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こんばんは。
オコリザルとしてごく一部でけんかもしていますがお手柔らかにお願いします。
最近の私の質問はテーマが関連付けられており今回は以下に続きます。

仏教における観念研究を哲学と見なすならば知性とは神のもたらす恵みである
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5586098.html

私は信仰心を表ざたにしない、一般的な日本人気質を持ち合わせていますが「無」と言う言葉と「非思考」と言う言葉について以下のように考察しました。

我は有る。この事は動かし難い。
仏教での宗教的な無の観念の内訳は、無いものは無いと明らかにする事。
無いものをそれ以上、探さない、求めない、実は有るのではないかと疑わない。
無いものとは煩悩である。
生きる行為が煩悩と離れきれなかった過去においては、我とはすなわち煩悩であり、したがって我は無いとも言いえたのかもしれない。
しかしこれは、はるか昔のインド社会に身を置いたお釈迦様の口癖でしかない。
実のところこのような無に確定なり悟りは、煩悩を滅却して強い生きる事の実感をもたらし、よって我はある事が動かしがたい状態になる。このような実感を備えた状態での我とはケンケンガクガクの論議がある自我ではない。我の所在を求めるとブラフマンに行きつく。ブラフマンとはインドの哲学の源流に現れる神の名である。生活日常に現代でも色濃く仏教文化の片鱗を残す日本社会では、仏教を突き抜けて我の所在をブラフマンに当てはめることで存在は揺るぎないものとなる。
そもそも無の悟りと言われる状態を、判りやすい現代哲学に翻訳すると、完全非思考と言う言葉が当てはまる。完全非思考をお釈迦様の無の口癖に当てはめると、彼は全てを信仰のままに生きたのであろうと推測できる。最も大切な「神」と言う言葉すらも非思考に預け、口にしなかった。その人間として理想的な信仰形態なり思考方法が仏である。

このような考え方に対して、無を信奉する立場から、私の異端論に対してご批判ください。
もっと徹底的に仏教批判をしたい方からのアピールも歓迎です。
思索さらに進展させる助けとなれば何でも大歓迎です。

A 回答 (2件)

>あんたと、あんたの愛人は、神学のカヤの外にいるんだよ。


承知しているだろうよ。
信じていないのだから。

 意味不明。「愛人」などいないし、質問者が神学のカヤの内にいる とは今知ったね。

 神を信じるものは「神学」のカヤの内にいるという意味ですか。

>ならば思考実験を兼ねた肝試しだ。

 肝試し だから、嘘の、虚の言であると言うことですね。

 それ以上でもそれ以下でもないようです。

>あんたは人を喰った鬼と同じ臭いげっぷをするんだ。
胃袋に収まってすらも死にきれずに、万物に怨嗟の声を上げ続ける地獄の亡者の声が文章の節々から漂ってくるのだよ。

 「救います」と言って相手を救われる側として貶め、人を食ってきた 猿が自分のことを言っているのだと理解しました。

 それから、質問者がまともであるかどうか知りたいのであえて問いますが、「甘え」と言うのは結局なんでしょうか。定義してください。

 他者に「甘えるな」というのだから、当然、良くその意味を理解しているのでしょう。

 この最後の質問だけは逃げないで教えてくださいね。

この回答への補足

ああ、そうだ。
一応言っておく。
>肝試し だから、嘘の、虚の言であると言うことですね。
その通りだよ。
ただし虚言であるのは私の言葉ではなく、あんたの人生すべてだ。

補足日時:2010/01/22 00:47
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この回答へのお礼

打ち解けることだよ。
あんたには縁がないから気にしなくていいよ。

お礼日時:2010/01/22 00:38

有無の「無」ではないという言葉は、自我意識で考えている限り、掴めません。

如何してかと言いますと、左脳に在る自我意識と、もう一つ在る意識の思考方法が違っているためです。有無の「無」とは分別する心で捉えようとしている「無」だからです。

本当の意味の「無」とは、考えていなくて考えている「無」です。或いは考えていたとしても考えていない処の「無」です。もっと言うならば自我意識ではない意識「無意識の意識、或いは、潜在意識」から捉えた処の「無」だからです。

この意識には「言葉が在りません。」言葉が無い意識から捉えた処のものが、仏教における、或いは禅における「無」です。言葉が無い事から、説明のしようがない「無」です。

この事を説明しようとする処に、何千巻という経典が存在しています。処が言葉に出来ない事ですから、いくら説明したところで、分かるはずが在りません。

その意識は、絶えず自我意識と交流しています。或いは相談して日常が大過なく過ごす事が出来ています。その交流できなくなったことから日常に支障が出る場合が在ります。例えば自我意識と交替できなくなって、自我意識が自我意識単独で、字を書こうとした場合には、例え両手で字を書こうとしても字が書けなくなります。この事を書痙と呼んでいます。

口を開く時には、吃音という事になります。自我意識との仲たがいで、或いは無交流という事で、自我意識が単独で何かをしようとしたり、考えようとしたり、或いは、気分を変えようとした場合が、全ての障害を作っています。気分を自我意識のみで良いと思うようにしようとする事が、すなわち。「心を病む」という事の始まりになります。

つまり心を病むという事が、自我意識が単独行動をしている証拠です。人間は本来自我意識と、もう一つの意識との協調で普通の暮らしが成り立っています。自我意識はどんなに一人で頑張っても、「単独では」眠る事さえ出来ません。眠る事さえも「無意識の意識」と相談して決めているという事になります。

気持ち良く眠る、という事は、自我意識が安心して「無意識の意識に」全てを預ける事から出来る事と言えます。自我意識が「無」になってから、心地よい眠りに入っています。それは自我意識と無意識の関係が良好と言っても良いからです。

眠れない時は、自我意識は「一切皆苦」という状態になっています。心は不安でいっぱいという状態の事です。是は「無意識」が交替を要請している状態の事です。その事を誤解していることから、尚更「無意識」が交替を強く要求しています。不安は、もう一つの意識からの、もっと強い交替要請が来た事を意味しています。この強い要請を恐怖感という事も出来ます。

この不安感や恐怖感、或いは心の深淵を覗き込んだ時の、得体のしれない「怖さ」がどこから来るのか?が仏教の「一切皆苦」という処で繋がっています。

結論を言います。一切皆苦という事は、自我意識が受けている圧迫感の事です。「無意識の意識=つまり仏性」からの圧迫という事になります。この意識は自我意識と常に交替性になっています、従って自我意識には「意識」出来ないようになっています。自我意識が無い状態が「無」の境地という事になります。従って道に達した、或いは悟りが開く、という状態は、自我意識が無意識と交替する瞬間の事です。

自我意識としては「まだ心が生じていない時」正に心が生じる瞬間に、心が無意識から、意識に戻る瞬間の事を云います。その時に「無意識の意識」と自我意識は出会います。是が悟りです。父母未生以前本来の面目が分かる時の事です。この経験によって自我意識を圧迫していた者が自分自身の「無意識の意識」という事が分かります。

是以後「心はもう二度と分裂や、対立」をしなくなります。是が涅槃という事になります。キリスト教的に言うならば、「神に在って和解」が成立した事になります。絶対の安心が手に出来たという意味になります。神の僕となって自我意識は二度と計らう事が出来なくなる、という意味になります。

是は絶対肯定という足場に立ったという意味になります。全てを受け入れる事が出来るようになるという事です。迷いと言っても、不安と言っても、疑問と言っても、煎じつめた場合には同じ事です。自分が自分を(環境も含めて)受け入れられないという事です。そういう意味から疑問の多い人、或いは不安が多い人はストレスが多い人と言えます。ストレスとは受け入れたくないものの総称と言えます。

つまるところ受け入れられないものと、受け入れられるものを「分別」する生き方が、迷いを生んでいます。全てを受け入れて生きてゆく処に、救いが在ります。それは別な言い方をするならば、左脳に在る自我意識と、右脳に在る「無意識の意識=仏性」にホットラインが通じたという意味になります。

結果として「意識しながら無意識の動きが掴める、或いは無意識でありながら意識もある」という感じでしょうか?
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この回答へのお礼

作文の論理はまあまあです。
しかしヘンテコな気持ちの切り替え方をしますね。

お礼日時:2010/01/21 10:26

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