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「平和が人間のエゴを盲目にさせている」

この意味わかる?

どんな善良な人も、例えば、他人を殺さないと自分が死んでしまう、
って状況になった時、他人を殺しますよね?
でも、一生のうちで、こんな状況はまず無い。
本当は人間ってそうなのに、、。
だから、そんな状況の無い、つまり平和であるということは、人間のエゴをわからなくさせている。
そういう意味。

私もあなたもみんなそう。
おそろしい生き物。

どんな自分の素晴らしい哲学を持っていようが
おそろしい生き物。

どんなに人に親切に生きようが
結局おそろしい生き物。

極限な状況になれば自分の命しか考えないのが人間の本性。
それは驚異でなく人間として当たり前としてとらえるべきなのか?
当たり前なら、なんて人間ってクソみたいな生き物なんだ。
だめだこりゃ!!!

A 回答 (10件)

>他人を殺さないと自分が死んでしまう、って状況になった時、他人を殺しますよね?



そうですか?それは緊急避難措置ではないでしょうか。
映画やドラマみたいに、自分が死なないために、誰かを殺していくパターンなら、その状況を作った人が、クソったれだと思います。

全ての生き物が、自分が生きるために、他者を殺します。
食事って、そういう事ですよね。

だから、人間同士なんて、どうって事無いのでは?
だって人間を食料としている生き物は居ないのだし。

私は、人間は地球の癌細胞だと思っていますよ。
クソなら良いじゃないですか、そのうち自然に還るし、
地球上で一番偉いのが人間だと思ってる。
そのことが、一番おそろしい事だと思いますよ。
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それが真実です。


所詮私もあなたもこの自然界に組み込まれた、弱肉強食の世界。
強いものが弱いものを搾取し退ける世界。

だからこそ生存本能があるのは当たり前なんですよ。
だって命あってこその何やらと言うでしょう?

ただ神様ってのは優しいから、私たちに言葉と心を与えてくれた。

人は恐ろしい。
人は憎い。
差し伸べた手で首を絞めたり相手を傷つけたりもする。

だけど、同じ手で相手を抱きしめ優しく諭すことだってできるって事。

物は使いよう。
人だって使いよう。

いくら悪人であっても、「絶対」に心の底から「悪」ではない。

世の中に絶対なんてなどはない。
結論はすべてではない、経過だって存在する。

必要なのは認めること。
認め合うこと。
其処から始めましょう。
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>「平和が人間のエゴを盲目にさせている」


>この意味わかる?
>つまり平和であるということは、人間のエゴをわからなくさせている。

「平和という幻想により人間は半ば目を開け半ば夢想している」という意味にもとれると思います。

平和という幻想から自ら目覚め、うわべを突き抜け、真実によりいっそう近づくための積極的な努力をする。
そのような過程もエゴ、人間理性の自己確認の一つであると言えます。

過去の多くの先人達はこれを通じて、また、各自の理想、或いはヒューマニズムなどをも希求したはずです。
人間の「闇」あれば「光」もきっとありますよ。

いかがでしょうか。
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人間に限らず生命は、自分自身をコピーして永遠に存在するようにプログラムされているわけです。




ゆえに自分が存続をするためには、嘘もつくし、他人が不幸になるとわかっていても、助けると自分が死ぬとか 不利になるという場面だと見殺しにするわけです。


自己犠牲をするってのは、ごくごく限られたことで、身内にしかしない。
しかも生産能力が無くなった者が、自分の遺伝子のコピーを持っているまだ子供を作ることができる世代を救う。


例えば老人が自己犠牲を払い孫を救って死ぬってのは、プログラムされているから。

もし、これが自分の遺伝子を継承していない子供であったら、命を投げ出して救うことは無い。



で、グループによっては、自分の子供ではない子を養育したりする。
血のつながりがまったく無いわけではなく、親戚の子を自分の子供として育てる。
自分に子供がいなくても、自分の遺伝子に類似した親戚の子なら育てるわけです。



で、働き蜂は、自己犠牲を払って女王蜂の娘たちを救う。
どうしてかというと、自分の遺伝子は女王蜂の遺伝子を50%受け継いでいるが、女王蜂の娘は70だったか75%受け継いでいるので、自己保存のために、濃い娘の方を救うようにプログラムされているから。


本能。


もし 「血のつながりが無いのに、どうしてあの人は赤の他人のあの人を救おうと自己犠牲を払っているのだろう」という場面に遭遇したら、実は血が濃いもの同士で。プログラムにより動いているんだ と思えばいいんじゃないか と。



集団で貧しい人を富む人が助けるってよくありますよね。
これも遺伝子が関係しており、貧しい人の中に自分の遺伝子に似た人がいて、それがひきあっているのかもしれない。


以前、断種政策がヨーロッパで起こり、中国のある地域に追い込まれたユダヤ人を、日本人のある集団が救出するように奔走したことがあったそうです。

まったく民族が違う関わりの無い種族を何故日本人の一部の集団は救ったのか。
血のようです。
その一部の日本人たちは、ユダヤ人の血をひいていると思っていたので、危険を冒して救済したのだそうです。


確かに身内しか救わないってのは、冷酷って言えばそうですが、そっちじゃなくて、身内なら救う って面を見ればいいんじゃないか と。

遺伝子は目では見えない。
ゆえに何故そんな行動をとるのか目ではわからないので、なぞの行動になり、わからなくさせていますよね。
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恐ろしいと思えば、おそろしい、すばらしいと思えば、すばらしい、めんどくさいと思えば、めんどくさい・・・



平和でも、戦争でも悪いところを見ようとすると、悪く見えるし、いいところ見つければ、いいところもある。

いい人間も所詮エゴの塊、自分勝手と思えば、嫌な気持ちになるかもね。

クソみたいな人間もいいところがあると見て、付き合えばいいとこあるかもよ。

そう悲観的になるなって。君の言うとおり、クソみたいな人間の集まりのクソだまりでもさ、楽しいめる方が楽しいダニ。
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私は現在63歳ですが、子どもの頃、南京の大虐殺の当事者の方(かた)のお話を直接聞いています。



子どもに話す解かりやすい話ではあるのでしょうが、今でもその方が子どもだからといって話しをはしょったりしたのではないと信じています。

当時の素朴な青年の多かった多くの日本の若者達は、 最初は銃を同じ人間に向けることもできなかったと言う話からそのお話は始まりました。(虫も殺せないような人がまわりに多かったそうです)

でもやがて、目の前で仲間が玉にあたり死んでゆくのを見ながら 神経が変化していったと言います。

徐々にです。

そのへんのところを詳しく話してくれたのです。

そしてまず、 彼は とうとうあの南京の大虐殺の話へとそれを繋げました。

聞き手の私が子どもであるにもかかわらずです。

うううううううううという大陸特有の低いうなり声が、自分たちよりもはるかに多い捕虜達の全体に連鎖した時に、 それは見方の中の恐怖の連鎖へと繋がったのだと言います。

だれかが 飛び出したのをきっかけに後は 雪崩現象だったようです。

彼自身、 自分が威嚇的に 女子供、老人にかかわらず、大声で威嚇しこずいて穴の生き埋めにしたのだそうです。

何度も威嚇的という言葉がでてきました。 その方(かた)自分自身のその時の状態を表していたその言葉はじつはまだ私は始めて聴く言葉だったのですが、 意味は解かりました。

何度も その言葉が繰り返されたからです。

平和の地に生還出来て、彼は子供に何が言いたかったのか?

彼は その後、 さらにその極限の状態の心理について説明し始めました。

そんな状態の中では どんなに神経が変化してしまうか、とうことについてです。

彼自身が 何千里も歩いて 休むまで足の骨折に気がつかなかったとう話、 たしかにこれらは私たちの平和の中の神経の状態ではありません。

そういう話を直接聞いた者としては、

そうした時の殺人者たちを非難することは全く出来ません。

しかし、同時に 私はやはりこれはたしか中学生の頃だったと思いますが、 こんなテレビ番組を見たことがあります。

原爆の被害者の子供たちが 並んで寝ていて死ぬのを待っている状態の時、かすかにもれる「助けて」という声、 それをなんとかしたくても何も出来ないで 隣では大人たちがやはり瀕死のベットにて 苦悶の表情を浮かべています。

もし、原爆の落下当初ということでしたら、 あまりにもの興奮のあまり痛くもなく《痛くも無く、気がついたら死んでいた(あまりいいアイロニーではありませんが)》 土に帰ることの出来た人たちもいたかもしれません。

が この映像を見た時から、私は もはや、 その苦悶の世界を忘れることが出来ないでいます。

南京では どうだったのでしょう。  被害者の側についての視点の考察です。

想像してください。 あとは言いたくないですね。

というより 書くことが出来るとは思えません。 想像を絶する世界だと思います。

私たちは 生物でもあるということを忘れてはならないと私は思います。

ただ、それを「見つめる」能力 本能からそのぶん、解放され、 本来その生物であることをもみつめ生かすことのできうる生物、 それが人間です。

見つめるから 物事を比較でき 内面に記号化が起こり、やがて言葉も獲得し、さらなる反省の地点を得、 進歩もしてきたのが人間の歴史でしょうけど、  そのへんの中途半端さは動物以上の悲惨さ(動物は野生の中では 獲物も穏やかに死を受け入れるというのがベテランの猟師たちの言われていることです)をも そこに作り出してしまいました。

平和 それは尊いのです。

でも この中でこそ、 私たちは 二度とそのようなあやまちを犯さないような知恵を磨いていかなければと思います。

もっと詳しく書きたいのですが時間がありません。

機会があればまた お会いしましょう。
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>「他人を殺さないと自分が死んでしまう、って状況になった時、


>他人を殺しますよね?」

そこにおいて、真に恐ろしいのは、やむを得ず他人を殺した人間ではなく、
そのような状況をつくった人間です。
たとえば、戦争においては人を殺せば英雄ですが、その「英雄」に
懺悔を求めるのは無茶で、あくまでその戦争を招いた為政者の罪です。

そもそも、ひるがえって「他人を殺す事が罪=恐ろしい事」という
あなたの前提が間違っています。
織田信長は何十万人の単位の人を殺させましたが、英雄としての
評価に疑いをはさむ人はいません。
戦国時代まで、日本国内でも県単位で戦争し、殺しあっていたのですから。

産業の分業化、流通の発達といった、社会の組織性の発達において、
その内では利害が共通するので、「殺すのは悪」という価値観が生じます。
だから、その外との間には、「殺すと英雄になれる」戦争が発生するのです。

そこにおいて現在、身の回りの衣食住、全て世界中からやってきています。
あなたが生きているのは、世界全体の人々の営為によってなのです。
今や、人類は社会生命であり、社会とは助け合うために集まったものです。
「あなたの命」が社会全体を意味する時、人を殺すとは自分を殺すことなのです。
あなたは無人島では生きられない=人を殺すことは確かにその一歩です。
(産業も経済もグローバル化したが政治は遅れている)

一方、遺伝子の最後には、回数券のようなくり返し配列が(50回ほど)あり、
一回細胞分裂するごとにくり返しが1つ減って、なくなるとそれ以上
細胞分裂できず、新陳代謝できずに老化して死ぬようになっています。

生物は、有性生殖以前の「突然変異による多様化と、その淘汰による選択」
という人まかせで遅い進化に対して、交配する事で、遺伝子の配列をシャッフル
して多様性を生み、また交配のための種内の競争による選択という、すばやい
進化を可能にしたのです。
そこにおいて、世代交代しなければ個体数が増える一方なので、自ら寿命を
制限しているのです。

死は世代交代を意味し、その有性生殖において愛は生じ、親や子供は
存在するのです。
人は往々にして不死に幻想を抱きますが、人も愛さず、子供もいない、
そんな社会が魅力的には思えません。
逆に愛があれば、自己の肉体の限界を超えて、意志(=精神的充足)は広がります。
「生」とは死の対立概念ではなく、「より良い死」こそ「より良い生」なのです。
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その通りなのであるが、それを「恐ろしい」と感じているようではまだ未熟だと言うことだ。


本来生物とはそういうものなのだ。殺し殺される関係がその基本。牛だって角をぶつけ合って争う。鰌は共食いをするし、カマリキのメスは交尾の終わったオスを栄養源とする。食料のなくなった人間は人肉食を始める。

そういうものなのだという認識に至ったのだからそれでよいではないか。あとはそれに慣れるだけ。本質をわかるほど強いものはない。
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これは個人的な意見ですが…。


一番最初の仮定が間違っている気がします。

>どんな善良な人も、例えば、他人を殺さないと自分が死んでしまう、
って状況になった時、他人を殺しますよね?

殺す人もいます。
しかし,殺さない人もいます。

アウシュヴィッツで身代わりに殺された人や,子供を育てるために臓器を売って死んだ人,あるいは線路に落ちた人を助け,自らは亡くなってしまった人,…。

質問者の意図とはずれた回答ですが。

それとも回答者は,自らのエゴを自覚しているのでしょうか。

平和であるなら,平和であるなりの対応をすればいいのです。
もし,極限の状況で他人を殺してしまうのが人間だとしても,
せめて平和な時は,笑顔でいられるようにしたいのです。

人間に失望するのは,まだ早いと思いますよ。
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>他人を殺さないと自分が死んでしまう、って状況になった時、他人を


>殺しますよね?

>極限な状況になれば自分の命しか考えないのが人間の本性。
>それは驚異でなく人間として当たり前としてとらえるべきなのか?
>当たり前なら、なんて人間ってクソみたいな生き物なんだ。

確かに自己犠牲で他人を助ける、ということはある意味尊い。
でも、それが当たり前だとすると、逆の立場に立ってみれば「他人」の命を
犠牲にして守られる「自分」が当たり前、ということになってしまう。

守られる「自分」が当たり前だと思う人が蔓延する社会もやっぱりおかしい。

ボランティアで人を助けるために、自分が飢え死にするのが正しいとも思えない。
自分ができる範囲で人に親切にするのと、自分の命が危ないときに、他人を
見殺しにする、というのは、別に前者が偽善とは言えない、まったく次元の
違う話のような気がしますがいかがでしょう?
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