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大阪府寝屋川市に秦河勝の墓があります。
丘陵の上に墓石のようなものがありました。

また大阪府八尾市には物部守屋の墓があります。
平地に鳥居があり、瑞垣で囲まれた中に墓石のようなものがありました。

この時代の有力氏族の墓は古墳だと思っていたのですが
これはどういうことなのでしょうか。

推論でも結構です。
よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

有名な「石舞台」は古墳だったものが、まわりの土が流され、石室のみが残ったとされています。

にたようなものでしょう。

また、~の墓と言われているのは言い伝えがあったからでしょう。正しいかどうかは言い伝えですからわかりません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
江戸時代には古墳だったようですので
近代化に伴って平地にされたのかもしれませんね。
言い伝えは正しいかどうかは確かにわかりません。
しかし、そういう言い伝えができた理由があると思うんですね。
その理由を知りたいと思うわけです。

お礼日時:2010/01/08 16:25

寝屋川市の伝・秦河勝の墓は市の史跡に指定されていますが、別に寝屋川市が秦河勝の正真正銘の墓として認定している訳ではありません。


現地には古くから五輪塔があったようですが、現在のものは慶安2年(1649)に再建されたものであることが、現地の説明板に記されています。
(私が現地確認したのは昨年3月です)

八尾市の物部守屋の墓は私が行った時には施錠されていたので、中の確認ができなかったのですが、どう見ても近世以降のものですね。
http://mononobe.nobody.jp/tabi/yao/yao06.htm によると、「河内名所図会」には古墳のような状態で描かれてはいるようですね。
なお「河内名所図会」は享和元年(1801)に発行されたもののようです。

いづれにしても、古代の人物の墓の場所を特定するのは、奈良・平安初期の絵図に描かれている、とか、墓誌でも出土しない限り絶望的ですし、仮に場所が特定できたとしても、古墳が形を保ったまま残されている可能性は低いですね。
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この回答へのお礼

早速の回答をありがとうございます。

ちょっと質問の仕方が悪かったようです。
すいません。

正真正銘の墓として認定されていないこと
墓石のようなものが近世以降のものであることは承知しているのですが
なぜそこが秦河勝や物部守屋の墓だといわれているのか
と思ったわけです。

「河内名所図会」には古墳だったと記されているのですね。
すると物部氏の本拠地にあった古墳なので
守屋の墓という伝承ができたのかもしれませんね。

また河勝の墓も丘陵になっているのでもともとは古墳だったのかもしれませんね。

大変参考になりました。
ありがとうございました。

お礼日時:2010/01/06 19:46

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