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リーダー不要の社会は実現可能か?
誰もが自律的に認識を発達させていくとき、誰もが政治家であり労働者でもある社会は実現するように思いますが、政策コンサルタントのような政治のプロは必要にしても、環境認識的な思想が統一されればリーダー的ヒーローは不要になると思いますが、皆さんはどう思いますか?よく映画スターが政治家になることが多いが、つまりそうした格差的な思考が今後、淘汰されるにはどうすべきか?または淘汰不可能でしょうか?(他者と競い合う社会からの解脱は可能なのか?)

A 回答 (8件)

あなたの言う「リーダー」とはどんな職能ですか?


公共事業を企画する職能、国際関係を調整する職能、技術開発する職能など、それぞれの指揮系統のセンターはあります。

その中で、それらの予算配分の可能性を企画・提案する職能が、“センターのセンター”ですが、決して上に立つ「リーダー」ではなく、計画者としての対象の違いに過ぎません。

意思決定を民主的プロセスによる限り(かつその「決定」がネットで随時性を増すほど)、決定権を行使する者としてのリーダーは不要です。
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なんかやる時


言いだしっぺがリーダーになってしまうってことはよくあることなんじゃないの。
みんなでやろうぜ
って。
自民党かい
おい。
何をやるんだってぇの
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リーダーがいない会社はある。

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不要もなにも、リーダーがいなかったら社会自体が崩壊するでしょうよ!存在基盤が成り立ちません。


天体から動物、植物、鉱物、原子にいたるまでの全存在階層は、必ず回転するための中心が存在し、その中心を中心として回転運動をするとき、初めて自身自体も自存可能となるのですから・・・
わかり易い例は、まさに地球ですね。自転運動しつつ太陽の周りを公転運動していますよね。太陽という中心がなければ、遠心力も求心力も発生することができず、軌道を回ることができなくなり、地球自体が存在できません。
人間社会も同様です。
家庭には主人が存在し、学校には、校長先生が存在します。
会社には社長が、あらゆる組織には中心軸となる存在が必要不可欠なのです。組織が大きければ大きいほど中心を中心としてピラミッド型の組織構成をなすのです。
特に、人間界は今、個人主義や利己主義が闊歩しています。
健全な人間だけの社会でさえ、リーダーが絶対必要だというのに、不健全な人間が多い今日、リーダーなくして、どのようにして秩序を保つのでしょうか?
リーダーが絶対以上に必要なことは言うまでもないことでありましょう。
中心や回転軸のない世界?過去にも未来永劫に渡っても、想像だにできません。
リーダーのない世界こそ、天地が逆さまになっても、実現不可能でありましょう。
また、億一(万一)そんな世界があったなら、そんな奇妙な世界に住みたくもありませんやね!

この回答への補足

あなたは先入観が強いんだと思います。
現にリーダー不要と言う回答者もおられる訳で。

補足日時:2010/02/15 06:03
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いけめんリーダーに嫉妬するひと



「自分の彼女になってくれないおんなは、自己チュウ」

と主張して、他人の意見を聞き入れないワガママなおっさん。

もてないニーテォ=アナーキスト=「役立たず」が、世の中にそんざいする限り、

リーダーは必要です。
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 主題が掲げられたので回答を寄せます。



 すでに吉本隆明は次のように考えを明きらかにしています。
 ○ 現在の日本で言うならば 首相をすべての国民の当番制にすればいいではないか。
 ☆ という意味合いのものです。(吉本の思想に対して全体としてはわたしは反対の立ち場ですが 参考にしてよいと考えます)。

 ▲  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 レーニンが究極的に考えたことは 少なくとも政治的な権力が階級としての労働者に移るということはたいした問題じゃない。つまり それは過渡的な形であって ほんとうは権力というのはどこに移ればいいのか。
 それはあまり政治なんかに関心のない 自分が日常生活をしているというか そういうこと以外のことにはあまり関心がないという人たちの中に 移行すればいいんじゃないか というところまでは考えていると思います。・・・

 では 権力が移行するというのは具体的にどういうことか。そういう人たちは 政治なんていうのには関心がないわけですから お前 なんかやれと言われたって おれは面倒くさいからいやだと言うに決まっているわけです。しかしお前当番だから仕方ないだろう 町会のゴミ当番みたいなもので お前何ヶ月やれ というと しょうがない 当番ならやるか ということで きわめて事務的なことで処理する。そして当番が過ぎたら 次のそういうやつがやる。そういう形を究極に描いたんですね。そういうことで〔政治=まつりごととしての秘儀 つまりまたは 社稷というべき国家神道における〕秘儀をあばけば全部終わるじゃないかということに対しても 思想的なといいますか 理論的なといいますか 対症療法として考えたわけですよ。・・・

 レーニンが究極的に ポリバケツをもった ゴミ当番でいいじゃないかと言った時に 究極に描いたユートピアというものは ほんとうはたいへんおそろしいことだとおもいます。おそろしいというのは 江藤さんの言い方で言えば そうしたらすべてが終わっちゃうじゃないか ということを ほんとうは求めたということです。

 つまり すべてが終わったのちに 人間はどうなるんだとか 人間はどうやって生きていくんだということについては 明瞭なビジョンがあったとは思えないんです。また そういうビジョンは不可能だと思います。
 だけれどもすべてが終わったということは そういう言葉づかいをしているんですけれども 人間の歴史は 前史を完全に終わったということだと言っているわけです。
 これは ある意味では江藤さんの言葉で 人間は滅びる というふうに言ってもいいと思います。なぜならば それからあとのビジョンは作り得ないし また描き得ないわけですから。
 だから人間はそこで滅びるでもいいです。それを 前史が終わる というふうな言い方で言っています。前史が終わって こんどは本史がはじまるというように 楽天的に考えていたかどうかはわかりません。だから人間はそこで滅びるでもいいと思います。だけれども そうすれば前史は終わるんだということです。

 まず第一に政治的な国家というのがなくなるということは ほんとうは一国でなくなっても仕方がない。全体でなくならないとしょうがない。そうすると 全体でなくなるまでは いつも過渡期です。だから どこかに権力が集まったり どこかにまやかしが集まったり どこかに対立が集まったりすることは止むを得ない。止むを得ないけれども それに対しては最大限の防衛措置というものはできる。そうしておけばいい。しかし そうしながらも究極に描き得るのは 人類の前史が終わるということです。

 あるいは江藤さん的に言えば いま僕らが考えている人間は終わる ということです。それから先は 描いたら空想ですから 描いても仕方がない。理念が行き着けるのはそこまでであってね。だけどそこまでは 超一流のイデオローグは やっぱり言い切っていると思います。・・・ 
 (《吉本隆明と江藤淳との対談:文学と思想の原点――『文芸』1970・8》)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 そうしてこの思想をめぐるみなさんの考えは つぎの質疑応答に見られます。当質問の質問者は見ないでしょうが みなさんの参考になればと思います。
 【Q:吉本隆明の思想について】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4462818.html
 ☆ 質問者はわたしです。結論が出たというわけではありませんが かなり広くそしてある程度は深く問い求めていると思います。
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不可能。


人間には欲があるからです。
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原始共産制


稚魚や小鳥がやっていますよ
全員が同じ能力同じ思想を持たなければ無理です
小説「所有せざる人々」のように
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