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新自由主義や市場万能主義が流行ってますが
人間をただどこまでも利益を追求してゆく貪欲な存在と捉える
非常に貧相な人間観だと感じます。
これだったら儒教の仁義礼智信のほうが、よっぽど人としてエライ
なんで新自由主義のようなのが流行ったんでしょうか?

A 回答 (6件)

人類は元来、その進化において、それまでの生物の条件反射的な行動


から、認識の発達による行動の多様化という方法論をとりました。

その認識の発達による、自覚的な行動の多様化の応用としての社会性
の発達においても、助け合い(原始共産制)として自律的社会行動を
とっていたのに、その分業化&市場の拡大において、「助け合い」の
情報(感謝)をお金という物質に付加したために、その「お金」が
独立した価値を持ち、盗んだお金もマネーゲームで稼いだお金も、
苦労して(実体生産して)稼いだ金と同じ価値を持つようになり、
助け合う喜びのためではなく、「お金」という物体を得るために、
イヤイヤ働かされるようになってしまったのです(他律的社会行動)。

今、自律的社会行動=助け合い=愛のために働いている人が、どれほどいるでしょう?
人がとらわれているのは、“お金”という価値(虚構)であって。
本来、認識の発達により社会性(分業化・組織化)を発達させながら、
その“自己の生命性の拡張”を把握する認識性の発達を怠り、
他律的コントロールの方を発達させたのです。
その、「自己チューでも社会化できる」システムは、一方で
「自己チューが得をする」ものでもあり、“水は低きに流れる”
ごとく、ますます拝金主義がはびこる結果となりました。

認識の発達による「自覚的生存=ヒト型進化」から、自己チュー
なままの「他律的生存=アリ型進化」への転針(「ヒト」が!)。
本来、社会的生命として助け合うために集まっている人々をして、
弱肉強食のジャングルに変える、悪魔のツール。

その“自己チュー”な意識において、自律的な生=生きること自体
による(自己存在の本質に根差した)喜びが失われるだけでなく、
意識の希薄さ(非自覚的生存)によっても精神的充足量は減じ、
また自己チューな意識において死は絶対的な敗北となり、人生は
必ず敗北に尽きるものになってしまう。
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この回答へのお礼

興味深い説をありがとうございます。

お礼日時:2010/04/15 16:18

他者に諭される人生より~自分が決める生き方のが楽しいからでは?

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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/04/15 16:19

例えば、


まつざきまことさんがけっしておおぎりに参加せずにざぶとんはこびをする姿勢、
または、おかもとのぶとさんが永遠の丁稚を貫くという姿勢、
そして、ふじやまかんびさんの大衆喜劇に涙をするという

終身雇用制の担保のもとでその文化は可能だったという物理的な根拠を忘れてしまい、そういう日本の精神文化を利用して、やってみようと試みてはみたけど、そういう強欲ないいとこどりはミスマッチでしたというただの結果論です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/04/15 16:18

君子、周して比せず。

小人比して周せず。というものいいもあります。

比較的前近代的な儒教でも、貧相な人間観よりましであるという意見に賛成です。

経済と新聞の関係が、その原因です。人間観がモトです。

人間とは何かということの答えが、

「格好をつけることである」というのが、この人たちの唯物論です。

I新自由主義者
うじむしは、「みんな」自己チュウだと主張します。

自分は自己中なのだからしょうがないといいます。

お金を稼いで独り占めします。

うじむしを最高のムシだと信じています。

IIメディア
たまごは、

「自分以外」は、みんな自己チュウだと主張します。

社会はその全てが、うじ虫であるといいます。

自己チュウは、不幸であると主張します。

不幸な自己チュウを許すべきであるいうとんでもない理論を持ち出します。

結果的に自己チュウを擁護し、目の前に金を積まれて、羽化します。脱税もします。

共通点は、両者が社会にタかる寄生虫であるということです。

寄生虫がはびこる為には、それを受容する環境が、必要条件です。

寄生虫を許す、狂った平等主義=管理体制が、原因です。折衷コンビネーションプランです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
1行空けは読みにくいです。

お礼日時:2010/04/15 16:18

 こんにちは。



 長い引用から入ります。
 ▲ (江上波夫:遊牧民と農耕民とについて) ~~~~~~~~~
 牧畜・騎馬民族の特徴は 自分たち人間は労働するものではないという考え方です。働くのは牛馬や農耕民の仕事でね。自分たちはその上に立って支配する。軍事を司り 学問し 政治をする。
 牛馬と言えば もともと彼らはたいへんな発見をしている。羊 山羊 牛と馬 これだけ飼って世界を横行することを考えた。何もない所へ行っても これだけで全部間に合う。食べる方は乳と乳製品で十分 毛と毛皮で 服も夜具もテントもできる。それ自身が生きた缶詰です。
 鞭ひとつで草のある所 水のある所へかついでいってくれ かってに子供も産んでくれる。あとは寝ていればみんな事足りる。人間よりよっぽど頭がいいですよ。

   * もう少し引用してみます。近代以降の経済社会にまで触れるよう
  になります。

 彼らはやがて牛馬の代わりに機械を働かせるようになる。あるいは植民地の人々を働かせる。それが帝国主義となり 産業革命となり いわゆる近代文明を生んだ。いっぽう農耕民族は人間は労働するものだという考え方なんですね。ここのところが牧畜・騎馬民族との大きな違いです。

 農耕民族からみれば 牧畜・騎馬民族には文化がない 彼らは野蛮人だというのですが 文化の型が違うのです。牧畜民は個人主義で 自由で 民主的です。文化は農耕民族の創出したものを摂取すればよい と考えている。実際にいろいろな文明を融合して普遍性のある世界的な文明をつくってきたのは農耕民族ぢゃなく 牧畜民なんです。ヨーロッパでは 地中海世界ではなくてゲルマンが牧民なのです。そういう意味で 世界史における牧民の役割を明らかにするのが私のテーマになっちゃったんです。
  (江上波夫(著者代表):天城シンポジウム 日本人とは何か――民族の起源を求めて―― 1980 pp.16-17)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 どうなんでしょう? 遊牧民と農耕民とを比べることは この引用のみとしますが 勤勉とガリ勉とを区分して捉えてみてはどうでしょう?
 たとえば 人生を充実して生きたいと言う人 互いに自由に・しかも助け合いながら生きていきたいと言う人 こういう人は 時間を大切にします。おそらく何事にもしかるべき程度にふつうに務めを果たします。
 このとき さらにそこから――つまり 勤勉のくせやならわしから―― 《時は金なり》という方針をみちびくかどうかで分かれるのではないでしょうか? 数量化して 時間を捉える。ですから そこまで行かない場合には 時間は 相手との互いに自由な――自由に批判し合えるほどに自由な――出会いであり共有する世界となります。

 でも 時間ないし人生を貨幣価値に置きなおしてみるというガリ勉の精神の場合であっても 品物はすでに商品となっていますがその商品にかんして 原理原則としてきわめて民主的な等価交換にしたがっているということも見ておく必要があると思います。
 言いかえると問題は この経済的な――経済的に量的な価値において捉えるという互いに共通の認識に立てるような――等価交換の原則のほかに・言わばその上から いわゆる政治的な・社会力学的な力がはたらくことにあるのではないでしょうか?

 ★ なんで新自由主義のようなのが流行ったんでしょうか?
 ☆ 科学つまり特に自然科学は 自由に展開します。あたかも自己運動のごとくに――倫理からのブレーキがかかるまでは―― 一直線に発展します。それと同じように ガリ勉資本主義も 特にその民主主義的な等価交換の原則に立ったというときには そこから一面においてでしょうがもはやその《計算》における限りでとしてもやはり一直線に走り続けるのでしょうね。
 この悪貨にふつうの勤勉資本主義なる良貨が駆逐されないで済むようにするのは どうしたらいいでしょう?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/04/15 16:17

欲の無い人間はルールづくりもしない。

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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/04/15 16:17

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