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自分を含め一般人にとって哲学を学ぶなどは暇つぶしにしかならないと思うのですが(もちろんカネには繋がらないので)、もし哲学のどこかに人を感動させるもの...、例えばこの考え方は素晴らしいとか、如何なる議論に対しても持ちこたえうる完璧なものの考え方、理念などを見い出しうるのであればひとつやってみようかという気になるのですが、そんなものがあるのでしょうか。如何に技巧を凝らして言葉の言い回しとか、単に表現を複雑にするだけでそこに内容がなければ人は感動などしません。
哲学を学んでいる方で、そのようなコンテンツ、感動に値する内容にめぐり合えた人がいたら教えてください。

A 回答 (28件中1~10件)

No.1 & 12 & 25 & 26 & 27です。

。。
>>>
どうやらこのあたりから数学の議論は哲学の領域に入り込み、境界線が分からなくなりつつあるようです。
<<<
そうですね。まさに(狭義の)哲学の領域と重なっているようです。

学生時代にポアンカレの本を読んだとき、(深く考えることなく)「これこそ、正統な数学・物理学の本質」と思い込んでいたのですが、まさか、それが「直観主義(や構成主義)」といった一分派だったとは、思いもよりませんでした。(まさに、ぐるりと回って繋がった感があり、感動しております)

いや、g3452sgp様がこの質問を立てて下さらなければ、一生涯、認識することなく過ごしていたかも知れません。

ありがとうございました。
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No.1 & 12 & 25 & 26です


>>> No.26
もともとは、直観主義(ブラウワー)と形式主義(ヒルベルト)との対立に関連しているそうです。
<<<

申し訳ございません。
ブラウワーとヒルベルトは後期の対立だったようです。
>>>数学的直観主義 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B0%E5%AD%A6% …
これに類する主張は、カントールの集合論に対抗する形で、クロネッカーやポアンカレによってもなされていたが、最も明確に表明したのは、オランダの位相幾何学者、ブラウワーである。ブラウワーの立場に対してポアンカレらの立場は前直観主義と言われることがある。
<<<

ポアンカレの書物(下記の三部作)は、物理関係の講義の時間に「必読書」とされていました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3% …
科学と仮説 - La Science et l'hypoth&egrave;se(1902)
科学の価値 - La Valeur de la Science(1905)
科学と方法 - Science et m&eacute;thode(1908)

※私は、岩波文庫版で読みました。

この回答への補足

分かりました。
時間が経過し、しばらく忘れていたのですが、私に必要なのは哲学一般ではないようです。
数学基礎論または数理哲学、これなら感動がありそうです。
メデタシ、メデタシ

補足日時:2009/12/27 14:49
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この回答へのお礼

どうやらこのあたりから数学の議論は哲学の領域に入り込み、境界線が分からなくなりつつあるようです。
私の場合再度復習が必要のようです。一度時間があれば復習しようと思います。カントール、ヒルベルト、ブラウワー、ポアンカレの考えたことについて。
いろいろ、ありがとうございます。

お礼日時:2009/12/27 13:01

No.1 & 12 & 25です


おっしゃるところの可算集合と非可算集合は、濃度(アレフ)と関連している概念の様ですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%AF%E7%AE%97% …
可能無限と実無限という言葉は
http://blog.livedoor.jp/khideaki/archives/504641 …
などで出てきます。

もともとは、直観主義(ブラウワー)と形式主義(ヒルベルト)との対立に関連しているそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B0%E5%AD%A6% …

>>> No.25 お礼欄
ここではミクロ、すなわち時空間が連続体であるかどうかは考えないとし、マクロにて時空間が無限かどうかを問題にしたいです。
<<<
時空間が(見かけによらず)無限だとすると、有限であったものが、だんだん大きくなって無限(実無限)になったとは考えられないでしょう。(無限へと限りなく近づいていくことは可能 = 可能無限)
時空連続体(宇宙)が膨張し、時空の曲率がゼロであるということと、時空連続体(宇宙)が有限であるということは、矛盾しない論になっています。

無論、時空連続体(宇宙)が、無限(実無限)の一部として取り出されたものという仮説も可能ですが、この場合「選択公理」と密接に関連して、不思議な感覚を抱かざるを得ないでしょう。

>>> http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%B8%E6%8A%9E% …
どれも空でないような集合を元とする集合(すなわち、集合の集合)があったときに、それぞれの集合から一つずつ元を選び出して新しい集合を作ることができるというものである。1904年にツェルメロによって初めて正確な形で述べられた[1]。一見非常に当たり前のことを言っているように見えるが、対象が無限集合である場合は実は自明ではない。
<<<
ということですし、宇宙のコピーを無限に作り出すことが可能だということにもなるでしょう。

参考:バナッハ=タルスキーのパラドックス
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%8A% …

このことは、宇宙自体を無限分割可能(実無限)という概念と相同でしょう。
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No.1 & No.12です


>>> No.12へのお礼欄
No.1さんは時間と空間についてどのように考えますか。
有限だと考えますか、それとも無限だと考えますか。
<<<
>>>No.22へのお礼欄
そうであれば時間と空間は連続体ですから(これは明らかなはず)可能無限ではなく、実無限です。例えば1秒は無限に分割(可能無限に)できます。1ミリは無限に分割(可能無限に)できます。その分割後も同様に無限に分割(可能無限に)を繰り返すことが出来ます。
なので時間と空間は連続体であり、実無限です。
<<<

物理学的には、「実無限はない」という概念が本質的でしょう。。。

参照:
===
パリティブックス
物理と数学の2重らせん 
薩摩順吉 著  パリティ編集委員会 編    
発行元:丸善(株)出版事業部
http://pub.maruzen.co.jp/book_magazine/book_data …
---
上述の本では、連続と離散との関連を通じて、数学と物理学との関連を見ています。
===


連続体であっても、離散的な連続体という概念で捉えておられる方々も居られます。

ループ量子重力理論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC% …
量子重力理論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8F%E5%AD%90% …

ザックリと言えば、量子化を行う過程で、物質を無限分割不可能とするか、時空間を無限分割不可能とするかの少なくともどちらか一方を選択しなければ、統一理論が成り立たなくなるということです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

先に指摘しておきたいことがあります。
可能無限、実無限という表現がどこからきたのか実は知りません。
これが哲学専門の用語なのかそれとも物理、数学でも通用する用語なのかどうかも分かりません。
私が知っているのは可算無限と非可算無限という数学(特に集合論)で使う無限の表現のみです。
ちなみに数学の集合論では、無限にも様々な段階(レベル、ステージ)がありその段階もまた無限であることが証明されております。つまり無限にも無限の段階があると。
連続体もそのうちの1つということです。
そこで多分、可算無限=可能無限、非可算無限(連続体)=実無限であろうと勝手に想定して話をしました。
またこの点を明確にしたいと思い、No.22にて問いましたが明確にはなっていません。

無限には考えるスケールの方向によりミクロの無限とマクロの無限がありますが、連続体とか量子力学が問題にする無限はおもにミクロの無限だろうと思います。
量子力学の統一理論に関して言えば、物質を無限分割不可能とし、時空間を無限分割可能と考えればこの問題はかたずきます。

ここではミクロ、すなわち時空間が連続体であるかどうかは考えないとし、マクロにて時空間が無限かどうかを問題にしたいです。
その場合、私は「哲学的にも物理学的にも時空間は無限である」と考えます。
もちろんそうではなく、「哲学的にも物理学的にも時空間は無限でありえない、あってはならない」と考える人々が存在し、なぜ彼らはそう考えるのかが今まではよく分からなかったのですが、だんだんと見えてきたということです。

お礼日時:2009/12/25 12:05

#14です。


殆どの場合、最初の質問文だけ読んでいてもそれで質問者さんが何を目指しているのか一度で見えて来ることはありませんので、議論の遣り取りをして互いの触媒になりながら、その非線形効果を通して認識に対する新しい構造が出てくるのを待つ他ないでしょう。まあ、哲学者の言う弁証法的発展を待とうと言うことです。特に、議論の参加者に非線形効果を許容する力量がある場合には、その傾向が強くなるようです。また、非平衡非線形構造の常として、どんな構造が現れて来るかは神様でもご存じない、と言うところでしょう。

>如何なる言葉、言回しを用いて如何なる仮定、想定、発想を行おうとも最後に問われるのはそこから何が出てくるか、如何なる「感動」が生まれるか、というこの1点だけが問題であると思いこれを問うてみたかったからです。これらの回答を読んでみて今思うのですが、そして予想していた通りなのですが、私の場合やはり「哲学に感動はない」というのが結論のようです。

私は先に、「感動」という心の動きを「驚き」と表現しましたが、この驚きは、私にとっていきなり「創造的営み」の契機になるから、驚きが感動に繋がっているのです。質問者さんのお礼文を読んで私也に理解したことは、多分質問者さんは、自分自身の哲学的思考を質問者さんのやって来られたであろう創造的営みに繋げたことがなかったのではないか、と思えて来ました。

私が大分前にショウペンハウエルの文の中で、重要な寄与とは何かについて論じている部分で、彼はそれを以下の2種類に分類にしていたことが印象に残っております。確か『読書について』辺りだったと思いますが、その本だったかどうか記憶は定かではありません。それは、(1)たまたま、誰も知らない世界を偶然に見てしまったので、それを皆に報告する寄与、と(2)皆がいつも見ており、今更何か新しい側面を付け加えることが出来そうにないことに、全く新しい意味を見出し、それを皆に報告する寄与、の2種類です。彼は、両方とも大変重要な寄与であると言っております。(1)の寄与をするには、その人が運が良いだけで十分で、特別に優れた能力は必要とされない。(2)は、誰にでも出来る寄与ではなく、哲学者の寄与はこちらの寄与に属していると言っておりました。

私は、この文章を読んだ時に、自分が専門職として哲学ではなくて自然科学を興味の対象に選んだことに幸運さを感じました。自然科学の寄与は圧倒的に(1)に属しますから、私のような凡人でも、運が良くさえあれば何か創造的な寄与が出来るチャンスがあるらしいと思えたからです。そして、その後、物を創り出す喜び、無から有を創り出す喜びを何度も感動しながら経験して来ました。その寄与がたとえ取るに足りない小さなものでも、それを生み出してくる過程で、哲学者の言っていることがこんなところで繋がってくるのかと気付き、それを道しるべに出来ることもあり得ることを知ったときの驚きは、やはり私に感動を齎して来ました。

失礼な言い方になってしまうかもしれませんが、もしかしたら質問者さんは、過去の哲学者達が到達した哲学的な概念を勉強し、いじくれ回して来ては見たが、今まで質問者さんが自分の行って来た創造的な営みの中でそれらが具体的で生産的な役割を演じていたのだと言う、はっとされるような経験をまだ為さっていないのではないか、だから、哲学で感動できないでいるのではないかと言う印象を受けました。

人それぞれだとは思いますが、私の個人的な感動は、私が創造的な営みに参加できた時に感じることが出来ます。そして、私にとって、哲学の役割も、この営みの文脈の中でのみ意味を持っております。

蛇足:私は「創造性とは何か」についてのシンポジウムで現在の偉大な二人の科学者、スティーヴン・ワインバーグとイリア・プリゴジンの哲学的論争を聞いたことがあります。ユダヤ人として教育を受けたワインバーグは、「科学には発明や創造的な営みはない。宇宙は我々とは無関係にすでに存在しているものであり、科学は、ただそこにすでに存在しているものを発見するだけである」と主張しておりました。一方、プリゴジンは、「科学的思考と言えども、今までの歴史的な経緯や文化から逃れることは出来ない。この宇宙は、決定論的に与えられた永遠を基軸にした存在ではなく、変化を基軸として次々と新しい事象が現れるところにその本質であると思われる。したがって、未来はまだ与えられているわけではなく、そして、そのような変化する宇宙でのみ、我々は創造的な営みを通して未来の構築に参加できるのだ。それ故、科学的営みも、単なる発見の営みではなく、例えば芸術家がするのと同じような創造的営みなのだ」と主張しておりまた。私はこの哲学論争に感動し、また、自分の研究経験に鑑みて、プリゴジンの主張に軍配を挙げました。
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 No.20&21&22です。



 ★ No.20さんには世界は無限であってはならない理由があるのですか。
 ☆ 実無限も 経験世界に属するものであるなら 相対性のもとにある無限です。可能無限と同じ性格のものです。
 うつろい行く可変性としての経験世界は たとえ限りがないと言っても 大きくは程度問題に落ち着く相対性の世界です。これを大きなくくりとしては 有限と呼びます。

 たしかに世界は もうこの経験世界のほかには ないと見る立ち場もあるかも知れません。ところが それも人間の知性によっては 決められません。この《決められない》というのも 精確には 決められるか決められないかが決められないという意味です。
 だったら仮りにこの相対・有限・可変としての経験世界を超える場を想定しておくのも 人間の表現行為として 可能であり有益であるかも知れません。それは むろん 絶対・無限・不可変性として想定される場です。昔から このことを 神と呼んでいます。
 (しかも 一般には 精神だとか魂だとか 何だかわけの分からないものを 神として来ました。いまもそうです。ニーチェは この観念の神が死んだと言ったのです。さらにしかも ほんとうの神・絶対・無限のことをないがしろにしてしまいました)。

 引きさがらずにお答えしました。
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この回答へのお礼

よく分かりました。

つまり、人間はほんとうの無限を考えることはできないということですね。
人間が考える無限はそれが如何なるものであれ、人間が思索により生み出すものであるので、ほんとうの無限ではありえないということですね。
了解しました(ただし、その様に考えるのもまた人間の思索ではないのかというのはありますが)。
つまり人間世界に無限はあってはならない(これは同時に人間を越えるものがなければならない)、とこういうことですね。
そして人間と人間を超えるものの境界にあるものが無限であると、こういうことですね。
非常によく分かりました。これで完全にスッキリしました。
No.20さんありがとうございました。

お礼日時:2009/12/24 13:52

 No.20&21です。



 もうこれで引きさがりますが いま考えておられる無限は つまり
 ★ つまり、時間や空間が有限か無限かは調べていけばそのうち答えが出る、分かるということです。
 ☆ という内容での無限は
 あくまで経験世界に属するところの《可能無限》というものであって ほんとうの無限ではないとだけお伝えします。
 たとえば 無限であるならば 二で割っても三で割っても その商は やはり無限だというものです。

  ☆☆ (No.20) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  時空間は とうぜん 経験世界に属しています。ですからもしそれが無限であると言う場合は いわゆる可能無限になるのかと思います。これは 無限大プラス一 またプラス一 というようにどこまでもつづくと同時に 一なら一という特定の――表象しうる・したがって経験的な――数字(量)でありつづけます。ということは 経験を超えた世界としての《無限》ではないと言わざるを得ません。
 では ものごとが有限で相対的な経験世界を超えたという意味での無限で絶対的な世界とは どういうことであるのか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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この回答へのお礼

1つ確認しておきたいことがあります。

No.20さんの言われる可能無限とほんとうの無限(実無限を指すと思いますが)は、数学(特に集合論)でいう可能無限、実無限を言われているのでしょうか。私が昔、集合論をやっていたころは可能無限を可算無限、実無限を非可算無限と呼んでいましたが、現在は可能無限、実無限を使っているのだと思います。そして可能無限は整数や自然数が表す無限のレベルを指し、実無限は実数(いわゆる連続体)が表す無限のレベルを指します。
この認識でよいのでしょうか、このような数学的、集合論的認識でよいですか。
そうであれば時間と空間は連続体ですから(これは明らかなはず)可能無限ではなく、実無限です。例えば1秒は無限に分割(可能無限に)できます。1ミリは無限に分割(可能無限に)できます。その分割後も同様に無限に分割(可能無限に)を繰り返すことが出来ます。
なので時間と空間は連続体であり、実無限です。
もちろん可能無限も無限であることには変わりはないので、限りがないという無限の性質は保持します。考えうる如何なる巨大数も超えるという意味で。
No.20さんには世界は無限であってはならない理由があるのですか。
なぜ世界は無限であってはならないのでしょうか。
普通の人間であれば世界は時間的、空間的に無限であると考えるものですが。

お礼日時:2009/12/24 11:03

 No.20です。



 ★ ですから考えて分かるもの(Y)、分からないもの(X)と分類し議論すること自体が全く意味をなさない、これが私の結論です。
 ☆ 《絶対=無限》については 《考えても分からない》と定義するのでは ほんとうは まちがいです。
 《 X =考えても分かるか分からないかが 分からない》領域のことです。そういう想定をしておくという意味です。

 《考えても分からない》というのであれば 《じつは分かっている》のです。その《分かるところまで分かればよい》と分かっているし その先は《分からないと分かっているから 知らなくてもよい》と分かっています。
 人間の経験合理性の及ぶか及ばないかが分からないところ これを 絶対というふうに定義するのです。
 おそらくそれは 簡単に言えば 何もないところでしょう。ただ その想定をしておくと ひとのこころが この経験世界に閉じられてあるというのではないという見方ができる〔かも知れない〕という意味があります。その心の明け あるいは 伸び のことを言います。したがってこれは 経験思考ではなく 非思考なのです。
 ほんとうの――と言うのもおかしいという見方が出るのですが そしてそれは 無神論につながる立ち場におちつくのですが――無限とは この絶対のことのほかにはありません。それ以外は すべて 有限で相対的なものごとの経験世界におさまります。
 時空間は むろん 有限です。《分かる》かもしくは《分からないと分かる》世界だからです。
 これを超える領域は 《分かるか分からないかが分からない》場です。
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この回答へのお礼

だんだんと分かってきました。

つまりNo.20さんの述べていることをまとめるとこうです。
別段むずかしいことではなかったのです。
まづ、考える対象を3つに分ける(2つではなく)
  1)考えて分かるもの
  2)考えても分からないもの
  3)考えて分かるか、分からないかも分からないもの
そして、無限は3)の部類であるということですね。
ここで間違いがあります。
まづ、考える対象を3つに分けましたが3つに分ける必要はありません。
つまり、3)は2)に等しく、3)と2)を区別する必要は全くありません。3)と2)を区別したところで如何なる価値も生まれません。
これははっきりしております。如何なる価値も生まれないのです。
従って、考える対象を次のように2つに分けるべきなのです。
  1)考えて分かるもの
  2)考えても分からないもの
次に、無限は2)(もしくは旧3))ではなく1)の部類であるということです。つまり、時間や空間が有限か無限かは調べていけばそのうち答えが出る、分かるということです。科学者はいまそれをやっている最中です。もちろんまだ答えは出ていませんが、答えが出るだろうということでやっております。ですから無限は2)ではなく1)の部類であるということです。
これでやっとはっきりしてきました。
何が問題であったかはっきりと分かってきました。
No.20さん、ありがとう。

お礼日時:2009/12/23 21:22

 こんにちは。



 ★ 哲学に感動はあるか
 ☆ おどろきも感動もあると思いますが 一般には漠然と全体として示すようなことしか書けないでしょうね。これこれはすごい! といったところでまづ伝えることしかできないでしょうね。
 つまり書くとなると 長い論文になると思われます。

 ★ 時間と空間が有限なのか無限なのか
 ☆ わたしはあいにく自然科学の素養がないのです。ただ 経験世界とそれを超えた領域との区別については 考えたことがあります。
 時空間は とうぜん 経験世界に属しています。ですからもしそれが無限であると言う場合は いわゆる可能無限になるのかと思います。これは 無限大プラス一 またプラス一 というようにどこまでもつづくと同時に 一なら一という特定の――表象しうる・したがって経験的な――数字(量)でありつづけます。ということは 経験を超えた世界としての《無限》ではないと言わざるを得ません。
 では ものごとが有限で相対的な経験世界を超えたという無限で絶対的な世界とは どういうことであるのか?
 つぎのように想定することになるのだと思います。経験合理性では相対性の世界しか知らないわれわれ人間にとって この絶対としての無限の世界が想定されるとすれば その無限は われわれの世界を超えていると同時におそらく覆い包んでいるのではないかと想像されます。
 何度かすでに投稿したものですが。
 
   §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと

 世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。

   Y=考えれば分かること。

     (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行
     為によって分かるようになると考えられること)。  

      (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する
     場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明
     しうることがら。)
 
   X=考えても分からないこと。

    (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。

    (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ
    のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。
 
    (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ
    とがら。 )

 ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。Xは 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。

 経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて

   超経験の領域= X

      超自然・非経験・絶対・無限・永遠・
      〔そしてこのような意味での〕神・
      〔人によっては次のごとく言う〕無神

 人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)

 さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。

   §2 《考える》と《信じる》

 考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。

   人間存在 = Z 

 とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える(Y-Z)》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。

 《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。

 これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。

 したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 Xa-Z と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 Xb-Z と言おうが 自由であろうし 《神》 Xc-Zとも 《ヤハウェー》 Xd-Z とも 《アッラー》 Xe-Z 等々とも 言い得る。

 逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。
 すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-iという発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。

  §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の
   歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。

 これに対する答えは むしろ簡単である。

 絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。
 もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。

 しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。

 議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認しえていることではないだろうか。

 信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi )か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に 保持していることが重要ではないだろうか。

 いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度 明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。

 信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。

 もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには一切 目もくれないのだという意見の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の神( X )体験ないし X 史観については 自由に話し合えばよい と言える。そしてそのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの信仰の基本形態(大前提)に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。

 もし問題があるとすれば その大前提について あらためて 想定の仕方や規定の内容を議論しなおせばよい。

 以上の定義だけの理論は次が その心である。

   吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ
  ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。 

 * ごめんなさい。宇宙論は苦手です。
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この回答へのお礼

人が考えるのは考えれば分かると思うから、考えるのであって初めから考えても分からないと思うことは考えません。
科学者が宇宙について考えるのは、考えてゆけばそのうち答えが出ると考えるから考えるのであって、初めから考えたところで答えなど出ないと判断するものは考えないのです、超自然とか心霊とかは。
ですから考えて分からないものをどうしようこうしようなどとはもともと考える必要もないし、初めからそのようなものは考える対象から排除されます。
当然、時間と空間の問題は考えれば答えが出ると考えるから考えるのです。この問題にまじめに取り組んでいる人間であれば、同じ考えのはずです。
ですから考えて分かるもの(Y)、分からないもの(X)と分類し議論すること自体が全く意味をなさない、これが私の結論です。

お礼日時:2009/12/23 18:58

>そして今すぐ私に連絡して頂けませんか、時間と空間が有限なのか無限なのかの答えを。


>大至急お願いします。すごく苦しいのです。

大変ですね。大丈夫ですか。
でも苦しい気持ちは少しは分かる気がするのです。私たちは時空という刹那の中で生きているのですからね。だから気になってしょうがないのですよね。私は女の人ですから、月という物質の変化率による時空の歪みのその刹那のリズムを感じざるをえないのです。しかし地球という物質の質量による変化率により地面にたっていられることもまた事実ですよね。

質問者様の知りたい謎はこういうことでしょうか。つまり、物質が時空をゆがめているのだったら、宇宙においてその物質(星たち)による曲率がちょうど0なんてあまりにも偶然すぎるではないか。そんなのありえるのかな。どっちかじゃないかな。つまり将来、ビッククランチが起こるか、どんどん急に膨張していくか。確かに137億年という観測結果では0だけど、なんか最近では間違ってました、やっぱり後者でしたってことみたいです。

すいません、きっと求めているのは、こんなありふれた答えじゃないですよね。ちょっとブロジェンヌさんに声かけときますね。
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この回答へのお礼

聞いといてネ

お礼日時:2009/12/23 15:21

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