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皆さんこんにちは。
書き込んでいたら、自分でもわけがわからなくなって頭が痛く
なったので、間違えているところを教えてください。

天国があるかないかは誰にもわからないと思います。
したがって、天国の存在を信じてない人の中には、場合により
神も恐れぬ悪事をする人もいるかもしれません。
神の存在など信じていないからです。

では、天国がないと信じる人の「死の状態」というのはどういう
状態の事を指すのか。
恐らく、苦痛も楽しい事もない、後悔する暇もなく思考が停止
するだけの状態の事ではないかと考えます。
つまりまったくの無の状態になるという事です。

確かに天国がないとすれば、死んでも無の状態になるだけです。
しかし、仮に天国があるとすれば、地獄もあるということなので
現世のおこない次第では、地獄に落ちる可能性はあります。

天国があると信じて死んだ人は、思うとおり天国があれば
天国に行く事も可能かもしれません。
神を信じているので、現世で信仰も善行もしていると考える
からです。
つまり天国を信じている人は、最良なら天国行きで、最悪でも
無の状態ですみます。

反対に天国がないと信じている人は、最良の場合でも無の
状態になるだけであり、最悪であれば無限地獄に落ちます。

無論、天国を信じていない人でも善行を積み重ねている人も
いるとは思います。
しかし、これは心の奥底で天国を信じているのではないかと
思っています。

理由は、逆に考えて、天国を信じているのに、とんでもない
悪事をするはいないと思っているからです。
その人は、心の奥底で神を否定しているはずです。

と、言うことは天国を信じたほうが良いのですか?

A 回答 (20件中1~10件)

と、言うことは天国を信じたほうが良いのですか?



まず、信じるということは人間しかできないんですね。
それで各人は何かを信じているわけですが、未来を信じるためには何かしらの夢が必要ですね。その夢が真実に立脚するかどうかは各人にとっては大きな問題ではないように思います。
人生80年ほどで終わりだと信じる人はそれなりの生き方をするでしょう。そういう人は監獄に入りたくないから法律は犯さないという考えでもいいわけですね。
一方、人生80年でも死後の人生があり、そこには天国・地獄もあると信じる人は、法律もさりながら精神的にも道徳的な生き方をするでしょう。
さて、どちらがより人間的、あるいは高等な生物としての生き方かは明白だと思いますね。
法律や規則の範疇のみでの生き方は動物園の動物でもしてることですからね。
つまり、死後の人生を信じるということはより高等な生き方であるということですね。それが正しい人間としてのあり方だとおもいますね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

なるほど。かなり納得させられます。
そういう考えで、天国を信じる方法もあるのですね。
勉強になり、ありがとうございました。

お礼日時:2009/10/12 09:10

わたしの信じることを書かせてくださいね。



天国も地獄も、すでにこの世にあります。
天国地獄は、場所の違いではなく、何を知覚するかの違いです。

この世には、天国に暮らしている人、人間界に暮らしている人、
地獄に暮らしている人が混ざってくらしています。
でも、ある程度の住み分けはあります。

天国への切符は、善行を積み重ねることではありません。
行いそのものよりも、その人の魂が、どれだけきれいになったか、
その割合によって住み分けが生じるのです。

相手を自分だ、と思って愛することが天国のやり方であり、

お前と私は他人だ、と相手に苦しみを負わせることが地獄のやりかたです。

質問の意図と、外れていたらごめんなさいね。

私は、この世の地獄に住んでいましたが、神の恵みにより、今は天国におります。無条件の至福というものを与えられました。

至福に浸っている状態では、この世の悩みは全て小さなことに思えます。

至福の状態で、人と接すると、たいていの人が、笑顔で心を開いてくださいます。会う人みなさんが、天国の住人のように感じられます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

なるほど、この世がそうだといわれるわけですね。
僕もそれは少し感じるところがあります。
特に地獄があるとすれば現世かもしれません。

お礼日時:2009/10/17 10:28

「無いものは想像しない」と想われますので、「天国は存在する」のかと想われます。

(反面の地獄も)

ガンダムを見ていただいたら分りますように、最初は等身大ガンダムなんてもってのほかだったのに、今ではお台場に等身大ガンダムが設置される(動く事は出来ませんが)な状況です。

ただ、仮に天国が存在していたと仮定するとして
「信じれば天国にいける」とは限らないと想います。

「その世界に受け入れられる、受け入れられない」が人間界であるのならば
同時に神界でも同じ事が言えると想われます。

ただ恐らくは天国も地獄も「そういう印象として描かれているだけ」であって実際のところは「透明の中」の中で「そういう場所がある」のかもしれません。

スピリチュアル的には「アンセデットマスター」という風に
人生で最善に精神成長を行ったものは、次に人々の成長を見守る役柄になる、とあるように、天国、ではないかもしれませんが、次のステップに進むという事は考えられます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

なるほど、「無いものは想像しない」ですか。
一つ勉強になりました。
ありがとうございました。

お礼日時:2009/10/17 10:25

こんにちは。



確かに、地獄や天国があるかないかは誰にもわからないと思います。

地獄の存在を信じてない人の中には、場合により
神をも恐れぬ悪事をする人もいるかもしれません。
神の存在など信じていないからです。

では、地獄がないと信じる人の「死の状態」というのはどういう
状態の事を指すのか。
恐らく、現世の拷問、苦痛も何もない、後悔する暇もなく思考が停止
するだけの状態の事ではないかと考えます。
つまりまったくの今のまま、
現世の責め苦を抱え込んだままの状態になるという事です。

確かに天国も地獄も存在しないとすれば、現世からのがれることができるだけであり
死んでも無の状態になるだけです。

しかし、仮に天国があるとすれば、地獄もあるということなので
現世のおこない次第では、地獄に落ちる可能性はあります。

逆に、天国があると信じて死んだ人は、思うとおりの天国が
存在しないことに度肝を抜かれ、
その場で発狂してしまうかもしれません。

神を信じ、現世で信仰も善行もしていたのにと考える
からです。

つまり天国を信じている人は、在りもしないものを信じているので、
それがないことを想定さえしておらず、現世よりひどい仕打ちを受けるあの世=地獄で
連日の断末魔の中で、肌をむきとられ、地獄の業火の中で血まみれになってのた打ち回るのでしょう。

反対に天国がないと信じている人は、最悪の場合でも現世の責め苦が続くだけであり、最悪でもスタンダードの地獄に落ちるだけです。

ところで、思考停止が現象として起こっている「ところ」は、一体どこでしょうか。
実際に人が責め苦を受けているのは、「いつ」でしょうか。地獄は、本当に存在しないのでしょうか?

地獄に地獄の獄卒がいるとして、その獄卒の残虐を野次馬として眺めている者は、その獄卒とどういう関係にあるのでしょうか?

神を信じていれば、地獄の獄卒として働いていてもよいのでしょうか?
神を信じる野次馬は、本当に「善なる野次馬」なのでしょうか?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

死後の世界は誰にもわかちません。
ゆえに、僕の書いていることはまったくの的はずれで、
本当は天国も、地獄も、無の世界でさえも、ないのかも
しれません。
おっしゃってる地獄の獄卒というのも、僕にはどのような
ものを言っているのかわかりませんが、それも、あるか
ないか、誰にもわからないところでしょう。

お礼日時:2009/10/17 10:23

 天国や地獄という概念は、人間が悪い事しないように又は人間を幸福に導くための方便(手段、方法)だとは、思いませんか。


 天国や地獄が存在していようがいまいが、その存在を信じる事で良い事をしたり、幸福を感じる事が出来るのであれば、それはそれで良いと思います。
 私は、死後や天国や地獄に行くことを信じてはいませんが、悪行を行ったりはしたくありません。悪い事をすれば、心が苦しくなるし他人からも悪い事の仕返しをされと思うからです。そして、警察に捕まって自由を奪われてしまいますよね。とても幸福とは呼べませんよね。
 ところで、死後天国とか地獄へ行くと言っていますが、「何」が行くんですか?魂とかですか?
 私は、「自分たらしめるもの」は、記憶だと思っています。
 生まれたての人間は、初期化されているディスクみたいなものだと思っています。その状態では、まだ「自我」というものが形成されていないと思うのです。人それぞれ色んな情報や経験を身に付けることで次第に、「自我」が形成されていき、「自我の目覚め」へと成長していくのだと考えています。
 しかし、死とともに脳みそに蓄えられていた記憶は破壊され「自我」もまた「無」に帰すると考えます。
 ですから霊魂などが仮に存在するとしても、記憶を持っていないわけですから、それは「自分」ではありませんよね。
 仏教では、地獄も極楽も人間が生きている時に存在するものです。
 つまり、地獄とは悟りを開けず、苦しみもがいている状態。極楽とは、悟りを開き、苦しみから解放された安楽な状態。の事を言うのです。
人間、生きている時が大事だと思うのです。あるかどうか知る事が出来ない死後のことなど考えるてもどうしようもないと思いませんか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

おっしゃるとおりです。
宗教自体が乱世の時代に、秩序をや人間としてのモラルを
設けるために出来たものだと考えています。
悪いことをすると、地獄という所があって死後、未来永劫
苦しまなくてはいけない、というような脅しのような感じでしょうか。

お礼日時:2009/10/17 10:15

問題は、天国でも、死ぬことが出来るかどうか、ですね。


あるいは、地獄でも、死ぬことが出来るかどうか、です。
つまり、天国や地獄を脱出することが出来るかどうか、ですよ。

この世界と、あの世界を、自由に行き来できるならば、
結局、自分の趣味に合う世界を選択すべきだと思います。

地獄が好きならば、地獄を選べばいいだけのことです。
常に、楽しいことを考えられたらいいと思います。
どちらかというと、地獄のほうが楽しいようにも思います。
なぜなら、解決すべき問題がたくさんあるからです。

天国を信じて、自爆テロをするのも、美しいですよね。
でも、何が良いのでしょうかね。
僕も、自爆テロできるならば、それは良いとは思います。
でも、それは、自爆テロをすることが良いと本気で思うことです。
私には、到底、本気で思うことはできません。

天国を信じたら、天国へ行けるというのも不思議です。
天国にいる神様は、そんなに、評価されたいのでしょうか。
信仰が、結果に結びつくことはないと思います。
しかし、それを結果とみなすことが、現代の宗教なのでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

なるほど、いろいろな考え方があるものですね。
参考になりました。
ありがとうござました。

お礼日時:2009/10/17 10:10

>つまり天国を信じている人は、最良なら天国行きで、最悪でも


無の状態ですみます。
:という理由で天国を信じるんですよね?
なかなか面白いとは思うのですが、こういった思考は根本的なジレンマに人を陥れませんかね。
「死後に何か良いことがあるという理由で私は天国(神)を信じるのだろうか?」という。
「そうだ」とすれば、これはある種の【打算】でしょうから、信仰とは一線を画した考え方になってしまわないでしょうか。

つまり、
「信じたほうが良いから信じる」 
のではなく、
「無条件に信じる」
というのが本来の信仰なんじゃないだろうか、という気がするわけです。
全くの無神論者ですが、このように感じました。
 
直接的な回答としては、以上の理由により、
「(天国を)信じたほうが良いのですか?」
は、ご質問として成立していない、ということになります。

「はい」と答えれば、地獄行きを言い渡されても止むを得ない「打算」を認めることになりますし、
「いいえ」と答えれば、天国自体を否定することになりますから、
天国を信じる方々にとっては回答不可能です。

天国を信じない方々にとっては、天国は元々無いわけですから信じること自体ができないはずで、まして、信じるほうが良いかどうか、と聞かれても返答しようがないでしょう。
  
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

僕のこの質問は下記のお礼にもありますように、ある小説の
パクリで、それを自分なりに少しアレンジしてみました。
その小説の基となっているのがプラトンの定理らしいです。

本来の信仰と言うのは、おっしゃるとおりだとは思います。
ただ、見返りを求めるのも人間であれば
仕方がないのではないかと、思ってもみました。

お礼日時:2009/10/17 10:06

これから事実だけを書きます。



私は幽体離脱が出来ます。この地球系霊界には幾千億の村や街があります。そしてそこには自分と同じ考えや、同じ悟りの境地の人々が暮らしています。

実は、信じてもらえませんでしょうが、お釈迦様にもお会いしました。背後の守護霊さまから「またお会いすることがあるから、良く覚えていなさい」との言葉で今でもはっきりと覚えています。

また、天の童子たちにも会いました。年のころ4、5歳の男の子と女の子たちでした。それはそれは絵にも描けないほど可愛かったですよ。

それから低位霊界に行くと、薄暗い村々がありました。自分が霊であることを理解していない人々が住まう所でもあります。

余談になりますが、私が仏壇の蝋燭の明かりを灯すと、その小さな蝋燭の炎が二度三度と一メートルぐらい燃え上がりました。そして後ろを振り向くと、右手のガラス窓から二個の球体がすり抜け、私の後ろをゆっくりと通って行きました。
その時「ああ、親父か…」と思いました。直径25センチの丸い透明な球体でした。その前を行く直径35センチの球体は「親父の守護霊か」と感じました。
そしてそのまま左手の襖の中に消えて行きました。母は眠っていました。その夢の中で、「親父と話しているのだなあ」と思ったのです。

三次元で見ると、霊とはこのような球体に見えるのです。生きている人間にも、ちょうど心臓の部位辺りに宿っています。

死んだら無になると思っておられる人は、暫くのあいだ浮遊霊になるかもしれませんが、生前親しかった方がやがて現れ、行くべき処に導かれることと思われます。
以上、簡単に事実だけを伝えました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

稀有な経験をお持ちですね。
信じる信じないは別にしても、あの世はあなたのおっしゃる
とおりなのかもしれない。
いずれにしても、経験者?以外は、あの世はすべてが謎ですね。

お礼日時:2009/10/12 13:03

まず、霊界があることは、できれば信じた方がいいと思います。


信じれなかった場合でも、死後、魂が肉体から離脱して自分の葬式を眺めたり、霊界でのガイダンスによって自分が霊であることを悟ることはありえるそうですが、中には様々な本人自身の事情等により、死後も自分が霊であることを認識できないがために苦を味わうという事例も多々ある、と本で読んだからです。(やがて霊的自覚に目覚めるということはありえるそうですが。)
ちなみに霊能者は数は少ないですが、そうした様相が見える方はいらっしゃるわけで、そうした方の書物等を見聞してみて、霊的なこと以外の面においても信頼できそうであれば、その延長で霊的なことも信頼できてもいいと思います。
信じるということは、別に霊的なことに限らず、日常にありふれているわけであり、信じるということ自体、そもそも直接自分で確認していない事柄であることを示しています。
そして、通常、なぜでは信じることができるかというと、過去の実績や理論面等から、うそではなさそうだ、と感じることができるからだと思うわけで、それは霊的なことであろうとなかろうと同じようなものだと思います。

次に、私は上記の延長で、天国・地獄もあると思いますが、これも信じた方がいいと思います。
死後は肉体は焼却されますから、死後、自分が存在するとするならば、肉体から霊魂が離脱した状態であるでしょう。
そして、霊魂とは主として心そのものですから、心の状態等に応じた世界が展開することはおかしくないと思います。
そして、それをできれば信じた方がいいと思います。
少なくとも、
過度な利己主義的幸福感は、常に利己的な事柄に満たされなていないと満足できないという渇望的苦の状態であることも多いかと思います。
一方、天国的あり方とは、他者と調和しているあり方でしょうから、この世においてもあの世においても、そういう社会を念願して生きて行く、ということ自体、幸福なあり方であると思えますから。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>過度な利己主義的幸福感は、常に利己的な事柄に満たされ
なていないと満足できないという渇望的苦の状態であること
も多いかと思います。

これは確かにそうかもしれませんね。
天国の存在を信じたほうが、良いという事ですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2009/10/12 13:12

人に聞いている段階で答えは出ない。


つまりあなたの自由なのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

なるほど、それはそうかもしれませんね。
ありがとうございました。

お礼日時:2009/10/12 08:59

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