プロが教えるわが家の防犯対策術!

プロテスタント系の教会に通い始めて約5年になり,聖書を初め,キリスト教関連の本は結構読んでいますが,キリスト教の教義というか,根本原理(精神)等が未だに理解出来ません。取り敢えず下記の疑問点に付いて教えて下さい。*キリスト教で云う贖罪(罪を贖う)と罪を償うとの基本的な違い。*又イエスは十字架で処刑される事により人類の罪(原罪)を贖ったと云われていますが,この場合の人類とはクリスチャン以外の人(例えば仏教徒・イスラム教徒等)も含まれるのか。*前に述べた「原罪」はキリスト教徒以外の者にも有るのか*「贖罪論」・「原罪」等は聖書のどこに記述されているのか。以上宜しくお願いします。

A 回答 (6件)

少し前の質問のようですので未だに回答受付してるのかどうか


不安ですが、簡単に根本的なことだけ意見します。
特に貴兄がプロテスタント教会に通っていたということなので
あえて言いますが、

罪や贖罪の意味がすぐには理解できなくて当たり前なのです。

犯罪を犯したわけでもないものに対して「悔い改めよ」
と言い歩く者に対する(とくにユダヤ教徒からの)反感やあざけりの中から発展していった
ところにキリスト教の特異性と複雑さがあります。しかし、この反応、(つまり
「罪とは何のことなのかわからない」という)は普通だと思います。

「ではお前は知っているのか、説明しろ」と言われるとそれだけの専門教養も
ありませんが。


「キリスト教の根本原理(精神)がわからない」とおっしゃいます。そしてこの「罪の概念」がそれである
と前提したうえでの質問と思われますが、私はキリスト教の根本原理(精神)が「罪の概念」とも言えないと思います。
これは個人の信念を重んじるプロテスタントの精神にもとるものではありません。
イエスは「互いに愛し合いなさい」
と言ってから十字架に上りました。また「これはお前たちのため」とは言っても「お前たちの罪のためだ」とは
言いませんでした。

罪の概念にむやみにこだわって、それが教会活動の妨げになるのであれば害があるだけです。

貴兄は教会に行って礼拝するとき、友人と会うとき、食事を共にするとき、聖書を読むときに喜び
を感じますか?それがあるなら貴兄はりっぱなキリスト者です。それがないなら「罪の概念」の
ことなどさっさと忘れるほうが時間の無駄にならずに良いと思います
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先程、救われた兄弟を呼び、貴方の質問と私の返事、そして貴方の回答を読ませました。

                                                                                                       全てを答えたのに、貴方が気づいて無いと言われました。もっとじっくり読んでから質問して下さい。                                                                                                       イエス キリストは世の全ての罪を取り除いて下さいました。それにも関わらず、罪を許して下さいと祈るならば、彼は異端です。キリスト人だと言いながらもこのような人が沢山います。世の全ての罪には世の全ての人の罪が含まれます。                                                                                                   贖い、贖罪は旧約の用語です。贖罪は出エジプト記、レビ記に多く書かれている、旧約の用語です。                                                                                                                                        新約では罪を隠すのではなく、取り除きました。必ず死を持って償わなければならない罪を旧約では贖罪羊の血を塗り覆いましたが、新約ではイエス キリストの血によって完璧に取り除いて下さいました。 もし、イエス キリストの血が罪を贖う(罪を覆う)ことに過ぎないならば、イエス キリストは旧約の祭物である動物に過ぎないことになってしまいます。                                                                                                                                               聖経は聖霊によって書かれた経典という意味で、私はこの表現が良いと思って使います。                                                                                                 もし、イエス キリストについて全然聞いた事も無い人がいるなら、その人の良心が彼には律法になり、それによって彼は裁かれます。例えば、人を憎むのは悪いと彼が判断したならば、もし彼が人を憎むと罪を犯したことになり、裁かれます、ローマ署2:14~15。
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この回答へのお礼

貴方が「救われた兄弟」(私にとっては全く意味不明ですが)に回答を読ませた事にヒントを得て,私も昨日「聖霊」を呼び出し,今回の貴方との質疑応答に関してコメントをしてもらいました。「聖霊」からの答えは以下の通りでした。「私にとっても回答者の答えはチンプンカンプンで全く理解出来ない。聖書は所詮神話・作り話の世界であり,余り真剣に考える必要はない」との事でした。これを聞いて私もすっきりしました。今後は「贖罪」・「原罪」等で悩む事は無いと思いますので,これ以上の回答は結構です。色々お手数掛けて有り難うございました。尚回答は不要ですが,最後の「ローマ署」は「ローマ書」(ローマの信徒への手紙」の事ですか。

お礼日時:2010/08/03 09:08

{1}償う:犯した罪の代価を払う。

罪を犯した人は必ず死を持って支払わなければなりません(ローマ書6:23罪の補償は死である)。                                                                                                      {2}贖う:罪を覆うという意味を持つ。楽園、即ち三番目の空の模型として造られた聖幕の中には祭壇があり、その祭壇の四隅には角があります。その角には人々が犯した罪が書かれます。そこに小羊の血を塗って罪を隠しました(出エジプト27:2、エレミヤ17:1)。                                                                                                     {3}贖罪:罪を隠すこと。旧約では主に小羊が犠牲の祭物として使われました。                                                                                                          {4}救贖:代価を支払って救い出す(ローマ書3:24キリスト イエスの中にある救贖を通じ、彼の恩恵によって、値無しに義があるようになりました)。旧約での祭物は犯した罪を覆い隠しましたが、主イエス キリストの血は私達の罪を完璧に取り除いて下さいました(ヨハネ福音1:29見よ、世の罪を取り除く神様の小羊だ)。旧約で予表として捧げられた子羊が、新約ではイエス キリストが実際に小羊としてこの世に来られ、十字架に掛けられ、世の全ての罪を無くしました。だから、ヨハネ福音19:30で「全てを成し遂げた」と言われたのです。この事実を信じる人は救贖、即ち救われた人です。しかし、これを信じない全ての人は地獄に行きます。何故なら、私たちは神様の似姿を失ったアダムに似ているからです(創世記5:3)。原罪は聖書の用語ではありません。                                                                                                                                             {5}旧約はイスラエルの人々へ書かれた神様の御言葉です。新約は救われた人々へ書かれた神様の御言葉です。神様の似姿を失った全ての人々は聖経を読んでもその意味を分かる事が出来ません。聖経は聖霊の字であり、アダムから生まれた全ての人々は霊が死んでいるからです。聖経には霊的な神様の国について書かれてあります。神様の国を知る為には死んでいる霊が生まれ変わらなければなりません。だから、イエス キリストが(真に真に私が貴方に言いますが、人が生まれ変わらなければ神様の国を見る事が出来ません。ヨハネ福音3:3)と言われたのです。本屋で救われた人が書いた書物を見たことがありません。救われた牧師も見たことがありません。このサイトで救われた人を見たことがありません。ただ、質問としての貴方の求めは立派です。聖経からの根拠を求めているからです。何故なら、神様の国は聖経の中にあるからです。
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この回答へのお礼

大変懇切丁寧な回答有り難うございました。「大変参考になりました」と言いたいところですが,私のようなノン・クリスチャンには中々理解しがたいのと,私の質問(罪を償うと罪を贖うとの基本的な違い/贖罪はキリスト教徒以外にも適用されるのか/贖罪・原罪の聖書の出典箇所)への直接の回答になっていないのが残念です。最初の質問でも述べましたが,小生が5年間も通った教会から自然に足が遠のいたのも信徒や牧師に上記のような質問をしても誰一人として小生が納得出来る様な答えがかえってこなかった事と質問に関係のない事を長々と説明する事に嫌気がさしたからです。良く言われる事ですが,賢い人は
難しい話を易しく説明し,賢くない人は易しい話を無理に難しくして話すと言われますが,私の5年間の教会生活は極論すれば「賢くない人」との付き合いでした。もっとも宗教とは理論で理解するものではなく,一種の観念論のようなものですからやむを得ないとは思いますが。さて前置きが長くなりましたが,貴方の回答に関して若干追加質問をさせて下さい。*贖罪=罪を隠すこと及び旧約の例が引かれていますが,小生の理解では贖罪とはイエスが十字架で殺された事により人類の罪を贖った(勿論罪を贖う事の具体的な内容は判りませんが)のであり,罪を隠すの意味が理解しかねます。又ユダヤ教(旧約)の教義にはイエスによる贖罪の概念は無いと思っていましたが如何でしょうか。*「イエスが十字架で殺され,全ての罪を無くした」事を信じる者は救われ,信じない者は地獄へ落ちるとの事ですが,この地獄へ落ちるのはクリスチャンだけなのか又はた多神教徒,ユダヤ教徒,イスラム教徒等も含まれるのでしょうか。何故なら一般的に言ってキリスト教徒以外の者は聖書を読まなければ(あるいは教会で学ばなければ)イエスの十字架による贖罪等知る由も無い筈ですから信じる/信じない等全く無関係と思いますが。*「聖経」という言葉は初めてですが,教会等で使う専門用語なのかどうか教えて下さい。*贖罪に関しての聖書(新約)の出典を教えて下さい。更にイエスの「贖罪」・「原罪」に付いての言葉が有ればどこに出ているのかも合わせて回答願います。

お礼日時:2010/07/30 17:41

まあ言いたいことわかります。

しかし説明して理解できるものじゃないと思いますよ~
信じていく中で理解していくんだと思います。
もちろん理解したいならネットで検索すれば済む事
多分書いても納得できないとおもいますよ。

信仰というのは頭で理解じゃなく感じるものでしょう。

>この場合の人類とはクリスチャン以外の人(例えば仏教徒・イスラム教徒等)も含まれるのか

はいすべての人です。神様の目から見ればクリスチャン 仏教と関係なく信じる者は救われます



贖罪に関して
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question …

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question …

過去の質問をご覧ください 理解できるでしょうか?
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この回答へのお礼

どうも質問と回答がかみ合わないようですね。「理解するためにネットで検索すれば済む」との事ですが,全てがネットで済むなら教会も牧師(神父)もいらなくなります。小生は理解出来ない人(迷える子羊)を導くのが教会乃至牧師の役割だと理解していますが,如何でしょうか。「信仰は頭で理解するものではない」との事ですが,小生もまったく同感です。しかし小生の質問の「贖罪・原罪の聖書の出典は」は単なる事実の確認であって,信仰とは全く関係ないと思いますが。

お礼日時:2010/07/22 11:39

あなたの問いに直接答えるわけではありませんが、キリスト教の根本がわかれば多少理解の助けになるかと思いアドバイスします。



聖書を読むと、イエスが、自分自身を「神」と考えている箇所がたくさんかかれています。
ここは非常に大切なところなので、ぜひともいろいろな文献をあたって、確認してください。

キリスト教で一番大切なところはここです。
イエスを「神」と信じない人はキリスト教徒と言えないのです。
これはC.S.ルイスが自身の著書「キリスト教の精髄」の中で述べているとおりです。


………………………………………………………………………………………………………
「わたしがこんなことを申し上げるのは、だれにせよ、
キリストについてばかげたことを言うのはやめてもらいたいからである。
ばかげたこととは、ほかでもない、世間の人びとがよく口にする次のセリフである、

「わたしはイエスを偉大な道徳的教師としてなら、よろこんで受け入れるが、
自分は神だという彼の主張を受け入れるわけにはいかない」。

こういうことだけは言ってはならないのだ。
単なる人間にすぎない者が、イエスが言ったようなことを言ったとしたら、
そんな者は偉大な道徳的教師どころではない。
彼は・・・「俺はうで卵だ」といってきかない男と同類・・・か──
さもなければ、地獄の悪魔か、そのいずれかであろう。

 ここであなたがたは、どっちを取るか決断しなければならない。
この男は神の子であったし、今もそうだ、と考えるか、
さもなければ、狂人もしくはもっと悪質なもの、と考えるか。
・・・
そのどちらを選ぶかは、あなたがたの自由である。
しかし、彼を偉大な教師たる人間などと考えるおためごかしのナンセンスだけはやめようではないか。
彼は、そんなふうに考える自由をわれわれに与えてはいないのだ。
そんな考え方は、もともと彼の意図には含まれていなかったのである。
………………………………………………………………………………………………………………

その上で十字架の贖罪について、考えると、
彼は、自分自身が神であること、そのことを信じる人を永遠に救うこと、そして、自分自身に倣って
生き、このように死になさいと人間に見せるために、人間の姿になって十字架につけられたのです。
つまり、イエスが十字架につけられただけで、自動的に万人の原罪が消滅するわけではありません。

キリスト教の罪の許しとは、基本的に「神様、私はあなたに対して罪を犯しました。どうか許してください」と許しを心の底から求めた人にだけ下されるものです。

誤解してはいけません。神は、すべての人の罪を許したいのです。
だが、「私は罪を許します」という神に対し「俺はあんたに対して罪を犯してなんかいない」という人を神はどうやったら許せるのでしょうか?
親が、家の金を持ち逃げして逃げた放蕩息子に対して、「お前の罪を許すからかえっておいで」といったところで、「俺は罪なんか犯していないから、帰らない」といわれたら親はただ当惑するだけでどうにもできないでしょう。それと同じことです。

このようなことは、聖書だけを読んでいるとなかなか理解が難しいと思います。
私は、C.S.ルイスの「キリスト教の精髄」をお勧めします。
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この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございました。私の質問以外の点では,大変参考になりました。実は直接回答へのコメントをしようと思いましたが,私の質問に対して別の方が回答をくれましたので,そちらの方へコメントを出しました。同じような回答だったので,私のコメント(意見)を参考にしていただければ幸いです。

お礼日時:2010/07/21 14:47

読んでいて何か感じませんか?頭で理解しないでね。


もうすごく簡単な話しです
ヨハネ3:16この言葉がすべてを表わしてます。
信仰というのはそんな難しい話ではなく
イエスに触れさえばいいのです。

心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。
この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。」
(ヤコブ1:21)

「受け入れる」というのは、差し出されたものを自分の手で受けとめると言うことです。
この差し出されたものこそ、罪の赦しの福音です。
 聖書の中には様々な規則のようなものが記されています。
それはまさにダメなものはダメというものですが、
それを深く考えれば考えるほど守ることができません。
それが自分の力では拭うことのできない罪です。
 聖書には過越祭というものが紹介されています。
自分の罪を自覚したら年に一度のこの祭りにおいて身代わりとして
羊の血を流すことによって罪赦されました。
損来なら羊ではなく、罪を犯した者自身を差し出さないといけません。
しかし、それでおしまいになってしまいます。
そこで身代わりとしてイエス・キリストが十字架にかかってくださいました。
その身代わりと赦しのしるしである十字架を教会は高く掲げています。


http://egota.web.fc2.com/mikotoba080420.htmlから
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この回答へのお礼

小生の愚問に早速回答して頂き,感謝しています。回答に対して若干コメントさせて頂きます。実は過去5年間近く殆ど毎週日曜日には教会に顔を出し,牧師を初め(プロテスタント系の教会)信者との交流を通してキリスト教を理解しようと努力してきましたし,聖書その他キリスト教関連の書物も多く読みましたが,小生の疑問・質問(贖罪と償いとの違い/原罪の範囲/贖罪・原罪の出典等)に関しては誰も私が理解出来る様には答えてくれません。牧師の中には「--さん,もっと聖書を勉強すれば,そのうち理解出来る様になる」等と訳のわからない答えで誤魔化す(?)牧師もおり,正直言って,失望というか,この程度の牧師が毎週説教しているのかとがっかりして,自然に教会から足が遠のいてしまいました。上記の牧師の答えは例えれば,もし中学生がある数学(聖書)の質問を教師(牧師又は神父)にしたら,「--君(さん)もっと勉強すればそのうち理解出来る様になる」と云うのと全く同じであり,教師の資格は無いに等しいと思いますが,如何でしょうか。確かに信仰とは頭で理解するものでは無い事ぐらい私も理解している積りですが,信じる為の補助としての或る程度の理解(疑問・懐疑)は必要と考えます。
女流作家であり,敬虔なクリスチャン(カトリック)でもあった田中澄江はかって「懐疑を持たない信仰は飼い主にただ尻尾を振って付いて行く犬コロに過ぎない」と云っていますし,フランスの作家ジュリアン・グリーンも「宗教とは1%の信仰と99%の疑問(懐疑)から成り立つ」と云っています。確かに中世の偉大な神学者アンセルムスが云ったとされている「理解せんが為に,私は先ず信じる」も一理あると思いますが,私は「信じんが為に,先ず理解する」方を選びます。更にあなたの(回答の文章からだけでは男性か女性か,クリスチャンかどうかも判断出来かねるので単に「あなた」としました)回答も私にとって質問以外の点では大変参考になりましたが,肝腎の質問には全く触れていないのが残念です。今回の質問以外にも当てはまる事ですが,ある質問に答える場合には先ず,或る程度質問に答えてから(回答が判らなければ別ですが)自分の意見(見解)を述べるのが筋だと思いますが。長々としたコメントになってしまいましたが,要は小生の質問(贖罪/原罪等)はキリスト教の教義の基本中の基本であると理解していますが如何でしょうか。

お礼日時:2010/07/21 14:36

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