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死にたくなるのはなぜ?

生きるために生きてる生物が死にたくなるなんてどうしてだろう。

A 回答 (21件中1~10件)

一言で言えば、生命力が弱いからです。

車で言えば馬力みたいなものですね。
生命力(馬力)がないから人生の苦難(坂道)に直面すると乗り越えられず死ぬことを考えてしまうのでしょう。逆に生命力(馬力)があればどんな苦難(坂道)も自ら乗り越えられる‥こういうことですね!
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この回答へのお礼

いのち猪血
うーむ。
イノシシの血でも捧げてたんだろうか。イノシシは見たことないけど力強そう。

お礼日時:2010/03/13 08:05

こんばんは。


#19の者です。

>力というとニュートンの万有引力になるのか…。

そ、それ、、、「落ちる」現象を追いかけていらっしゃいますか?
でも、落ちた先には、跳ね返り係数とか、ありません?笑

以前のご質問への回答に補足ですが、
私は学習院生じゃありませんでした、あのピラミッド教室が見える大学でしたが。
で、神道なら国学院かなあ?と思います。
国学院は神主の専攻があります。元々神職者養成機関との事。

国家神道はそれこそ新興宗教の範疇と思います。
日本古来のアニミズムこそ、多くの日本人の精神性の根っこと思いますし、それこそが神道ではないか、と考えております。

かの神主先生がおっしゃるには、「国譲り」等という無欲な?神話がある宗教は神道以外にあるのかなあ、との事です。
ひたすらに寛容受容の風土ゆえ、あまりに他の宗教信仰が入り込む余地があり過ぎて、生活にしみこんだ習慣が実は神道のしきたり・信仰であることを失念しているひとが多いとの事。
何だか素敵な国に生まれたなあ、私、と思います。^^

確固たる知識があっての大口ではありません事、ご容赦ください。
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この回答へのお礼

大和朝廷の神道と縄文時代では間がありすぎると思うんですよ。

土偶も神道なんですかね

お礼日時:2010/03/13 07:57

お邪魔します。


先日も駄文を失礼させてしまった気が致しますが。。。

死にたくなるのは、、、、
個々人様々な理由や原因から、生命力が枯渇している状態になると、
「死」が現実として身近になります。
生命力に満ちて元気な時は、生と死の間の溝はとてつもなく深く、溝の向こうが理解不可能故の恐怖に満ちて感じられます。

生命力が枯渇すると、境の溝は浅く狭くなって行きます。
それこそ、足を一跨ぎで超えられそうに、
手を伸ばせば対岸の感触も知ることが出来ます。
(出来る気がしているだけかも?)

死にたくなるも何も、目の前に道があったら、歩もうと試みるのが生き物の性。
生と死が地続きになってしまっても、変わらず進もうとする。
残り少ない生命力の、生命の慣性で。

私が私の我が侭な経験から考えた私見です。
多分に自己保身が入っている可能性もあり?苦笑
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この回答へのお礼

生命の力。力というとニュートンの万有引力になるのか…。

お礼日時:2010/03/11 21:32

 No.3です。



 社会的身分はあるのですけれど――つまり 生まれて来ているというだけで 誰にでもあるのですが―― 確かにひと(他人)は それを認めないようにする場合があります。
 きわめてせつなくわびしいです。
 
 そこにいるということだけでも認めてくれと言いたくなります。
 ため息をつきます。嘆き(=長息)を何度繰り返しても らちが開きません。

 たぶん何ものかにあなたは出会うものと思います。

 それはわたしには分かりませんから措いておいて 分かることは 古来日本人は わびしい状態に落ち入ったなら さらにこのわびしさを究めて行ったようです。こころが凍る思いになります。
 身も心も錆びついてしまったそのあと どういうわけかこの世界の見方をあたかも転換して わび・さびの境地に入ったとさということのようです。
 これが 空観です。この転換が 空観です。《霊は生かす》のさとりです。経験者は語るですから まちがいない。と思う。
 でも突き放したほうが ちからが出るのかなぁ。
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社会的身分=幸せ ではないよ


社会の与える2次的目標に惑わされないように。
本当に大事なのは生を充実させること

イエスキリストや仏陀には社会的身分なんて必要なかった
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脳の目標が苦難の回避や逃避であるから。


そのもっとも簡単な方法は自分(または世界)を消してしまえばいい。

>生きるために生きてる生物が死にたくなるなんてどうしてだろう。
人間の脳は2次的な目標のために1次的目標を見失う馬鹿な生き物だから
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この回答へのお礼

もう限界です。
つらい
社会的身分が必要だったのに…

お礼日時:2010/03/11 03:50

それは「人間」だからです。

人間以外には死にたくなると言う話は聞いた事はありません。その事を追求して来たものが宗教の歴史となっています。

キリスト教でも天国は幼子が一番近い存在と言っています。仏教でも赤子のような心で、と言っています。その反対が天国からの追放です。それは失楽園と言う言葉で言い表せられています。

その訳を書いてみます。子供や幼子は未だ脳が発達していません。左脳も右脳も機能分化が進んでいないという意味になります。処が思春期頃から、ほぼ大人の脳になってきます。つまり脳の機能分化が完成に近くなると言う事です。

最近、言う所の「中二病」という事が言われる頃です。脳の機能が分化した事によって、心が言い争いを始めるという意味になります。早い話が「心に矛盾を感じる」と言う現象が出てきます。それは脳の完成と時を同じにしています。

この事を知恵が付いたと言っています。言い方を替えたなら「神の座を狙っている」という言い方でもいいと思います。思春期頃から人間には悩みや、精神疾患や、神経症が始まる場合があります。或いは自律神経失調症や心身症の原因ともなっています。それは「生きる事に対する恐れや、死に対する恐れ」がその根本をなしている場合が多いと言う意味になります。

つまり心の矛盾の正体とは、永遠に対する憧れと、有限に対する諦めが、無意識的に影響を及ぼしているからです。自我意識の機能は分別する事が可能な機能となっています。分別できる事は有限という事にして有ります。割り切れることは有限という事になります。つまり自我意識には永遠は理解出来ないように仕組みが出来ているからです。

それに対してもう一つの意識「無意識界や、潜在意識界を統率をしていて、自我意識と交代制を取っている意識(仏性)」はもう既に永遠で出来ています。この二つの意識の矛盾を人間は「漠然とした不安、或いは罪悪感」として感じています。この自我意識に感じるこの感じこそが、「識られざる神」からの情報と言えます。

この感じをお釈迦様は「一切皆苦」として受け取って苦しみの果てに、悟りを開く事で「涅槃」という、究極の心の癒し「絶対の安心」と言う所に到達しました。この一切皆苦という心の状態を「妄想と言います。自我意識が、もう一つの意識に圧迫を受けている状態です。本当はもう一つの意識からの救いの手、という事を、分からないで嫌ってしまう事になっています。

人間の心は自我意識のみで成り立っているわけでは有りません。健常者という人達は、絶えず自我意識ともう一つの意識「無意識の意識」と替わりばんこに、出るタイミングを計っています。心を患うという事は、この交代がスムーズに行かなくなったと言う意味になります。無意識の意識に交代する事を、拒んだ状態の事です。

無意識が交代してもらいたいと言う情報が「症状」という事になります。或いは「生き難さ」という事になります。その情報を送る相手と交信できた時が「見性した時」という事になります。つまり悟りを開いた時の事です。キリスト教的に言うならば「神に会って和解した時」と言う事です。

この経験で又、心は一つになります。二つになって矛盾と対立を起こしていた心同士が、幼子や、赤子の心を取り戻すと言う事です。心が限り無く静かになると言う状態の事です。

生きるために生きてる生物が死にたくなるなんてどうしてだろう。と言う状態とは自我意識が、もう一つの意識の「生きる」と言う情報を誤って受け取ってしまい、自我意識のみの、有限と言う牢獄しか見えていない状態を、全てと勘違いしているのかも知れません。自分の否定する方の意見にしか耳を傾けていない状態とも言えます。

つまり自分自身の肯定的な意思を無視して、否定的な意思のみしか見えていない状態かもしれません。心が二つ在る人間の故の苦しみとも言えます。苦しみの後に本当の安心があります。それゆえに「苦しみにも意味がある」と言う風にV.Eフランクルは著書の中で何回も述べています。
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>死にたくなるのはなぜ?


世界の中に生きていると勘違いしているから。

>生きるために生きてる生物が死にたくなるなんてどうしてだろう。
そこがボタンのかけ違え。
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>巨大人型兵器という圧倒的力をもってる人と法律に縛られている人は違いますよ



この物語は、<人の内面>を描いたものです。


シンジは、トラウマがあり、人から捨てられる ということをすごく<恐れて>いるんです。
それで、今まで人の命令通りのことをすることで、人から捨てられる、という恐怖から逃れてきたんです。

彼を捨てた父親に必要だと呼び出されたのですが、会うなり「死ね」といわんばかりな要求をされた。
ひどいと思ったが、大怪我をしたレイがそれでも命令に従おうとするのをみて、「自分がやります」と言ったわけです。
これはレイを助けるためなどではなく、死を選んだんじゃないかと。

シンジはたちまち倒されました。
彼が望んでいた死が目の前で、本望だったのですが、他人(エヴァと母親)は生きていたいわけですから、沈黙したシンジに代わり生きたいという意思で使徒を倒してしまいました。

ああ、、、望み叶わず。
シンジは他人がまた余計なことを、とは思っていない。
なぜなら他人の存在にまだ気づいていないから。


で、何度か試練が訪れるが「逃げちゃだめだ 逃げちゃだめだ」と自分を奮い立たせてきたが、とうとう限界にきて、逃げてしまったんです。

LCスープの中に入り、出てこなくなった。

「生きたくないの? シンジくん」。
ミサトは彼がどれほどまでに死を望んでいたのか知ったわけです。

で、結局シンジはもう一度生きることを選んだので、形が戻ったわけです。

ここらは、自分の殻のこもって出てこなくなったニートが、「もう一度だけやってみよう」と、部屋から出て学校なり仕事についたりなどするようなもの。


そして、何故自分はエヴァに乗るのか、 つまり 生きるのか を自分に問うわけです。



から始まってPART8まであるので、このシンジの内面を見ながら自分の内面と比べてみてはどうでしょうか。


死にたくなるのは今を否定するからですよね。
「こんなの自分じゃない」と。
じゃあ どんなのが本当の自分なのか。 偽りの理想のものが本当の自分だとでもいうのか。
自分と和解しなきゃ。
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死にたくなるのは人間だけですね。

贅沢だからではないでしょうか。生きること以上に何かを求めるものだから、ただ生きているということの有り難味が分からなくなってしまい死も軽々しくなってしまうのでしょう。アダムとイブが禁断の善悪の知識の木の実を食べてエデンの園を追放されてしまったように、まさに求めたことが仇になる失楽園そのもの。知恵あるゆえの苦しみでしょう。
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