dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

皆さんこんにちは。

昭和20年8月15日に太平洋戦争は終わるわけですが、
日本政府が勝つ見込みがないと、考えていたのは、
いつぐらいからなのでしょうか?

そして、それならなぜもっと早く終わらす事ができなかった
のでしょうか?

よろしくお願い致します。

A 回答 (23件中11~20件)

えーと、なんか無茶苦茶なことを言ってる回答者様がたくさんいるので、


ちと講釈たれます。

「日本に有利な講和条件で戦争を終わらすために長引かせた」
と言ってる人が多いですが、史実では日本は連合国側の要求(ポツダム宣言)
を無条件に受け入れており、「日本側に有利な講和条件」など全く勝ち取ることができないまま終戦となっています。


むしろ、ソ連参戦前に降伏しておけば、北方領土をソ連に不法占拠されることも無かったんじゃ?
とさえ言えるのですが。


さて、回答に移りましょう。
結論から言いますと、日本政府は、開戦前から勝つ見込みがないのは分かっていました。
当時の国力で言えば、1941年当時のGNP アメリカ:約1000億ドル、日本:92億ドル。10倍以上違っていたんです。
つまり、10倍以上相手の方が戦争が強い訳で、素人考えでも「勝てるわけないだろ!」ってことは分かる状態です。
(実際に首脳会議では勝てる見込みがないことを前提に話しています)



それなのになぜ始めたか?
なぜ4年間もズルズルと戦争を続けたのか?
という話になりますが、これは結論を言ってしまえば、「日本の官僚組織の硬直性のため」
ということになると思います。
例えば最近の例で言えば、「ゆとり教育」。
ゆとり教育は導入前から批判されまくっていて、導入した後、予想通りだめだめな結果でしたが、それでも文部省(後に文部科学省)は
「ゆとり教育は正しい」と自分の間違いを認めず、ゆとりを推進しました。
(だいぶ後になって撤回しましたが)

簡単にメカニズムを言いますと、日本人の特性として、
「リーダーシップをとる人がいない」「足の引っ張り合い」「事なかれ主義」
ということが挙げられると思います。
つまり、一度アメリカ戦なり、ゆとり教育なりをやる雰囲気になってしまうと、「身を挺してやめさせる」とか「リーダーシップを発揮してやめさせる」とか、そういうことをできる人がいない。
なので、「一度進みだしたら止まらない」状態になってしまうんです。


もう一つ付け加えると、
普通、戦争は事前に勝敗を予想して、
「この戦争は勝てるだろう」「勝ったらこういう条件で講和してこのタイミングで講和を持ちかけよう」
「予想に反して苦しいタイミングになったらこういう条件をこのタイミングで持ち出そう」
とか「戦争を終わらせる方法」を考えてから戦争を始めるのですが、
日本は、そういう計画が全くないまま戦争を始めました。
つまり、終わらせる予定がたたないまま勝てないと分かっている戦争を始めたわけです。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

なるほど。何の計画性ももたない人間が上層部に
多かったのですね。
そして、もう戦争をやめようと、勇気のある言動をする
人間も上層部には、いなかった。という事ですね。

ぜひ、参考にさせていただきます!

お礼日時:2009/11/14 14:32

そりゃ出来ますよ。

日本が一方的に停戦(昭和20年8月15日は終戦日じゃありませんよ。日本の一方的軍事攻勢停止宣言日です)すれば良いだけです。但し、米国・英国・中国は日本に対する停戦意思はありませんので日本人を皆殺ししようと何をしようと自由勝手です。それでよろしければです。

 何故、昭和20年8月15日に日本が一方的軍事攻勢停止宣言できたのかを考えることです。米英中は7月26日にポツダム宣言を発表しました。それは連合国が日本との戦争継続は望まないという意思です。日本の回答は国体の維持です。両者が合意に至ったのが8月10日でその証明として8月15日の玉音放送です。これに対して連合国は随時停戦に応じて8月26日までに各国は軍事行動を停止しました。そして9月2日にミズーリ号上で両者が停戦合意のサインをしたのです。9月3日公式に終戦となります。

 私はあなたに聞きたいのは昭和19年に停戦宣言して何の意味があるのかを聞きたいです。史実の歴史は
1:日本は台湾・朝鮮の統治権放棄
2:日本は満洲市場を中国に返還
3:連合国は日本への領土割譲要求はしない
4:連合国は東南アジアの独立を認め、日本の市場参入を拒まない
5:英国はインドの独立を認める
と、日本にかなり有利な条件の講和です。19年に停戦したらこれより良い条件を引き出せたのですか?

大東亜戦争は連合国にとって「戦に勝って、勝負に負けた」典型な戦争です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>私はあなたに聞きたいのは昭和19年に停戦宣言して~

いつやめたら良いか、と、いう事は僕にはわかりません。
でも、どうせやめるのであれば、被害が大きくならないうちに
もっと早くやめたほうが、良かったのではないか。と思いました。

ぜひ参考にさせていただきます!

お礼日時:2009/11/14 08:56

すみません、誤字がありました。



>&レイテ沖開戦

「レイテ沖海戦」です。変換ミス失礼しました。
    • good
    • 0

開戦前から勝利が難しいこと、米国とは国力に差があることを知っている人は知っていました。


政府が民間人も呼んで事前シミュレーションを行ったそうですが、勝利という結果にならなかったそうです。
でも指導部はその結果を採用せず、また、諸般の事情の積み重なりで開戦となりました。
そして緒戦が上手く行ったので、調子に乗って拡大したのでしょう。

太平洋戦争の天王山(天下分け目の戦い)と呼ばれる戦闘はいくつかありますが、1944年のレイテ島の戦い&レイテ沖開戦も天王山と呼ばれます。
ということは、その時点でもひっくり返せると思っていたのでは・・・・。
(直前の台湾沖航空戦で日本が大戦果を上げたという勘違い&誤報が影響したと言われています。
実際には敵の損害はそれほど大きくなかった)

最後のほうは戦争終結を画策している最中に原爆投下がありました。
また、降伏反対/本土決戦しようとする意見もありました。
政府内で意見が一致していたわけではありませんでしたし、玉音放送を流すのも一苦労でした。
一苦労というか、クーデター未遂ですが。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%9F%8E% …
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

なるほど。政府内でも、いろいろ対立があったのですね。

ぜひ参考にさせていただきます!

お礼日時:2009/11/14 09:24

他の方の回答への補足にしかなりませんが、海軍としてはあ号作戦つまりマリアナ海戦に敗北した辺りで「もうダメだな」という気分にはなっていたようです。


マリアナ海戦では日本軍はアウトレンジ戦法で望み、実際日本軍が米艦隊を捉えて攻撃隊を発進させたときは小沢艦隊は米艦隊の攻撃半径外だったうえにまだ艦隊の位置がバレていませんでした。しかし蓋を開けてみるとレーダーによって待ち伏せされ日本の航空隊はほぼ全滅、相手への損害は全くといっていいほど与えられずしかも最終的には大鳳など多くの艦艇を失いました。「こちらがベスト(と思った)手を尽くしても相手に損害を与えられない」というのはかなりこたえたようです。
とはいえ、大和や武蔵を始め主力戦艦隊はまだ残っていたのですから当時の常識では「海軍の主力は戦艦」なので、それが残っている時点で敗北を認めるわけにはいかなかったでしょうね。

また連合国が優位に立った1944年から、連合国側は枢軸側との個別の停戦には応じず相手の首都まで攻め込む徹底抗戦をすると米英ソの間で合意がされていました。こちら側が「停戦しよう」と呼びかけても向こうに応じる気持ちがなければ交渉は成立しません。そして、ナチスがユダヤ人を根絶やしにしようとしたように民族差別が常識だった当時では、完全降伏に応じれば日本人が根絶やしにされるという恐怖もリアルにあったと思います。現代でも外国人に参政権を与えると日本が韓国中国に支配されるとリアルに考えている人がいます。それよりもはるかにリアリティのある話だったでしょうね。

実際のところは8月15日に昭和天皇による「逆クーデター」のような形で終戦を迎えるのですが、あの昭和天皇の決断がなければ第三の原爆が新潟に落ち、本土決戦となってさらに多くの人命が失われただろうと思えばまだ「本当の意味で最悪ではなかった」といえるかもしれません。
政府及び軍部が決断できなかった理由は#4さんの通りだと思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

なるほど。停戦というか降伏なのですが、
東京大空襲でかなりの被害を受けたので、
その時点での降伏は難しいのでしょうかね。

ぜひ参考にさせていただきます!

お礼日時:2009/11/14 09:21

戦争の終わりかたって、単純な勝ち負けじゃないんですよ。


負けと一言で言っても、双方賠償なしの停戦から、賠償金の支払い、植民地の割譲、領土の割譲、政体の変更、国家の解体・植民地化までいろいろランクがあるんですよ。
ポツダム宣言は1945年7月26日に発せられましたが、その辺明記されていません。(国家の解体はなさそうな文章ですが)
日本政府のなんとしても守りたかったのは国体の護持(天皇制の維持)で、それを守るための和平工作がソ連を通じて行われています。
そんな中8月8日にソ連が対日参戦し、日本政府は万策尽きて8月9日にアメリカに対して「国体の護持」を条件としてのポツダム宣言受諾を提案しますが、「バーンズ回答」によって曖昧な回答をなされ、結局14日に降伏となります。

なぜもっと早く降伏できなかったかといえば、国体の護持にこだわった為であり、またポツダム宣言が発せられるまではあいてが停戦を望まないので降伏は事実上不可能だったでしょう。またもし7月の時点で降伏をしていても、抗戦派による内戦のリスクが極めて高かったかと思います。じっさい史実でも宮城事件が起きていますが、原爆投下やソ連参戦の前では、抗戦派の勢いはさらに激しかったでしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

なるほど。国体の護持ですね。
それと、相手は停戦を望まない。というのは
日本はわかっていたのでしょうか?

ぜひ参考にさせていただきます!

お礼日時:2009/11/14 09:15

ネタですが、満鉄調査部が行った支那抗戦力調査(1939年-1940年) で、すでに日本は中国にすら勝てないと、結果が出てしまってます。


日本最高のシンクタンクの調査結果だということに、留意してください。

形式にとらわれた回答なら、鈴木貫太郎内閣の時点で、政府は終戦(敗戦)にむけて動き始めます。この内閣ができた時点で、1番さんの言われているようなデータが中央に集まり、戦争を終わらせる、という流れになります。

大陸ではソ連軍との数日の条約違反の戦闘以外では、帝国陸軍は負け戦をしていません。負け戦の実感がない400万陸軍の総意を敗戦に落ち着かせるのに、時間がかかったのです。

終戦の詔勅を録音した「玉音盤」は、8月14日深夜に録音されましたが、予告は14日から、数回にわたり行われています。特に15日は放送開始と同時に予告がなされます。これは、農民は農作業に早朝からでるので、15日正午の重大放送予告を朝一番から放送したという理由があります。
一月前からというのはなにかのまちがいでしょう。私の父は東京中央区で3回の大空襲を経験し、中央区で玉音放送を聞いていますが、予告は当日の朝からだったそうです。同じことを、鉄道作家の宮脇俊三も、「時刻表昭和史」のなかで書いています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E9%9F%B3% …
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

なるほど。陸軍を納得させるために時間が
かかったのですね。

ぜひ参考にさせていただきます!

お礼日時:2009/11/14 09:11

アメリカが日本を原爆の実験場にする為に、その前に降伏されては困るので無理な条件をつけていたからです。

    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

なるほど。アメリカの策略ですね。

ぜひ参考にさせていただきます!

お礼日時:2009/11/14 09:09

戦争特需で景気が良くて国民が後押ししたからです。


負けたからといって全ての工場が操業停止になれば、国民はたちまち生活に困るからです。
食べるものもなく悲惨だったというのは、負けた後の戦後すぐのことです。

今の、多額の政府支出を求めるのと似ています。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

なるほど。国民が後押ししたのですね。

ぜひ参考にさせていただきます!

お礼日時:2009/11/14 09:08

20年前のバルブ経済やアメリカのサブプライムローンなど後から見れば「近い将来の破綻は間違いない」ものが、数多くの警告を受けつつも破綻するまで多くの人間が踊っていました。


後世の視点で考えるのと、当事者として見るのでは全く違うのです。
日本でも戦前はもちろん。戦中に出版された軍事書籍を見ても、米国の国力と膨大な軍需生産の情報から「対米戦に勝算は薄い」という意見は決して珍しくは無かった事が伺えます。
しかしそのような主張は開戦直後の大勝利で、広大な占領地を獲得したことにより「米国恐るるに足らず」という威勢のよい意見に駆逐されてしまったのです。
例えば顧客に対し、大きな利益を唱えて金を出させた証券会社の社員が「やっぱり駄目でした」などと簡単には認められないように、一度そういう威勢のよい意見を唱えた人間はそうそう自分の意見を引っ込められません。
結局のところ人間という生き物の性質はそういうものなのですよ。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

なるほど。ワルツが流れていたので、踊りをやめれなかった。
という、例の話がありますよね。

ぜひ参考にさせていただきます!

お礼日時:2009/11/14 09:07

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!