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シニフィアンとシニフィエの結合の恣意性を説明するためのメタファーとして、箱に入れられた風船と、それが箱の中で占める空間の関係を考えるのは、丸山圭三郎の発案なんでしょうか、あるいは同じメタファーをソシュールも使っているのでしょうか?
使っていたような気がするのですがその場所が見つからず気のせいかもしれないと思い質問させていただきます。

A 回答 (5件)

 こんにちは。



 この恣意性説は 神話だと言って批判する質問を出している者です。
 ★ 〔ソシュールはそのメタファーを〕使っていたような気がするのですが
 ☆ ぎゃくにわたしは使っていなかったような気がします。でももうあやふやです。澄みません。
 
 そのメタファーで勝負するというお考えでしょうか?
 このことをお訊きしたいと思って投稿しました。メタファーがどうであれ 《一挙にことばの世界――すべての言葉の差異体系の世界――に動物の世界から突き抜けるかのように現われ出た》とお考えですか?

 あまり回答になっていないことを承知のうえで。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。話しがずれているし、勝負も何もないと思うのですが、このことに関してはいろいろ考えることがあったので、答えてみます。私は人間と動物とは連続的だと思いますが、言語の恣意性は認めます。人間でも動物でも、その知覚は解釈的行為であり、先行的な枠組みに媒介されていると考えています。これはつまり生命現象が物理的作用反作用に還元され得ないということです。この先行的な枠組みとは人間の場合は言語も重要ですが、より身体的なものも含んでいます。そしてこの枠組みは知覚対象から導くことはできず、もとをたどれば無根拠であり、つまりは恣意的です。この恣意性が生命が世界を意味づけるさいの自由を与えています。人間と動物の差異とは、この枠組みを変更できる大きさの違いだと思います。人間の個体が大きくそれを変更出来るのに対して、動物は個体としては殆ど変更できない気がします。もっとも進化の過程で動物はこれを大きく変更します。酸素の意味が原生動物においていかに変わったことか。

お礼日時:2010/02/17 03:30

ソシュール言うところの「シーニュ」を説明するのに、丸山氏が『文化記号学の可能性』において、「箱の中に入っている饅頭」の譬えと共に用いられた図式ということらしいです。


私は一切の著作を読んだことがないので、こちら↓を御参考に。(冒頭にhを加えてください)
ttp://ch00475.kitaguni.tv/e11754.html

こちら↓は、過去の質疑応答です。
『「言葉は物の名前である」は何故間違いか?』
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2281820.html
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この回答へのお礼

ありがとうございます。でもこのメタファーの内容についてはここでは問題としていないのです。

お礼日時:2010/02/17 01:08

 No.1です。

おはようございます。
 闖入者の問いかけにきちんとていねいにお答えいただきありがとうございました。

 二点わたしから反応いたします。
 (1) 言語記号の恣意性と 《無根拠》としての恣意性とは別だと思いました。

 後者は むしろ《神のえこひいき》の問題であるように思います。より少なく悪いひとが 悪いひとよりも冷遇されるといったことです。現象として 顔の違いやら能力の違いやらなどです。
 恣意性と言うとそういう傾きの方面を言うことになりますが 《無根拠》と言えば けっきょくひとの自然本性としての自由意志を言うと思います。

 前者は わたしの言葉では 音素と意義素とのあいだに意味のある関連は何もないことをいうのだと思います。

 (1a ) ところがたとえば / n / という音素に同定相という意義素を想定してみると あんがいこれが事実として確認されることを見つけたのです。

 まづそのものを同定するから 日本語《 n-a 》あるいは 英語《 n-ame 》は《名》という語義を帯びる。数量の同定として 《 n-e =値》あるいは 《 n-umber =数》であると。
 また或るもの( A )の同定は そのものでないもの(非A)を規定することにもなるとき 仮りにその非 A をまちがって同定してしまうことになった場合 そのかぎりで元の A については 《否定》の相をもって迫ります。
 これは非合理的ですが 言語の変化としてありうることです。留守は 外へ出かける人( A )の代わりに家にいる人( B )を言ったのが 外へ出かけた状態のこと(≒非 B つまり≒ A )を言うように変化しました。
 かくして 音素/ n / は 同定相のほかに否定相をも帯びた。
 《 na な》:否定命令=禁止法。《 nu ぬ》=否定法。および 《 no ・ not 》といった否定辞に現われます。

 (2) ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 この恣意性(* 無根拠なる絶対的な自由)が生命が世界を意味づけるさいの自由を与えています。
 人間と動物の差異とは、この枠組みを変更できる大きさの違いだと思います。人間の個体が大きくそれを変更出来るのに対して、動物は個体としては殆ど変更できない気がします。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ これは丸山の言葉で 《身分け と 言分け》ですよね。
 ひとの場合にも 赤ん坊は母親の乳を吸うのに《身の知覚によって その目的の乳かどうかを分けていく》という事例が挙げられています。けれども 動物はすべての行動において そのように《身分け》が働いており またそこまでだと言います。
 《人間の個体が大きくそれを変更出来る》というのが 《言葉によって認識する言分け》だと言います。
 丸山らによれば もろもろの言葉が互いに互いを分けているその差異の体系にしたがって ひとも世界を認識するのだと。

   *

 以上が二点の反応ですが そこでこれらを見ておいたうえで お伺いしたいと思ったことは
 ★ 私は人間と動物とは連続的だと思いますが、言語の恣意性は認めます。
 ☆ の中身をもう少し詳しくおしえていただこうかなというところです。

 わたしの見方は こうです。《言分け》も認めますが 論点(1a)で見たように シニフィアンとシニフィエとのあいだ あるいは 音素と意義素のあいだに―― 一部においてにしろ――合理的な意味連関があるということ。無関係という意味での恣意性によって成り立っているものではないということです。
 その意味は 動物と人間 あるいは 自然(自然人の状態)と文化(ないし社会人の状態) これらがたしかに《連続的》だと見ざるを得ないのではないかというものです。

 【Q:《言語記号の恣意性》は 神話である。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5664705.html
 という質問であつかっています。よろしかったらどうぞ。(勧誘は 規約違反だそうですが)。
 noname002 さんもよろしかったら どうぞご見解を寄せてください。(ときさんも わたしの友人ですが 過去のいきさつを超えてお二人とも いまは親しみを感じます)。
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この回答へのお礼

なんか返事が遅くなって済みません。ずっと忙しかったので。
さっき「エミール・バンヴェニスト」をウィキペディアで調べてて、この質問のことを思い出しました。彼は「ソシュールの言語記号と概念内容との恣意性原理に関しては、記号とその内容は社会文化的な文脈を持ち、その限りにおいて「必然性」を持つとして批判した(論文「言語記号の性質」)」。
意見が近いのではないでしょうか?

さて、恣意性、ということばの定義みたいな話しになってくると思うのです。恣意的というのを、何の因果関係もないと言う意味に取るなら、たしかに言葉は完全に恣意的と言えないでしょう。しかし、かといって完全に因果関係によって説明できるとは思いません。そこで恣意性と言う言葉を上記の意味に取っておくなら、その代わりに「偶有性」といったら良いのかもと思いました。「こうじゃなかったかもしれない」、ということです。
必然的か恣意的かの二者択一は不毛な気がします。それぞれは、対象の性質ではなく、対象を見る我々の視点なのでしょうから。それぞれの視点の価値は、それぞれがもたらす展望に基づいて評価されるはずです。

お礼日時:2010/07/07 04:14

>丸山圭三郎の発案なんでしょうか、あるいは同じメタファーをソシュールも使っているのでしょうか?



これが本ご質問の眼目ですよね。
過去質問をも参考として挙げましたのは、そのなかで丸山氏のことに触れられているからという程度のことですので、ご自身が拾いたいと思うところのみを拾われたら宜しいことだと思います。
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この回答へのお礼

どうもお礼が遅くなって済みません。大丈夫です意図は汲んでいます。

お礼日時:2010/07/07 04:16

 こんにちは。


 No.1&3です。

 わたしは このメタファー――すなわち《箱に詰め込まれたいくつもの風船》のごとく相互に差異を持ちつつそのひとつの言語の組織体系をそれぞれが埋めているという語のあり方――にけっきょく異論をとなえる立ち場なわけですが No.3での評言を受けて その論証の一端を明らかにします。

 恣意性説への反証を挙げ このメタファーじたいが成り立たないということを唱えます。
 一群の事例を挙げるだけですが つぎのようです。

 / nVgV /という形態素を取り上げます。このシニフィアン(≒この形態素のなかの一つひとつの音素。いまは 子音です)が同じなら シニフィエ(≒意味)も同じであって この場合は《障害の除去》という共通の意味を持つという例です。

 (1) / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ (切り払うべきもの・波風・
  心の動揺がそれぞれ順に障害ないし邪魔と見做され これを除去する・
  これが消滅する というシニフィエとなっている)

 (2) 《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれている。

  nage-ru  投げる  (障害なく 延びて行かせる)
  naga-su  流す   (障害を避けて 延びて行かせる)
  naga-reru 流れる  (障害を避けて 延びて行く) 
  naga-i   長い   (障害なく延びた状態にある)

 (3) 《和ぎ nagi 》関連。母音の交替を加えて。

  nago-ya-ka 和やか    (障害が消滅した状態)
  nago-mu   和む     (障害が消滅していく)
  nagu-sa-mu 慰む     (障害を除去させる)
  negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜   (障害の消滅を希求)
  nega-u   願う      (障害の消滅を希求)


 ☆ 音素 / n / については 回答No.3の (1a )を参照していただくと分かりやすいと思います。=意義素として 同定相およびその対極としての否定相 を帯びるという仮説です。
 音素 / k ( g ) / については この場合 意義素として 移動・過程の相だと捉えると分かりやすいと思います。
 それゆえ / n - k(g) - / という形態素になると 《否定すべきもの・つまり障害が 移行するその過程》 すなわち《障害の除去》という共通の意味が現われます。
 だとすれば これら一群の語は それぞれが恣意性の仮説のうえに成り立っているのではなく 互いの共通の意味を帯びて 自然的でかつ論理的なつながりをもって成り立っていると考えるものです。すなわち 語どうしは 風船のごとく接していても互いに無関係として詰っているのではなく いわば語どうしは互いに串刺しになってつながっていると考えられます。どうでしょう?
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