プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

いいっすかぁ!?
目を見開いて、よーく質問を読んでくださいよ!
本質的なことを書きますからね。
あまりに本質的過ぎるので、面食らうかもしれませんが、そこをもう一段掘り下げるととんでもなく人間存在の不思議について突き当たります。

なぜ人は、自分の性を隠したがるのか?

人が存続していくためには実に大切な本能欲求です。
それを、エロ本をもっているのを隠すとは、なんと矛盾した行動なのでしょうか?

そろそろ読むのもいやになってきたかもしれないので、ここからは蛇足です。

小学生のとき20代のおじの家に行って、そのときおじの棚にいろいろ面白いものがあったので、借りてみていたのですが、その中にまぁちょっとエロっぽいものがあった。それをみられたとわかったおじは、いつも機嫌がいいのに急に険しい雰囲気になったのです。「そんなにエロなものってもっていちゃいけないの?」と小学生ながら根本的な疑問を感じて、恐怖というか嫌悪と言うか、大人社会の中でのエロと言う物がそんなに忌避すべきものなんかという戦慄を味わいました。そういうトラウマって誰にでも多かれ少なかれありますよね。

なぜ、こういうときに「ああ、こんなにエロなんだ!立派!」というような感覚に一般人一般社会はなれないのでしょうかね。そんなにも「隠す」ものでしょうか?

A 回答 (21件中1~10件)

いつもは機嫌が良いおじさまの「急に険しい雰囲気」というのは、一つには、まだ小学生である甥ごさんに見せるべきではないもの見せてしまった、ということと、いま一つは、おとなとしての体面、でしょうか、年長者というものは、親が子への態度に端的ですように、どこか威厳を保とうとする傾向が一般ですしね。



おじさまが、その「エロなもの」を甥ごさんに見られてしまったというときの反応を伺って、以前、どこかで読んだ話ですが、ある婦人の回想を思い出しました。

その人が幼い頃、まだ昭和の初期あたりだったでしょうか、細かいところは覚えていませんが、ある日、その人から見て祖父母にあたるとか言ってたと思うのですが、彼らと同居している、まだ新婚の、おじさん夫婦を訪ねて、その家の玄関に立ったところが、誰も出てこない。
しばらく、ようすを覗っていると、家の奥から、誰やら女性の呻き声が漏れ聞こえてきたというんです。
それで、当時まだ子どもだったその人は、てっきり、これは、誰かが腹痛か何ぞで苦しんでいるに違いないなどと思って、声の聞こえてくる部屋を覗いてみたところ、、、

その新婚の若夫婦が、祖父母を始め、家内の者ら皆、出払っているチャンスに、真昼間から大ぴらに励んでいたのを目撃してしまったらしいのです。
そりゃあ、昔の日本は、地方なら当然のこと、跡取り息子なら、なお当然のこと、親と同居の大家族が普通でしたそうですから、新婚の夫婦と言えど、アノときの声も、さぞや気がねしいしいだったことでしょう(笑)
そこへ思いがけず、自分たち夫婦二人だけになれた貴重なひと時なのですから、それはもう、ここぞとばかり遠慮なく、、、だったでしょうね(笑)

で、くだんの少女に目撃されてしまった、そのあとの、若夫婦それぞれの反応が、まことに対照的だったのだそうです。

おじさんのほうは非常に不機嫌になってしまったそうで、当時少女であった、その人のほうも大いに困惑してしまったところが、いつも優しく可愛がってくれていた若いお嫁さんのほうは、おじさんとは正反対の落ち着いた対応ぶりで、照れるでもなく、狼狽した言い訳するでもなく、冷静に手短に、子どもにも納得できる説明をしてくれたのだそうです。


さて、本題に入ります。
哲学カテゴリーとは言え、やはり、心理学や生理学、生物学などの観点からの考察は絡んでこざるを得ない御質問だと思いました。
と言って私には、特に、それらの知見があるわけでないのですが。。。
ただ、しろうとなりに、容易に考えられますことは、
いかに知能の高さを誇るヒトの、こんにちでも明らかに本能レベル由来の行動には、大きく、食事、排泄、生殖、睡眠が挙げられますね。
これらに第一に共通することは、無防備であるということ、それは、一歩間違うと、危険が伴うということです。


俗に言われます「同じ釜の飯食った仲」ですとか、ましてや同衾して生殖行為に及ぶというのは、(強姦は当然除きますが)、最大の親和行動です。
排泄などは、まず、一人になって行ないますね。もちろん、国柄や地域事情によっても多少違ってきますが、一つの例として、これも何かで読んだことですが、確かポリネシアのどこかの島国だったと覚えていますが、
真昼間、子どもたちが眺めて囃したてる傍で、これも笑いながら言い返したりしつつ夫婦の営みに励んで、ちょっとも恥じないのだそうです。
そのあたりは年中暑い気候の地域ですから、今現在どうなっているかは知りませんが、当時は、まだ椰子の葉で葺いた屋根がかかってるだけの壁も何もないような家屋で、戸締りどころではないという感じの様子だったということでした。
日本でも、昔の、あるいは、いまでもそういう所は残っているのかもしれませんが、戸締りなんぞする必要もないくらいに、勝手知ったるご近所どうし、警戒心というものが必要ないほどであった。
ということならば、最も無防備な行動の一つである生殖行為の最中でも、密室に閉じこもり隠す必要もないということになるわけかもしれません。
と言うよりも、そもそも、伝統的な日本家屋自体が、およそプライバシーを守るようには、あまり向いていない造りだったわけですが。日本人に関しては、こちらの影響を考えてみたほうがいいかも。


だいたい、隠す、隠さずにおけない、ということの理由を考えてみると、まず、それは、ある面で不利な行為であるということが真っ先に考えられる理由ではないでしょうか。


食事に関しては、そもそも、獲物を仕入れることから始まるのが自然界の掟ですから、ヒトにしたって、狩りや採集の危険から逃れられなかったわけです。
なお、仲間から離れて一人で食事するのを避けたがる人が多い傾向もあるようですし、人前で食事するのを憚る気分も、人によっては強かったりするようです。
睡眠が最も無防備な状態であることは説明するまでもないでしょう。睡眠時の安全が確保できているかどうか、これは、生活状態を計る一つのバロメーターになりそうです。
排泄や生殖行為の場合、体表を守ってくれる体毛の甚だしく退化したと思しきヒトは、その代替でもある着衣を、いったん離さなければなりません。

しかも、排泄なり生殖行為の、ひとたび佳境(?)に入りますと、「車は急に」、ではありませんけど、おいそれと切り上げるわけにもまいらないわけですね(笑)考えてみれば、まことに危険です。

そうした危険性が伴うからこそ、そして、その危険性を覚る知能の高いヒトならでは、そこを共にした者どうしの親密さも高まろうというわけでしょう。それは、文化としての華?にまで発展しているわけですね。


単なるデートでも、二人っきりでデートするのと、集団デートでは、趣きが違いますでしょう。
お目当ての人をデートに誘ったら、友だちも連れて行っていい?などと聞かれてガッカリした、などと聞いたりします。
まぁ大人数でのデートのような場合でも、ふとした隙に周囲に気づかれないように目と目を見交わしたり、お茶するテーブルの下で密かに膝と膝を触れ合わせたりとか、いろいろと隠微に楽しむ手段はありますけども(笑)

女の子などは、おトイレに連れ立って行くのが、親密さの表現だったりするくらいで。男性の場合、「連れ」ナントカがどうであるかは存じませんが(笑)これは余談でした。


ヒト以外の動物だと、たとえば生殖行為の最中、彼らには彼らなりに快楽はあるのだろうけど、基本的に、自分たちの目前のことしか考えてないでしょう。そして、サッサと済ませる傾向にあるのではないでしょうか。
そこへいくと、ヒトはヒトを、周囲の視線を、特に後ろからも横からもを気にします。(しないヒトもいるか 笑)
そして、その分も、じっくりねっちり引き延ばして引き延ばして楽しもうとします。ね?

その「危険性」というものは、それを「冒す」ということに、隠微な悦楽や恍惚感をいや増す効果も生じてくるということかもしれません。
リスクの高さを分かっているからこそでもあるでしょうし、
ですから、隠そうとすればするほどに、そこに深刻なまでの「危険の匂い」、タブー感が漂ってくる、なみなみならぬ事態である、ということを「白状」しているようなものなのです。

それ自体は、ヒト以外の動物でも、ある程度わきまえているようだと思いますが、ヒトの場合、「文化」にまでなっちゃってる。

それが証拠に、「あけっぴろげのおっぴろげのまる出し」なんぞ、どこに「禁断の色香」がありましょうか。
そのへん、すでに、他の御回答でも指摘されておられますね。そういうことだと思います。

で、ところが、ついには、露出の恥ずかしさを快感にしてしまったり?どこまでいくのやら(笑)


危険―恥ずかしさ―罪悪感
この連関は、考察の余地がありそうです。


かの坂本龍馬でしたか、アノときの恰好を想像したら、どんな立派なおエライさんでも、そのマヌケな姿の滑稽さに笑える、とか言ったそうですね。

この回答への補足

大変論理的で説得力にとんだご回答です。
危険回避から密室化、そして恥じらいへと進んでいった。むべなるかな。人間はその社会的規制を犯すことのスリルを性欲のエネルギーへと昇華する過程を取ったのです。

補足日時:2010/01/09 09:57
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
引用のお話しはとてもためになりますね。

>いお嫁さんのほうは、おじさんとは正反対の落ち着いた対応ぶりで、照れるでもなく、狼狽した言い訳するでもなく、冷静に手短に、子どもにも納得できる説明をしてくれたのだそうです。

こういう心意気がある人がいると言うことは頼もしい。

お礼日時:2010/01/09 09:37

その1:人に限らず、食べるとき、クソする時、セックスするとき、出産する時は無防備だからです。



その2:ピューリタンやキリスト教などの一派が、セックスは穢れたものだと広めたからです。
その割りに自分達もしっかり子孫を残し、案外、人一倍スケベが多いですがね。
そして明治維新の際に、薩長の田舎侍が「日本は遅れているから全てを捨てて西欧の言う通りにすれば国際人になれる」と国民を指導したからです。(中には息子にドイツ語で性教育をしたという逸話を持つ森鴎外のような人も居ますが)

だから、日本人の誇りを持って江戸時代に戻れば、性を隠そうなどという悪習慣はなくなるでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
やはり、生物的本能ですかね。
そこから発生したピューリタリズム、キリスト教の政治的な性禁止令の陰謀に引っかかったと言うことでしょうか。
アジアはおおらかなのに西欧は厳しいですから。

お礼日時:2010/01/12 15:29

性淘汰…………そのような男が、女に好まれた。

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養老氏の「唯脳論」が、疑問に対する答えを与えてくれるかも知れません。


参考図書:「カミとヒトの解剖学 」
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480086 …

哲学の本質であろうところの「知を愛する」の「愛する」に対する「知」の(幻想的な)優位性が(質問に対する答えの)本質になろうかと思います。これは、「大脳皮質」の優位性そのものに相当するでしょう。

身体側・自然側は、情動と密接に関連しており、脳(大脳皮質側)・知的思考側の意志・意図・思索の支配下に身体側・自然側を対置し、隠したいと思っているという図式が「唯脳論」の本質です。

脳(大脳皮質・知)は「予測性・統合・論理的」な思索を好むゆえ、身体側・自然側での「予測不可能性・自律性・非論理的」な情動の発動を制御しようとし、制御不可能な場合隠したいと思うわけです。

情動を知的優位性の配下において、理性的なレベルで会話の対象に為し得ることができたなら、あまり羞恥心を抱かずに「扱うこと」ができます。

情に対する知の優位性を暗黙裏に共有しうるということが、「隠す」という行為を正当化するとともに、「正々堂々と話すことのできる理性的な情況を生み出しうる」ということも同時に成立させているのでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
本能を隠したいと思うようになった人間は、以下に社会的になったのか理解できます。

お礼日時:2010/01/12 15:32

なぜ隠すか。


何であれ、隠すということの理由において誰でも真っ先に思い当たるであろうことは、「恥ずかしさ」あるいは「不利さ」です。
なぜ恥ずかしいか。不利であるか。
自分の弱みを晒すことだからです。
自分自身を防御しなければならないとする意識が、ふだんから強い人ほど、弱みを見せることを当然、厭います。
こういう人ほど、その弱みを受け入れ、共有し得た相手に、特別な仲間意識を抱くのは自然なことでしょう。
女性が多く、自ら望んで自分の肉体を自由にさせた相手に、以後よりいっそう情を深めがちなのは、このへんに関係しそうです。
いっぽう、
隠されているものを暴くということには、冒す者の支配欲求が絡んでいそうです。これは、所有欲とも関わりが深いでしょう。科学などの学問分野とも密接に繋がっているはずです。多く、男性が関わる分野でもありますね。
そして、安心して支配しつつ所有が叶う対象となったあかつきには俄然、興味を失う傾向も、よく見られることです。
逆に、全く支配・所有が叶わない対象という結論が明らかになった場合も、これはこれで、その結論に落ち着いた、ということで、一種の安心感とも言える諦念と共に、関心を失うのでしょう。

さて、
自分があずかれない悦びを、傍の他者が味わっているのを見るのは、多くの者にとって、ねたみの感情への刺激となります。
しかも、自分にも手が届きそうな、あるいは、自分こそが手中にできるはずと思う対象ほど、他者が易々と手に入れているのを見ることは、所有欲が強い者、言い換えれば、自分の弱みを強く意識せざるを得ない者ほど、激しいねたみを感じることでしょう。

特に、恋愛や性的な方面における問題について、独身であるとか、安定して交渉できる相手に根深い不自由を感じている男性などは、そうした悦びを満喫している同輩への嫉妬は、なかなかのものがあるように見受けます。

日本でも、昔は、夜這いですとかあったそうですが、正面から堂々と交渉するに恵まれない者であるほど、背後から狙うというような搦め手的手段に訴えざるを得なかったことでしょうし、それは、やがて犯罪的行為にも繋がっていきます。
犯罪行為ということになれば、当然、社会規範に繋がってきます。


他人からの嫉妬の視線、これは、実は非常に恐ろしい障害をもたらすことになるのは、古代から人はよく知っていたようで、これを避ける方策は、おまじないの類から社会規範に至るあらゆる分野に影響を及ぼしているのが古今東西に見てとれます。


ねたみや不自由は、犯罪行為へと発展しやすいですし、ですから、それを誘発するであろうことへの意識が希薄であること自体、危険性が高いわけです。
そういうことからも、高度に発達してきた人類の社会において、隠すという行為が発達してきたという面は指摘できると思います。

しかし、ここで翻って、
実際の、わが身に及ぶ危険性の低さを確信しながらも、つまり捻じれた優越意識のもとに、他者のねたみや不自由を誘発し続けることには、いわゆるサディズムに繋がる快楽感もあるようです。

多く、女性に見られる露出度の高い衣装などが、男性の視線を強烈に奪いつつ同時に、多分に被害意識的な強い反感を招きがちなこととも関連していそうです。
そうした反感をもたらした対象を蹂躙することは、一転、今度は自分が支配側にまわったという勝者の意識を、たとえ一時的にせよ、もたらすでしょうから、それが叶わないうちは、悶々と被害意識を募らせ続けることになりますので、それが、やがて世に「異常性欲」ですとか「ヘンタイ」と呼ばれるような犯罪行為に繋がっていくのかと思われます。


なぜ隠さなければならないか。
隠さざるを得ないことの弱み。それを晒すことが、なぜ危険に繋がり、それを冒すことが、なぜ快楽や、やがて犯罪にも繋がっていくのか。

どうやら、
隠さなければ<ならない>
という地点にまで遡って、考察しなければならないようですね。


アラブのほうの女性の被り物ですとか、日本でも、宗教上の場所などで、いまだに女性の出入りを忌む習慣ですとか、その根本にある、恐らくは男性ならではの弱さ、ということも考え合わせてごらんになると、なかなか深いものが見えてくると思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
やはり、人間の高度に錯綜した思考内容、思考方法、情動の多方向性というようなものが、このような「隠す」という行動傾向に行く元だと思います。

お礼日時:2010/01/12 15:33

「淫行は配偶者間ではok」というタイトルの質問を書いていた方ですね^^。



私は普段は いろいろ忙しくてなかなかこちらの回答とか質問が出来ないでいる者なのですが、 三日間だけなんとかこちらにもこれる時間がとれる日が訪れましたので それで先に上のタイトルの方に回答を入れておきました。

おそらく回答内容は どちらにも通じる内容となっているかと思います。

是非読まれてみてください。

エロ本や ポルノは あまりお勧めは出来ません。

本当に健康で成熟した男女のセックスは とてもすばらしいものです。エロ本やポルノは そのすばらしさを反映したり表現した文や映像の世界とはなっていないからです。

ほんとうに深く感じることのできるセックスならば何も隠すことはありません。

そこにはいやらしさとか 下品とかいう要素が1つも無いからです。

が、それは もう1つの方にすこしだけですが、きちっとしたその理由を書きましたので、それを読んでください。 

隠す心境になるのは、むしろ あちらにも書きましたように、いままでの資本主義の必要からの所有欲の醜さの後ろめたさからのものだと私は思っています。

それは ほんとうに全身で感じる挿入とは別な地点を知る事が出来れば 深く感じればコントロールが可能なので、むしろ人間は生殖とは別に セックスを明るく楽しく味わい楽しめるのです。

また、これからは人間はそうすべきだとも思ってもいます。

ただし、そのためには、おそらく今の今は プロの技術が必要です。

経絡の理解や 喉の奥の性感帯(全身の快感の根元)の活用が出来る しかもそれをコントロールして実地に教えることのできる人たちが必要なのです。

興味がありましたら、質問は、 どこからでもしてください^^。

文章での記述ならば いくらでも無料で書きますので。

ただし、 誤解されないような書き方とかも、ここでは必要ですけどね^^。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
本来隠すものではないのが、西洋的な倫理基準の浸透によってあたかも正当なようになってしまったようですね。

お礼日時:2010/01/12 15:40

動物は裸ですが、行動を本能に強く支配されていて、


発情期以外は欲情しないので、生活に支障はありません。
しかし人類は、自我意識によって本能をコントロールし、
ある時は衝動を抑制するが、逆にある時は、裸を見たら
年がら年中欲情するようになってしまった。
だから、パンツをはいて隠さなければならなくなったのです。
(伝統的生活により強力なモラルが確立されている原住民は、
裸でも大丈夫)

つまり「裸の原住民がいやらしい」のではなく、「パンツを
はかねば四六時中発情してしまう“文明人”が変態」なのです。
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この回答へのお礼

発情を押さえなけれなならないという強制があるわけですね。

お礼日時:2010/01/12 15:39

隠すことが「文化」でありかつ「快楽」を大きくする効果がある。


ということは多くの回答者が述べられている事なのできっとそうだとも思うのですが、それでは質問者様の「本質的」な態度に答えたものにはならないと思いますので、蛇足として私の体験を述べたいと思います。

私が子供のころ(65年前)ようやく日本人の「都会の」女性がパンツをはくようになりました。それでもその当時老齢の方は頑固にパンツなしで(こしまきを着けていましたが)頑張っていたのを覚えています。
私が思春期の頃(55年前)電車の中で乳房を丸出しにして赤ちゃんにお乳をのませていたのが次第になくなりました。

なぜそうなったかということは、私もはっきり覚えていますが、西欧ではやっていないことだから野蛮なことだというキャンペ-ンが張られたからです。

私の小児期の刷り込みでは女性はパンツをはかないもの、ブラジャ-なんかほとんどなかったのでノ-ブラだったことが当たり前でした。
従ってパンツをはいている女性にエロ・・以下質問者さんの云う意味で・・を感じ、ブラジャ-をしている女性にむしろエロを感じたのです。

もう一例、正規のAVではモザイクがかかっていますがモザイクのかからない方に普通の人は刺激を感じるから規制するのでしょうか?
多分性器を直接見せてはならないという「規制」は上記と同じ一般的に西欧で許可されていないからだということになるでしょう。
これには性行為がキリスト教やユダヤ教で原罪との関係で厳しく律せられているためだと考えます。日本の神社のご神体の中に男性器、女性器をかたどったものが多くあることは周知の事実です。
日本ではあのモザイクはむしろある方が刺激が強く(想像力が勝手に働いて)ない方がむしろ刺激は少ないと思います。しかしモザイクの廃止を許可すれば→の資金源を立つことになり絶対に立法化されないでしょう。(私も危ないかも・・)

エロが隠される最大の要因は実は「非合法な商売がもうからなくなる事を防ぐ」という泥臭いところへ落ち着くのではないかと考えます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
究極的には大きな陰謀によると言うことらしいですね

お礼日時:2010/01/12 15:38

↓あんだだって隠したがってるんでないだべが?


http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5284025.html
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高い社会的地位にある者もどんな美人でも、やることやってるわけで極端に言えば、犬猫と変わらないということになります。



逆の表現をすれば、犬猫と変わらないのに幻想のベールを纏い御高くとまり疲れながら社会の序列を維持しているとも言えます。

そういう意味では、エロには社会の秩序を破壊する力があるのかもしれません。

エロ全開では社会は破壊されますので隠されなければなりませんが、欲情や脱糞の事実を見ないことにし社会を維持する為の幻想と自己を同一視することは精神を病むことにつながると思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
社会を壊滅させるのが本能であると言う事実もありますね。

お礼日時:2010/01/12 15:36

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