困難になります。

江藤淳の場合には、文学者、特に、明治の文豪、夏目漱石の作品への批評や、その伝記に関する著作の比重が大きいです。

私は、漱石の小説、「こころ」や「坊ちゃん」などが好きであり、また、西行や実朝の和歌も読んでおり、それらの理解を深めるために、小林や江藤に接近しました。

文学史的にいえば、小林は近代批評の確立者であり、江藤は、小林の影響を受けた、その継承者です。近代批評をわかりやすく言うと、それまでの批評が、単に他人の作品を説明したり、紹介したりした補完的な役割しか持たなかったものを、初めて、おのれの思想を語る、小説とならぶ、独立の文学作品としたのです。

このことは、例えば、小林の「近代絵画」のテーマと重なります。印象派以前の西洋の絵画が、それまで、単に、絵が、歴史の一場面を記録したり、人の肖像を残すというような従属的な手段であったものが、モネやセザンヌのような印象派の絵画が、作者個人の感じ方を、色彩から表現するという、独立的な価値を与えたという、西欧近代の誕生につながり、この近代絵画の誕生を介して、小林は、おのれを語っているのです。そこに、「近代」の意味を暗示し、自分がそれを体現しようとしているのです。

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彼らのわかりにくさは、彼らが批評家であるとい点にあるのだと思います。

批評というのは、他人の作品について、誉めたり批判したりすることです。対象となる作品に触れていないと、その批評の言わんとすることを理解することは難しいのが当然です。

小林秀雄の場合には、その対象が、文学作品のみならず、音楽(モーツァルト)、絵画(フランス印象派)、古典(西行、実朝)など広範囲に渡っています。これらの音楽や絵画に触れていないと、理解は困難になります。

江藤淳の場合には、文学者、特に、明治の文豪、夏目漱石の作品への批評や、その伝記に関する著作の比重が大きいです。

私は、漱石の小説、「こころ」や「坊ちゃん」などが好きであり、また、西行や実朝の和歌も読んでおり、それらの理解を深めるために、小林や江藤に接近しました。

文学史的にいえば、小林は近代批評の確立者であり、江藤は、小林の影響を受けた、その継承者です。近代批評をわかりやすく言うと、それまでの批評が、単に他人の作品を説明したり、紹介したりした補完的な役割しか持たなかったものを、初めて、おのれの思想を語る、小説とならぶ、独立の文学作品としたのです。

このことは、例えば、小林の「近代絵画」のテーマと重なります。印象派以前の西洋の絵画が、それまで、単に、絵が、歴史の一場面を記録したり、人の肖像を残すというような従属的な手段であったものが、モネやセザンヌのような印象派の絵画が、作者個人の感じ方を、色彩から表現するという、独立的な価値を与えたという、西欧近代の誕生につながり、この近代絵画の誕生を介して、小林は、おのれを語っているのです。そこに、「近代」の意味を暗示し、自分がそれを体現しようとしているのです。

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彼らのわかりにくさは、彼らが批評家であるとい点にあるのだと思います。

批評というのは、他人の作品について、誉めたり批判したりすることです。対象となる作品に触れていないと、その批評の言わんとすることを理解することは難しいのが当然です。

小林秀雄の場合には、その対象が、文学作品のみならず、音楽(モーツァルト)、絵画(フランス印象派)、古典(西行、実朝)など広範囲に渡っています。これらの音楽や絵画に触れていないと、理解は困難になります。

江藤淳の場合には、文学者、特に、明治の文豪、夏目漱石の作品への批評や、その伝記に関する著作の比重が大きいです。

私は、漱石の小説、「こころ」や「坊ちゃん」などが好きであり、また、西行や実朝の和歌も読んでおり、それらの理解を深めるために、小林や江藤に接近しました。

文学史的にいえば、小林は近代批評の確立者であり、江藤は、小林の影響を受けた、その継承者です。近代批評をわかりやすく言うと、それまでの批評が、単に他人の作品を説明したり、紹介したりした補完的な役割しか持たなかったものを、初めて、おのれの思想を語る、小説とならぶ、独立の文学作品としたのです。

このことは、例えば、小林の「近代絵画」のテーマと重なります。印象派以前の西洋の絵画が、それまで、単に、絵が、歴史の一場面を記録したり、人の肖像を残すというような従属的な手段であったものが、モネやセザンヌのような印象派の絵画が、作者個人の感じ方を、色彩から表現するという、独立的な価値を与えたという、西欧近代の誕生につながり、この近代絵画の誕生を介して、小林は、おのれを語っているのです。そこに、「近代」の意味を暗示し、自分がそれを体現しようとしているのです。

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彼らのわかりにくさは、彼らが批評家であるとい点にあるのだと思います。

批評というのは、他人の作品について、誉めたり批判したりすることです。対象となる作品に触れていないと、その批評の言わんとすることを理解することは難しいのが当然です。

小林秀雄の場合には、その対象が、文学作品のみならず、音楽(モーツァルト)、絵画(フランス印象派)、古典(西行、実朝)など広範囲に渡っています。これらの音楽や絵画に触れていないと、理解は困難になります。

江藤淳の場合には、文学者、特に、明治の文豪、夏目漱石の作品への批評や、その伝記に関する著作の比重が大きいです。

私は、漱石の小説、「こころ」や「坊ちゃん」などが好きであり、また、西行や実朝の和歌も読んでおり、それらの理解を深めるために、小林や江藤に接近しました。

文学史的にいえば、小林は近代批評の確立者であり、江藤は、小林の影響を受けた、その継承者です。近代批評をわかりやすく言うと、それまでの批評が、単に他人の作品を説明したり、紹介したりした補完的な役割しか持たなかったものを、初めて、おのれの思想を語る、小説とならぶ、独立の文学作品としたのです。

このことは、例えば、小林の「近代絵画」のテーマと重なります。印象派以前の西洋の絵画が、それまで、単に、絵が、歴史の一場面を記録したり、人の肖像を残すというような従属的な手段であったものが、モネやセザンヌのような印象派の絵画が、作者個人の感じ方を、色彩から表現するという、独立的な価値を与えたという、西欧近代の誕生につながり、この近代絵画の誕生を介して、小林は、おのれを語っているのです。そこに、「近代」の意味を暗示し、自分がそれを体現しようとしているのです。

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 「私には取り付く島もないほどに、理解不能なんです。

」その通りですね。私もそうでした。けれども、今は小林秀雄全集が本棚に入ってます。
 きっかけは、友人に勧められた「モォーツアルト」でした。
 不思議な作品です。文芸評論家が、音楽家を素材にする。・・・言葉を生業にする人間が、音楽を論じる。けれども、ここに小林 秀雄の本質があるのではないでしょうか?
 小林 秀雄は文芸評論家とされていますが、彼の作品は、評論というより、散文詩といっても宜しいのではないかと考えます。小林 秀雄自身も、文章の職人と自称しているはずです。但し、深い教養と、鋭い洞察・直感力に裏打ちされています。
 質問者さんは、とりあえず「モォーツアルト」をお読みになれば宜しいかと思います。読んでいるうちに、ト短調シンホニ、ハイドンセット、魔笛、レクイエム等が聴きたくなると思います。
 新しい分野を開発して下さい。
 
 
 
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