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自分を含め一般人にとって哲学を学ぶなどは暇つぶしにしかならないと思うのですが(もちろんカネには繋がらないので)、もし哲学のどこかに人を感動させるもの...、例えばこの考え方は素晴らしいとか、如何なる議論に対しても持ちこたえうる完璧なものの考え方、理念などを見い出しうるのであればひとつやってみようかという気になるのですが、そんなものがあるのでしょうか。如何に技巧を凝らして言葉の言い回しとか、単に表現を複雑にするだけでそこに内容がなければ人は感動などしません。
哲学を学んでいる方で、そのようなコンテンツ、感動に値する内容にめぐり合えた人がいたら教えてください。

A 回答 (28件中21~28件)

1.テツガク、という音像が感動の邪魔をしている感はある。


2.人生哲学といえば大げさすぎる響き。
3.だからさ、仏語やラテン語でフィロはなんて表現するのか。
4.そのへんを知ってる。を飛び越えて理解していれば感動と鈍感bの境目は無くなる。
5.つまり遠近両用レンズが視力の味方。
6.言い換えればこの世界を見通す思考の味方。
7.味付けは匙加減。
8.PostScript:辛らつなコメントでも私は死にません。春が来るまでいき絶え絶え。
9.Ps2:鉄カテ∴Okであthね
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この回答へのお礼

言っていることよく分かります。
しかし、私は今悩んでいるのです。
時間と空間の問題で。今すぐ解決しないといけないのです。
時間と空間が有限なのか無限なのかを。
手を貸してもらえないだろうか。今すぐ何とか解決しないといけないのです。大至急お願いします。

お礼日時:2009/12/22 00:34

私の経験則から言って哲学は実生活に役に立ちませんが、プラトン「国家」などは参考になります。



哲学なるものは、動物と一線を画す万物の霊長たる人間だけがチャレンジできる領域と私は考えています。
よって実用とは無関係の部分が多いとも思っています。
(ただ、自分自身が持つ素朴な疑問はこういう事が答えだったんだ、という一般教養的な部分ではかなり貢献すると思うのです。)

理論と実践で言えば、どちらかと言えば実践からの経験則、実践からの人生哲学の方が極めて実用的です。
軍人・経営者・一流の人の自伝・伝記・エッセイを読んだ方が為になりますので、そちらを読んでいただければOKかと。
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この回答へのお礼

よく分かりました。
実践からの経験則、実践からの人生哲学の実用書ときますと、なにかセールスマン向けの自己啓発書のような本を想像するのですが、そういうものを言われているのでしょうか。このような自己啓発書というとアメリカ生まれのものが圧倒的に多いと思いますが、例えば一番有名なのでいうとD.カーネギーの「道は開ける」とかこのような本を言われているのでしょうか。
この本はこの手の自己啓発書のさきがけで古典的な名著と言われており、私も以前読んだことあって、内容は悪くはなかったと記憶していますが残念ながら自分の場合そこから哲学を感じるとか感動を得るまではいきませんでした。
まあ感動するかしないかはそのときの気分の問題もあるので、再度読むとどうなるか分かりませんが?

お礼日時:2009/12/19 23:36

 哲学を「既成の考えかたを学ぶ」という面でお考えならそれはどうかと思えますね (^o^) 


 哲学の本質は「自分のアタマで、前提無しに」考えるのが始まりで、自ら考えること無しに哲学は成立しません。
 また、感動の対象をお探しなら、自己の内外をただ観察するだけで十分と思えますよ。心が眠って(あるいは死んで)なければ随所で感動できるはずです。まずはこの辺をやってみられてはどうでしょうか。
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この回答へのお礼

「既成の考えかたを学ぶ」を捨て、「自分のアタマで、前提無しに」考えるというのも場合によっては必要かもしれませんが、ただそれをやると独善に走る危険があると思います。
やはり周囲を見渡し、哲学者が何を生み出したか、世に何をもたらしたか、まずそれを見てみるのが間違いないのではないかと考えます。
このようなことを書くと感動するものがなくて困っているに違いないと思うかもしれませんが、感動するものはそこいらに色々あります。
例えば、映画でもいわゆる2流、3流ではなく1流と呼ばれるものの中には感動できるものは多くありますし(実は一昔前の日本映画には1級品が多いことを最近発見しました)、音楽でもそうです。また最近自作で作ったPCが起動したときも、これ感動でした。
ですから何事にも感動を求めるようになったということでしょうか。

お礼日時:2009/12/19 19:41

ぶしつけながら・・・


感動==感受性だとしたら脳からこぽれるほどに溢れています。
私の場合、和辻哲郎や井上靖などの思想の壮大なバックボーンに触れた時の感動は今でも鮮明に記憶しています。表現する側と受容する側のズレを埋めるために思考することもあるんではないでしょうか?
それも又哲学と呼べるのではないでしょうか。
大雑把ですみません。
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哲学の本質は、世界観であり物事の見方なので、「哲学に感動する」のではなく、


「哲学によって、見えている世界が鮮やかになることの感動」なのです。
その点、他人に知識をひけらかすための、聞きかじりのエセ哲学とは違います。
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この回答へのお礼

エセ哲学の時代はとうの昔に終わっていると思います。
エセ哲学、つまり単なる言葉遊びというか内容の伴わない言語操作の類は、日本でいえば昭和の初期あたりまでは蔓延り通用したようですが。
しかし21世紀の現代は全てにおいて真価を問われる時代であり、哲学に対しても同じであると思います。
ここで真価を問うとは哲学に実利を期待することができないのは明らかなので、自分の場合そこに「感動」があるかどうかを問います。
実利もなく、感動もなければ哲学の時代は既に終わったのだと考えます。

お礼日時:2009/12/19 13:41

哲学=誰にでも当てはまる考えだと私は思っています。

ですから人を知ってゆくと、結果的にですが自然と哲学というカテゴリーにも当てはまるような気がします。別に哲学だけがすべてを説明できるわけも無いと思いますし、これ一本で裁判になったときに必ず勝訴できるかといっても、想像通りそんなことはありえないと思います。ですが、昔のひとが言ってたことは確かにためになりますし うなずくことが多々あります。もしかするともう人は答えを出しているのかもしれませんね。でも時代が変わり人も変わるのでそれを繰り返したり、継承したりを続けているのかもしれませんね!(^^)!そういえば良い格言がありました→「ペンは剣より強し」です!良い教えだと思いますよ。人類が解り合える一つの方法だと私は思っています。だらだらと書いてしまい申し訳ありませんでした<(_ _)>g3452sgpさんが求めてる回答とは違うかもしれませんがご了承くださいね。
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この回答へのお礼

>「ペンは剣より強し」
確かに良い教えだと思いますが、残念ながらこの教えは私がいう「感動の域」には達していません。
なぜならば、この考えでは現実の世界、例えばアメリカが強大な軍事力により世界を動かしている現実を説明できないからです。
もしこの考えに感動する人がいるとすればそれは一部のジャーナリズム族など多分ににその系統の思い入れがあって成り立つものだと考えます。
哲学に感動がないとすれば、結局のところ哲学も思い入れの世界ということにならないでしょうか。

お礼日時:2009/12/19 12:26

 気に入らないかもしれませんが・・・。



 貴方は化学や物理を面白いと思った事はないですか?。本来の哲学は、人間も自然も化学や物理も、全部含んでいました。それが自然哲学です。

 もちろん分化しないとやっていけないので、その後、分化しましたが、結局いまの化学や物理は、分化した結果です。

 確かに今の哲学は、分化した結果、

>自分を含め一般人にとって哲学を学ぶなどは暇つぶしにしかならないと思うのですが・・・

という事態になってるかも知れません。でも今の哲学科は分化した結果、本気で人間はどう生きれば良いのかを、考えている処かも知れません。

>例えばこの考え方は素晴らしいとか、如何なる議論に対しても持ちこたえうる完璧なものの考え方、理念などを見い出しうるのであればひとつやってみようかという気になるのですが、そんなものがあるのでしょうか。

 そんなものは、あり得ません。あり得ないから、努力するだけです。

この回答への補足

哲学が本来の自然哲学から分化して近代哲学へと変わったことでより哲学らしい特徴をもつようになった、というところまでは分かります。
問題はその後どうなったかということです。
自然哲学から分化した一方の物理や化学は明確な成果を生み出しました。
ニュートンは万有引力の法則を生み出し、ダーウィンは進化論を生み出しました。これらの成果は人に感動を与えるに十分なコンテンツを含んでいます。
この点、哲学はどうなのでしょうか。哲学は分化し成功したのでしょうか。

>そんなものは、あり得ません。あり得ないから、努力するだけです。

すると哲学の領域ではこの数百年間(あるいはギリシャ時代から数えると数千年間)なんら満足のいく成果は生み出されてない、感動はなかった、という結論ですか。

補足日時:2009/12/19 10:50
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この回答へのお礼

結局、「今の哲学科は分化した結果、本気で人間はどう生きれば良いのかを、考えている」が、いまだにそこから感動は生み出されていないということですか。

お礼日時:2009/12/20 14:02

哲学=「知を愛する」


ですから、感動を含めた情動(ないし情)を含まない「知・考え方・理念」は、哲学とは言えないでしょう。。。

そうして、そういった情(情動)は、それぞれの主体から切り離すことができないからこその「(つながりとしての)情」でしょう。

もし、主体から切り離すことができたならば、それは「知で扱いうる範疇」に収まる程度のものであり、哲学の対象に成り得たとしても、「哲学」とはかけ離れたものになっていることでしょう。。。
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この回答へのお礼

それで、哲学ではどのような場面で感動は生まれると考えますか。
つまり哲学のどのようなステージで、どのような対象に対して、どのような認識あるいは理解を得たとき感動は生まれると考えますか。
もちろんこのような問いには実際に感動を得た人でないと回答できないと思いますが、No.1さんは感動を得たのでしょうか。
もちろん感動を得た、得ないは自己申告制であり客観的判定はできませんので、本人が感動したと言えば感動したことになるし、感動しなかったと言えば感動しなかったとなる訳です。
もし感動を得たのであればどのような感動であったのか一つ聞かせて頂きたいです。

お礼日時:2009/12/20 08:08

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