牛、豚、鶏、どれか一つ食べられなくなるとしたら?

生=苦痛の回避
死=苦痛の不在

苦痛をなるべくなくすこと=幸せが目的である人間にとって
死しか生産的で価値のあることはない
違いますか?

A 回答 (13件中1~10件)

 こんにちは。



 ううん。ただ 死はまだ知らないし あまり好きくないんですよねぇ。どうでしょうか?
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人は時が経てば追憶の内に生きる



では追憶の中に去った人達は何処に居るのか・・・

死という境の向こう側を知らない者にとって

その世界を語る事は想像でしか無い

想像の世界への感情に流されて、現実を見失う事は

死というものが与えてくれた、生の現実の貴重さを見失うことにもなる・・・

生の現実の貴重な時間を見失えば(私に)何が残るのだろう

残された時間を感じるほど(私は)自分を捨てようとは思わない

それが正しいのか、誤りなのか、という事では無く

死という境を前にして

この世が(自分はいずれにしても)新鮮で美しいものとして感じるから・・・です

新鮮で美しいものが感じられ無かったら(私は)この世から居なくなっていたかもしれない・・・

単にこの世への未練かも・・・そんなところです。

(私も若い頃は質問者様のように理詰めで考えたものです、今は実感のみで考えるというか生きているようになってしまいました、ご参考にして下さい)
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生きる目的は、充足量の最大化であって、苦痛からの逃避の結果ではありません。


それは、助け合いとしての社会=自律的生存から、貨幣や権力といった“馬車馬の目の前のニンジン(=社会的二次的価値)”によって他律的に生かされるようになった、現代の自己チュー人間の病巣です。

物質に「目的」はありません。
しかし、その「無目的=エントロピー増大」は淘汰となり、二次的に進化を導きます。
「いや違う!」と主張する事は可能ですが、厳しい生存競争の中で、生き残るために努力しない個体の遺伝子が次世代に伝わり、種の形質となる事はなく、進化は常に、「生きる事」を目的とするよう導くのです。

一方、どのような行動も、本質的には任意=意志の充足であり、「意志の充足じゃない」というのも一つの意志として、精神的充足の追及という方向性から逃れることはできません。
生きる事の本質的目的は、人生を通算した充足量の最大化(生理的拡大×欲求の強さ×それを「人生通算での最大」にコントロールする認識力×その達成度×それを把握する認識力)に収束します。

「精神的充足感のため」というのは、刹那的な快楽主義に帰結するのではなく、最大限の大きな目的、最大限の愛と、最大限の認識を兼ね備えたものになるのです(短絡的な快感の帰結は麻薬だが、それが最大充足でないのはご存知の通り)。

であるならば、人が生きるのは、物質的豊かさのためではなく、精神的充足感のためであり、人が働くのは、お金をもらうためではなく、助け合い=愛のためです。
生物として、「生きること」が唯一の目的であるが、社会生命=助け合うために集まっているものとしては、働くことが生きること。

しかし今、そうした「他人を助ける」=愛のために働いている人が、どれほどいるでしょう?
人がとらわれているのは、“お金(や、その源泉としての出世)”という虚構の価値であって。
原始共産制の助け合いから、組織が分業化&拡大する上で、人の意識の社会性を発達させずに、お金や権力といった“馬車馬の目の前のニンジン”で、他律的に社会行動をとらせる道をとったのです。

お金は、本来助け合うために集まったはずの社会において、自己チュー的な意識のまま社会行動をとらせるための“矯正具”として発達したものなので(社会生命として生きる事である労働(助け合い)を、お金をもらうために嫌々働く)、当然、自由意志を束縛する機能があります。
本来、社会的生命として助け合うために集まっている人々をして、弱肉強食のジャングルに変える、悪魔のツール。

要するに今の人は、自ら喜び(自己存在の本質に根ざした生)に目をそむけ、他律的生=「苦痛から逃げる事による生」に堕しているのです。
(「助け合う喜び」から「奪い合って勝つ喜び(幻想)」への変質)
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 あらためまして こんにちは。

No.4です。

 ひょっとして 《死》とは キリスト・イエスの十字架上のそれを差し示そうとしていますか?
 たぶん ちがうと思いますが そのべらぼう話をも書きこむことにしましょうか。

 かれの死は 二重の死です。
 人間イエスとしては大声で泣きながら 木の上に就きました。神の独り子でありみづからも神であるキリストとしては 磔になることを欲して木の上にのぼりました。
 イエスとしては 人間がこうむる普通の死 これを身に受けます。キリストとしては このように人間なら誰しも受けざるを得ない死の死を見越して――繰り返します 死 の 死 を見越して―― 張りつけの死を身に引き受けます。

 死の死です。人間の死に死がおとづれます。
 死が死ぬのです。ここで
 ★ 「死」しか生産的で価値のあるものはない。(もしくは なかった)。
 ☆ という命題が現われます。
 そういう物語です。

 かなしいかな。かなしみよ おまえは絶えぬものなのか。あぁ あわれ 人間よかな。
 何をか言わんや。この死が死ななくなる者がいると言います。
 とわの死です。とことわの死に到る人間がいるそうな。

 人間にとって老死はまぬかれないという意味でのふつうの死は 第一の死であって これは死にます。ひとはよみがえります。
 ところが この第一の死が死ななくなる人間がいると言います。死が確定すると言います。永遠の死です。永遠の火の中に住むそうです。

 という物語をわたしは聞いています。
 参考までに。
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>>苦痛をなるべくなくすこと=幸せが目的である人間にとって死しか生産的で価値のあることはない違いますか?



この論拠は「死=苦痛の不在」ということでしょうが、これがいけませんね。
なんでももっと論理的に考えないとね。普通に考えると3通りありますね。
(1)「死=苦痛の不在」
(2)「死=苦痛の存在」
(3)「死=無:苦痛の不在も存在もなんにもない」
何が正しいかはわからないけど、(1)も(2)も(3)もありうるわけですね。これは昔から言われている(1)=天国、(2)=地獄 (3)=死ねば終わり何にも無い。「苦痛の不在」ということであれば(1)と(3)は同じでしょうから、死んで苦痛がなくなる確率は2/3ともいえますね。でも多くの宗教やそれに付随するモラールでは苦痛の不在は確率的に小さいという見方が多数ですね。つまり確率的には(1)(2)(3)のどれも当てにならないということですから個々人が何を信じるかによるわけですね。
それゆえ、論議として「死しか生産的で価値のあることはない。」という結論にはならないのですね。
死が「苦痛の存在」であれば「死ほど生産的でない価値の無いものはない。」という答えもあるわけですね。
何が正しいかは個々人がしっかり生き抜きじっくり考えるしか答えが出ない問題ですね。
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ここは哲学欄ですから、雰囲気ではなく、「学」として論じましょう。



生産的と価値という言葉で、それぞれ何を意味しているのでしょか。先ず、価値について論じてみます。この言葉を理解するには、「価値観の違い」が何を意味するかを考えてみれば判ります。価値観の違いとは、世界観の違い、あるいは、文化の違い、と言う意味ですね。貴方の育った国や環境や、貴方の経験して来た偶然な出来事が、その環境に属する人間達の共通な個性、すなわち文化を形作り、また、貴方自身の固有な個性を形作っております。ですから、文化の違った世界に入り込むと、自分では善しとすることが相手に通じなかったり、あるいはその逆の立場になったりで、何か場違いなところに来てしまった気になります。このように価値観の違いは、即、個性の違いを意味しますから、価値観、あるいは文化は必然的に多様であるはずです。このことから、貴方が「死は価値がある」と言う主張は、「私は、『死は価値がある』と言うことに同意する文化を持っている」とうことと同義語になっていると考えられます。上にも述べましたように、文化は必然的に多様ですから、貴方の主張を善しとする文化や個性も存在し、また、悪しとする文化や個性があって当然なのです。また、文化や個性は、歴史的な偶然の積み重ねで生まれてくるものですから、その歴史性を無視して、論理的に文化や個性の善し悪しを論じることに余り意味があるとは思えません。それどころか、この多様性を否定して、一方が他方に自分の価値観を押し付けると言う弊害があります。相手の文化の存在を認め、君子は和して同ぜず、というのが在りうべき態度だと思います。

次に、「生産的」とは何を意味するのか。これは、今上で述べた「価値観」の良い練習問題です。私は、自然科学者として生活をして来ましたが、私の属する文化では、「生産的である」とは、「創造的である」と同義語です。その文化に属する人間から見ると「死は創造的か」と言われても、「は~?」という反応しか出て来ません。従って、私の属する文化では、「死は生産的か」と言う質問は、質問として体を成していません。しかし、私のこの見解なり、価値観を敷衍して、皆に押し付ける気はありません。上にも述べましたように、違った文化に属すれば、その方にとっては、「死は生産的か」が体を成すのかもしれませんから。そして、私にはわけの判らない主張をするような多様性を許容しているこの世界が、私をしてこの世に生を受けたことに喜びを味あわせてくれているのだと言う文化に私は属しているからです。
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まず、全てを「目的論的」に捕らえること自体に問題があります。


(ゾウリムシも「苦痛」を避けるように行動します。)

「幸せが目的」が最初にあるのではなく、
「生きている」ということが最初にあるわけです。
おなじ「生きる」のであれば、「幸せな方が良いよね」といったレベルでの話でしかない。

また、No.7にても指摘のあるように
>>>
死=苦痛の不在
<<<
は証明されていないだけではなく、もし仮にそうであるならば
「死=幸せの不在」
「死=生産的の不在」
「死=価値の不在」
も同時に成立します。

したがって、もし仮に「幸せが目的」で「生産的かつ価値のあることを求める」のであるならば、「生きる」ことが必要不可欠な条件であることは、当然のことになるでしょう。

冒頭に戻りますが、決して(トップダウン的に)「目的」が最初にあるわけではないということを深く考えるべきだと思います。
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>死=苦痛の不在


この件に関しては、人類史上まだ誰もそれを証明していないはずですが。
(当方が無知で知らないだけなのでしたら、是非この内容について詳しく書かれているものをご教示下さい)
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御質問の趣旨は罪の観念に由来している。


原罪に関する考察を読み解いて罪のなんたるかを考察すれば見解も変わるでしょう。

回答らしく意見を述べるなら、「罪などない」と、表明します。
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>幸せが目的である人間にとって


>死しか生産的で価値のあることはない

死=無

無の中で、苦痛も幸せも感じることは無いと思いますが・・・

また、人間にとって幸せとは苦痛を無くすことが幸せなのでしょうか?
幸せとは、苦痛を乗り越えてこそ初めて感じるものだと思います。

確かに、死には「価値」というより「意味」があると思います。
しかしそれは、「生きた」ものの「死」にのみ与えられる「証拠」なのではないでしょうか?
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