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なぜ上杉謙信は 関東にこだわったのでしょう?

上洛をもっと早くに目指していれば・・・・ですのに

A 回答 (7件)

謙信も単なる一介の戦国大名


義ではなく利で動いていました。
関東出兵はNo5氏の「出稼ぎ」の言葉一つで全てを表していますね。

付け加えるなら関東進出のサイクルはほとんどが冬から春にかけて
つまり出兵者達の食い扶持は他国からの収穫物で賄って
更には略奪した収穫物を越後に持って帰るという事を繰り返していました。
もう一つは地元の領民を捕え奴隷商人に売り渡し利益を得る
という一般的にあまり知られていない行為も行っていました。
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僕の考えでは、基本的に当時の大名は上洛して天下人になると


考えていなかったのだと思いますよ。
その感覚と違っていたのが織田信長で、周囲との感覚の違いが上手く
ハマってみるみる領土を広げたのだと思います。
多くの大名は足利家を中心に今川家、吉良家が天下人の家系でその人たちが将軍になるのが常識だったんではないでしょうか。

と言う様に何か流れを変えるには大義名分が必要で関東管領になったら
関東を将軍に代わり管理する大義名分を得た事になるので関東に執着した。。。。。
と言うより関東を自分の支配下に置ける大義名分があったから、ただ
そうしたのだと思いますよ。

もし、管領になっていたら近畿に執着したでしょう。

小説やドラマで上杉謙信を美化し過ぎですよ。
ただの普通の地方大名です。
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出稼ぎです。

組織をあげての食い扶持確保です。そのためには管領職はいります。名ばかりでもね。
朝廷の利用もね。そういう意味で。
また、北条の関東進出も同じ意味です。関東が狩場になったというわけです。

北条氏康がまだ老けるには早い年齢で、隠居して代を息子に譲りましたね。なぜでしょうか。
もう譲っても大丈夫なんてことではありません。自国に対して、はっきりとわかる形で隠居しました。
代わらなければならなかったわけがあったということです。そうしなければ、おさまらなかったことがあったということです。そうでもしなければ、百姓がだれもいない国になってしまうからです。百姓は領国経営のへたな領主には従いません。よその国にみんなで逃げるという、意思表示をもっています。江戸時代の百姓とは全然違います。

戦国100年は飢饉の時代ともいわれています。自然災害、餓死、天候不順最悪の側面を考えておくことです。現代もこの天候不順、台風いろいろな災害が見舞いますが、政府はそのつど、対策を打ちますが、失敗しますと、当然、時の首相は責任を取って、代わりますでしょ。それと同じことが、あったといことです。
あたりまえのように、当然ですよね。

つまり、謙信の国も同じなんですよ、国の苦難に対してどう対処するかなんですよ。
食い物がないなら、よそのものを盗む、組織だってね、軍として。

関東に同じような理由で北条が来る、それに対処できない国は、謙信に助けを求める。

関東にこだわったのは人助けを大儀名分にして、口減らし政策を正当化する。
越後の兵にとって謙信は名君なんです。みんなこの人についていけば餓死しないとおもっていたはずです。
氏康はそれができなかった。代を変えることで責任をとったということです。

あの川中島の激戦の年も、関東で年を越して、春遅く帰還して、すぐに妻女山に陣取りましたが、
その後ろには、信濃の米が黄金色に輝いていたんですよ。それを略奪して、夜陰に帰還の際の遭遇で乱戦となったということだとおもいます。
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上洛なんて考えていないから。


だって、バリバリの室町幕府の人間ですから、与えられた役割をいかにやるかしか考えていません。
そもそも下克上とか言って、戦国時代というから皆がみんな覇権を争ったなんて考えをしがちですが、
日本をまとめてやろうなんて考えたのはほぼいません。
信長みたいな異端児は少数派です。
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上杉氏の下で越後の国の守護代をしていた長尾氏の出身で、


そのまま長尾氏だったらよかったのですが、
『関東管領』の【上杉憲政(うえすぎ のりまさ)】から
上杉氏の家督を譲られたために【上杉】姓を名乗り、
上杉氏が世襲する室町幕府の重職『関東管領』に任命されました。
 
『関東管領』という役職(関東統治)のため、
関東の秩序を回復しようと関東にこだわるようになったのです。
 
つまり、『関東管領』【上杉】だから。
 
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関東管領だから。


越後守護も上杉、関東管領も上杉で、ややこしいですが、謙信は兼任しています。
関東管領ですから、お仕事は関東の治安維持。
川中島は5回ですが、関東には13回。

謙信にとっての上洛は、鎌倉です。
ちゃんと鎌倉まで大軍率いて入城し、正々堂々と関東管領職に付きます。
その後は、死ぬまで関東管領の職をちゃんと果たしています。

「信長に殺されそうだ、助けてくれ」って天皇に依頼されたのは、死の3年位前です。それまでは、京は越後上布を輸出する大切なお客様です。

お客様の所で戦争なんかしては、お客様に迷惑ですし、貿易による関税ががた落ちです。

でも、天皇が助けてくれっていうんじゃ仕方ないかってことで、上洛を決意しますが、残念なことに決行当日に死を迎えてしまいます。

戦国大名はみな上洛をめざしたというのは、シュミレーションゲームや映画でのテーマにすぎません。

日本は、東国(関東)と西国(関西)は、別だと考えたほうがいいでしょう。違いは今も残ってますよね。

将軍でごたごたもめていても、西国のことですし、勢力を伸ばしている信長も、謙信には恭順の意を示していましたから、なにより、東国には進出してきませんから、成敗する必要はありません。
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上杉だから

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