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昔から学校で習う外国語は英語だけで、しかも社会も英米中心の外来文化を頻繁に紹介する風潮なので、外国人とか外国感覚というと、英語を話すアングロサクソン民族、みたいな刷り込みがされている現状だと思います。
語学と言えば英語教室みたいなのがほとんどでしょう?

でも、自分の場合、アングロサクソン的感覚に合ってない事がわかりました。人間の考え方も、映画ドラマを観ても、語学そのものにしても、合わない。どうも、共感できないし好きになれない。いろいろ、成長してから、違った文化圏、共産主義文化圏(東欧)とかラテン系、アジア系、ゲルマン系に触れてみて、どれもアングロサクソンの文化様式よりもより、合っていると思いました。

しかるに、学校教育でおこなう外来の学習はアングロサクソン系だけというのは、非常に片手落ちではないでしょうか?私のような人間も多いと思います。そういう人間に、合わないものを強制し続ける風潮があるきがするのです。

もっと、学校教育や社会風潮が、もっと広い外来文化というものを紹介する必要があるのではないでしょうか?

A 回答 (7件)

極めて健全な考え方です。


では、なぜこのような社会になってるのか。
それは、あなたのように考えることができる人と、考えられない人とがいて、あたなのように考えることができる人が圧倒的に少ないからです。
つまり、こういう社会に対して何とも思わない、感覚が麻痺している人が圧倒的に多いのです。
ですから、自ずとあなたのような声はかき消されるのです。

よく、知ったような口ぶりで英語が世界共通語だから、などと平気な顔をして答える人がいますが、極めて無知蒙昧です。
そういう人に限って、世界のことを何も知らないものです。

残念ながら、日本の社会、政治家、オッサン・オバサンたちに期待しても無駄です。
言うまでもなく、テレビなどで見て分かるとおり、似たり寄ったりで期待しようとも思わないでしょ?

結果としてすべきことは、そのまともな考えを忘れることなく、自分の信じる道へ進み、そしてそれに向かって努力をひたすらすることです。
そうすれば現状は必ず打開されます。
できない、やらない人間、傍観者たちに期待しても時間の無駄だけなのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
>考えることができる人と、考えられない人とがいて
やはり、こういう感覚の差ということの結論になっていくのでしょう。
そして、結局は少数者の感覚は省みられない。
>できない、やらない人間、傍観者たちに期待しても時間の無駄だけなのです
すばらしいご提案です。

お礼日時:2009/12/20 01:08

 現代文明を構成しているのは、「理科系の学問」と「文系学問」に大別されます。

日本のように加工輸出に頼らなければならない国は、「理系」学問に頼らざるを得ません。理系の最先端の論文は、圧倒的に英文の論文が主流です。従って英語が必要となります。

 母国語となれば、中国語が世界一でしょう。次にスワヒリ語か、インドの言語や、アラビア語が来るのでしょうが、大学受験にこれらの言語が採用されれば、当然にもこれらの言語を必須科目とする教育が始まるでしょう。英語以外の教育の一番の壁は、大学受験と言えるのではないでしょうか。

 日本語はウラル・アルタイ語系と言われ、英語や中国語とは文法が大いに異なります。日本人の外国語嫌いもこの辺に原因の一端があるようですが、当然にも教育者の養成なくしては、外国語の教育は不可能です。従って教育の効率を上げるためには、国益に最も最適な外国語を選定する必要に迫られます。それが現時点では英語なのです。

 古代イタリア語は、ラテン語として現在も古語として残っています。ラテン語から多くの言語が派生した事も分かっています。そしてアングロサクソンの英語を含むラテン語系の科学文明は地球を覆い、文系の思想や宗教と対立しています。今後は、一極政治が多極化して、ラテン系以外の言語の世界を受け入れなければならない様になるでしょう。ラテン系以外の外国との交流が必要となります。是非英語以外の外国語を第一外国語教育の一部に導入してほしいものです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
おっしゃるように、英語が現時点での実際的な支配言語であるが、文化レヴェルでもっと広範囲な文化圏言語圏を網羅すべきであり、それが「道理」でもあると思います。

お礼日時:2009/12/20 01:17

私は、過去20年間のうちのべ9年間、アフリカやアジア、南太平洋の


途上国で暮してきました(ボランティアと建築コンサルタントとして)。
残念ながら、主な会話は英語ですし、図面に書く専門用語も英語です。
要するに、グローバル化の原動力である国際的分業化=工業化は欧米の生んだ
機械文明が根底にある以上、世界の多様な文化の共通言語やルールは、
欧米のものにならざるを得ないのです。
大事なのは、「和魂洋才」じゃないですが、道具としての先進技術を用いていても、
その社会行動を律する考え方まで、欧米の資本主義(=拝金主義)に毒されないことです。
日本は見事に毒されて“自己チュー”化しましたが、「GNP(国民総生産)ではなく
GNH(国民総幸福量)を指標とした発展を目指す」を標榜し、欧米による援助さえ
断って独自の道を模索しているようなブータン(↓リンク先参照)もあります。

参考URL:http://enjoy.fotonoma.jp/gallery/ZASRrHcADE5YV3j …
「アングロサクソン文化が合わない」の回答画像6
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。支配的な言語と言うことなのでしょう。

お礼日時:2009/12/20 01:15

 ご質問文の上で拝読する限り、私も同じ思いである事を最初に述べ伝えます。


 長大で行変えないご回答以外の方はみなさん、大体頷いておられるでしょう。
 ご質問は必ずしも語学に限ったことではないのでしょうが、別のカテで、 http://okwave.jp/qa5496907.html の質問があります。
 多分参考になるご回答も多々あると存じます。
 ご紹介したご質問とご回答の中で、私も拙たない回答をとうこうしておりますが、回答番号:No.2のpassersbyの回答も面白いものです。
 私も、アングロサクソン、ヨーロッパ・キリスト文化圏の文化と考え方、ことば表現、そして尊大にアジアや東洋を科学と能率の文化で押しつぶしていくやり方にはとても齟齬感と違和感を強めています。
 ゲルマン移動、何度かの十字軍、そしてルネッサンス文明、これらと合い携えての大航海の東洋進出。
 これらはみな東洋とアジアの文明を圧倒してきました。
 第二次大戦は本当にこういう名称でいいのか。
 わが国は終戦などではなく、敗戦だったのではないか。
 太平洋戦争ではなく、東アジアなどへの侵略障害物の排除戦争だということはできないでしょうか?
 私も勉強(法律、労働法、哲学、法哲学)といえば、もう当然アングロサクソン、ドイツ、フランスの成果の精華でした。
 ロマン・ロランもカントも、そしてラートブルッフは今も愛し尊敬し、勉強しております。
 彼らの文化風土の素晴らしさも、深いものがあります。
 それとともに、インド、中国文化の一部、そして日本の文化と思想、その言語と感受性。そのやり取りのコミュニティの素晴らしさに、唸るばかりです。
 多くのアングロサクソン、そしてヨーロッパの個人の方が、陶酔して浸ってこられていることもよく判ります。
 明治以降、私たちの先輩は欧米に多くのものを学び、紹介してくれてきました。
 漱石、百三、阿部次郎、出隆、三木、湖人。
 などなど、東洋を語っていて、西洋を語っているという内容と表現です。
 西洋的側面を抜きにしては、禅の思想や老荘(ろっそう)、儒教も語れない、勉強できない。
 というのがもう私たちに染み付いてしまいました。
 欧米的であり、日本的であるより仕方なく為りました。
 でも今はあまりに、この列島の文化を省みなくなってきております。
 国粋主義ではないし、日本版中華思想でもないが仰せのように、日本のこと、東洋のこと、アジアのことをもっと学べる素地や環境を作る必要が在ります。
 そういう教育は不可欠です。仰せのとおりです。

 歴史的に文化の交流と合流は避け難い事です。
 アングロサクソンの文化はちょいと今は、辟易していますが、異なる宗教ですが、仏教は評価しております。
 そしてその伝播と受け入れも結構です。
 わが国古代でもこの事情はあったのです。
 ダライラマとあの地の仏教も評価しております。
 しかし仏教伝来のときに、あの地の文化は仏教用語の悪魔女に言葉を変え、地面の底に押しつぶす移入がされたのです。
 チベットやブータンの古来の心性に親しみ、且つ、インドの思想と仏教も親しんでいますので、複雑な気持ちです。
 私自身はインド思想を英語で学ぶということで、Self-Realization Fellowshipというアメリカの宗教団体の会員ではあります。
 欧米風習でのキリスト的理解を基底にしているのは、やはり馴染めないものです。でもいたし方のないことです。
 私たちにはもう欧米的素地でしか、東洋のものも、わが国のものも学べないのでしょうか?
 (リンクをつけると、怒られますからどうかこれをコピーして検索すると、その会のHPがでてきます。)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
多様な文化思想がある、それを学校教育的な偏重から守らなくてはならないのではないか?と強く感じます。真の教育とは何か?それはただ単に慣例慣習を続けることなのか、もっと根本的な「道理」に沿ったものを推進し文化大国の手本を作るべきではないのか?東洋のなかにある、捨てられた思想をもっとよみがえらせる必要があります。

お礼日時:2009/12/20 01:15

アヘン戦争、イギリスがアヘンの密貿易の自由化を図って、中国に仕掛けた戦争。

イギリスが野蛮人の国で、恥さらしな国であることを、忘れないようにしたいと思います。

南北戦争、主要原因の一つが、奴隷制度の廃止でした。この国も、野蛮で恥さらしな国であると思います。

ともに、19世紀中頃のことですが、こういうことを平然として、行えるのが、アングロサクソン文化です。
あなたの意見は、当然でしょう。

日本社会の上層部にも、アングロサクソン文化中毒者が蔓延している、悲しい現状があります。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
アングロサクソンには無慈悲なものを感じますね。

お礼日時:2009/12/20 01:10

このご質問者さんの言わんとしていることはまあ、漠然としたレベルで理解はしますが、ご質問者さん自身人間の精神文化に関する要素をごちゃ混ぜにして論じているところにあなた自身の幼さを感じます。

幼い段階は誰にもあることで別に非難するとかいう意図は全くありませんが、自分の知識レベルで一知半解に理解していることを、それがさも世の中の全てだ、と言う風に表現されることは厳しく慎まなければならないのではないでしょうか? でなければ、あなた自身の認識の偏りをご自分で暴露することになると私は思います。前置きがちょっと長くなりましたが、まじめそうに感じられるご質問者さんのこれからの成長を願ってのことです。さて、まず学校教育に於ける語学教育ですが、これは個人毎の希望に応じてオーダーメード的に行うことは不可能であろう、と言うことはご理解できると思います。そこには需要と供給の経済原則が不可欠で、現在のところこの需要に最優先されるのが英語だと言うこと。その他の言語はその需要の大きさに応じてそれなりに勉強出来る機関があるはずですので探せば良いでしょう。もう一つのあなたの論点「もっと広い外来文化というものを紹介する必要があるのではないでしょうか?」についても上に述べたことと基本的には同じ行動原理が働いているに過ぎない、ということでしょう。日本はそう遠くない昔、一隻の黒船にたたき起こされて、気がつけば世界には燦然と輝くヨーロッパの文明の光がようやくこの国にも届いた瞬間だったと言うです。当時の日本に於いて大急ぎで「紹介、吸収」するべきはヨーロッパ文明をおいて他にはありませんでした。この頃のことは司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」に感動的に描かれています。(現在NHKでスペシャルドラマで放映中。日曜20:00) おかげで今、日本はあなたのように「もっと広い文化にも目を向ける必要があるのではないか?」ということに気づけるほど大人の国に成長したと言うことだと私は思います。
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 英語を勉強するのは英語が世界で最も使われている言語だからです。


それ以上でもそれ以下でもないと思うのですが・・・
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