アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

卑弥呼様について・・・
質問なんですが、卑弥呼様はなんで日本「倭」にある邪馬台国の女王だったのに中国での古い本に書かれていたんでしょうか?
出来れば、なるべくわかりやすくお願いします。

A 回答 (5件)

 なぜ、中国の史書に載っていたのかというと、他の方が書かれた様に卑弥呼が魏に朝貢したからです。



 ちなみになぜ遠方の小国である倭の朝貢をわざわざ史書に書き記したかというと、当時の中国では朝貢は皇帝の徳を慕って周辺国が行う物だとされましたから、遠方の国が多大な労力を費やして訪れる事や沢山の国々から朝貢を受ける君主は、立派で優秀な君主(皇帝)だとされたからです。
 (転じて皇帝に就いている事の正統性を担保する事に繋がりました。)
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E8%B2%A2


 遠方からの朝貢を誇らしげに書いている部分だと、後漢書には下記の様な記述が有ったりします。
 (なお大秦国とはローマ帝国を指し、安敦とはローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス(位161年~180年)、またはその先代皇帝であるアントニヌス・ピウス(位138年~ 161年)の「アントニヌス」の音を写したものと考えられています。)

  「桓帝の延憙九年(166年)に大秦国王の安敦(アントン)が遣わした使者が日南郡に訪れて象牙・犀角・玳瑁を献上した」

 
 また、卑弥呼が朝貢した時は、まだ呉が存続しており、そして呉は当時、海洋を通じて他国(現在のベトナムなどの国)との関係を広げようとしていました。

 魏は海上航行を得意としていませんでしたから、呉のそういった行為を指を咥えて見ているしかなかった矢先に、その呉でなく魏に卑弥呼が朝貢(遠方の小国ですら「呉より魏の方が正当性がある」と認識していると自身の正当性を補強できる恰好の事象だった)したので過分に歓迎され史書にも載った訳です。
    • good
    • 0

当時の日本は、まだ文字も歴史を書き記す文化も持っていなかったので、国内に記録が残っていないのです。


その頃の日本は邪馬台国と同程度の小国が乱立してたと考えられますが、魏に朝貢した卑弥呼のことが「たまたま」記録されたので、今日までその名が残ったにすぎません。
おそらく同じような権力を持った王や女王が他にもいたのじゃないでしょうか?
    • good
    • 0

三国志の時代、日本でも戦乱で、ムラからクニへ


そして邪馬台国が古代日本の中の大国となり、
女王卑弥呼は、大陸の覇者たらんとしていた
魏に朝貢し、中華の国際秩序の中で邪馬台国の地位を確立しようとしていました。
当時の中国は劉備も曹操も孔明も、既に没し孫権のみ呉で帝位にありました。
貢物を携えた邪馬台国の使者は、帯方郡に赴き、曹操の孫・明帝曹叡からの返礼である
「「親魏倭王」の金印と銅鏡100枚を持ち帰りました。
このことは、三国志の魏志東夷伝倭人条に記されています。
    • good
    • 0

当時の中国にやってきた倭人の話を聞き、まとめた文献が残っています。

    • good
    • 0

海外紀行文に紹介されていたと言うことです。

    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!