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言葉がなければ人間は考えることが出来ないのか

質問よろしくお願いします。人間は何か物を考えるときそれを頭の中で言葉に置き換えてますよね?
例えば明日どうしようかなって思ってるときは実際頭の中で「明日どうしようかな」と無言のうちに言葉に置き換えてるはずです。
よくバイリンガルの方は物を考えるとき何語で考えるんだろう?と不思議に思うのですが、これについてはいろいろ聞いたところ、その言葉を使っているときにはその言葉で考える人もいれば、母国語で考えるという人もいました。
つまりこれは、私たちが日本語で物を考えるのはただ単に私たちが日本人だからだと言えますね。
これを生物学的な見地からお聞きしたいのですが、人間の脳みその”思考能力”というのは言語の習得に依存しているのですか?
脳が優秀な性能を備えていることは複雑な文法を持つ言葉を理解できる点で明らかですが、優秀な脳があるから言葉が理解できるのか? それとも言葉を理解してそれを使わなければ考えられないから脳が発達したのか?

例えば親に捨てられて狼に育てられた少女の話がありますが、彼女は喋れませんが狼とは吠えあってコミュニケーションを取っていたようです。
これは言葉を理解できなければ人間は獣と区別できない存在である、人間の知能の正体は言葉である、ということですか?

人間の言葉の中にも英語や日本語いろいろあります。SVOだったりSOV、アラビア語はVSOです。もし上で言ったことに基づけば、使用する言語の種類によって人の性格そのものに差異が生まれることになります。驚いたことにこの考えはサピア・ウォーフの仮説といって、初めて見た時は私と同じ考えを持ってる人がいたんだと思いました。
全く言葉を持たない人間に「何か考えろ」と命令できたと仮定して、その人はどのようにして考えることが出来るのか?もちろん感情は存在しますが、それを言葉に置き換えれるから人間には理性がある、出来ないのが動物なのでしょうか。

大変長くなってしまいましたが、ここで質問したいことは比較言語学的なことではなく、言語がなければ知能の発達もないのかどうかです。よろしくお願いします。

A 回答 (7件)

こんにちは。


人間は言葉を使わなくても考えることができます。頭の中で言葉に置き換えて行われるのは「言語思考」ですが、これはむしろ脳内で行われる思考全体のほんの一部でしかありません。

「論理的な思考」といいますのは言語によって行われるものではないです。
例えば、
「大きな物は重い」
「○と△は違う」
「原因は結果よりも先」
大きいか小さいかは見れば分かりますし、どちらが重いかは経験に基づいて必然的に判定が下されます。
「論理的な思考」といいますのは言語によって行われるのではなく、このような「原則」に従って行われることです。では、「言語思考」といいますのは言語化された情報を元に論理的な比較を行うということです。従いまして、我々の脳にこのような論理的な思考ができないならば、幾ら言語を覚えても論理的な結果を選択することはできません。つまり、言語があるから知能が発達したのではなく、知能がなければ言語は使えないということです。

「明日どうしようかな」と思ったら、例えば休日であるならば自分が買い物をしている光景が視覚情報として提供されます。これで明日が買い物と決定するならば「あれ」をやって「これ」をやってということになります。
ここでは「あれ」や「これ」といった視覚情報や記憶情報はそのまま比較対象として代用されるため、言語化される必要はほとんどありません。何故かと言いますと、このような情報が時間や空間に従って組み立てられることによって、わざわざ言語化をしなくてもそこには「文脈」が成立するからです。我々の思考といいますのはこの文脈に矛盾が発生しないように進められてゆきます。

道の向こうから山田さんが歩いて来ます。山田さんであることは視覚情報と記憶情報によって認知されます。山田さんには普段からお世話になっていますので挨拶が自然に丁寧になるのですが、これは思考というものをほとんど用いない無意識行動です。
では、「山田さんにはお世話になっているから自分は丁寧に挨拶をした」、多くのひとがそれをこのような論理的な行動だと思ってしまいますが、ほとんどの場合、これは「後から付けられた理由」であることが心理学の統計で示されています。山田さんであることは視覚認知であり、言語認知は行われていません。そして、挨拶が丁寧になったのは無意識行動なのですから、そのとき脳内で言語思考が行われたという事実はないのです。
このように、我々は日常、専ら言語思考を行っていると思いがちですが、それは脳内で行われる思考のほんの一部でしかありません。言語思考やこれによる情報伝達が我々の知性や学習にたいへん大きな役割を果たしているのは間違いないです。ですが、最初に申し上げました通り、人類にそれを使うだけの知能がなければ言語は何の役にも立たないのです。

では、これまでご説明致しました通り、果たして「理性」といいますのは言語能力と直接の関係はありません。
我々動物の行動は以下の三つに分けられます。
「本能行動(無意識行動)」
「情動行動(無意識行動)」
「理性行動(意識行動・計画行動)」
つまり、理性といいますのは本能や情動に支配されない計画行動のことです。
主人が家に帰って来ますと、飼い犬は喜んで、しかも、垣根を迂回して主人の下に駆け寄ってきます。垣根を迂回するというのは明らかな「知能行動」であり、本能や情動に任せて垣根に突進しないのが「理性」です。このように、犬くらい知能の発達した動物であるならば、そこには我々と同様に「知性」も「理性」も持ち得るというのが、現在では割と一般的な認識になっています。
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この回答へのお礼

大変詳しい回答ありがとうございます。
サピア・ウォーフの仮説を調べるにつれてとても興奮したものですが、みなさんの回答を見てそういえばそうだなと思う部分が多くありました。
調べたサイトからの一部引用ですが、
思考が言語と同一の物であり、その言語に無い物は考える事もできず、言語によって世界観が変わるのならば、その言語に無い色は認識ができないであろうと考える事ができる。
という仮定の下で、「色の違い」について色々な民族に聞いて回ったところ、名前はなくても認識は出来たということです。
視覚情報や記憶情報が時間や空間に従って組み立てられることによって、わざわざ言語化をしなくてもそこには「文脈」が成立するというのは非常に納得させられました。
いったい人間の能力はどこまでがオリジナルなのでしょうか?知性が秘める可能性というのは生物の限界
を受け付けないのでしょうか?この点について5000年前に始まった人類の文字の獲得というのをとても興味深く考えています。文字を読み書きする能力は、脳が生まれ持ってこなかった能力を人類の知性が後付けで付け加えた唯一のものなのか、とも考えたりします。今では文字は言葉と表裏一体の関係なのにどうして言語の発生から文字の獲得まで途方もない時間がかかっているのか、など。

サピア・ウォーフの仮説の面白いところは、この仮説が証明されれば人間が(人間だけが)どのように脳を発達させ言語を獲得していったのかという根源的な問いにまでさかのぼれることだと思ったのですが、もっと勉強したいと思います。

お礼日時:2010/08/01 00:18

人間が意識して思考している事項と、人間が無意識で思考している事項を分けて考える必要があると思いますが、人間が意識して思考しているものに限って言うと、概念である言葉ありきだと思います。

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生まれつき言語障害のある人や、脳の言語中枢が傷つき、言語障害に陥った人間でもある程度の論理的な思考はできますので、(暗くなったら電灯のスイッチを入れる、電灯が付かなければ故障してるか確かめる、お腹が空いたら料理をして食事し、片づけもする、など)言語は思考のツールではあっても、思考の本質ではないと思われます。



そう考えると言葉がなくてもそれ相応の知能の発達もありえるのではないかと思います。
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「言語」を「音声」ととらえると、ヘレン・ケラーはじめ生まれたときから視力・聴力の無い方の思考能力は視力・聴力が一度でもあった方に比べおとっているか?という問題になります。


実際にはそんな事はありません。
いわばメタ言語というべきものがあってそれが音楽なども含む「概念」の因果律や論理の思考を支えているものだと考えるのが妥当です。
聴力障害があり視力が普通の方は頭の中で「文字」で考えているか?という問題は興味があるので、筑波技術大学などの公的機関の研究者のご意見を伺ってみたいところです。
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アマラとカマラは空想上の人物だけど、ヘレンケラーは実在の人物ですね。


ヘレンケラーの知性もやはり言語に依存していると思いますよ。

一方、言語ではない考える能力もあると思いますね。

交響曲の指揮者は100名を超える大編成の交響楽団を指揮していて、そのうちの一人がちょっと間違えると分かるんですよね。そして、今度はこうして、ああして、と指示する。これは言語能力以外の”考える能力”に裏付けられていませんかね。

あるいは、プロの将棋指しは自分の将棋をいつでも再現できるといいますね。
かれらは考えながら将棋をさしているから再現できるらしいけど、この時、言語つかって考えているわけじゃない。

こういう能力は言語能力ではないけれど、知性であることは間違えないな。
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思考は、思考の外部化と内部化、外部に言語として出すことと内部に思うことが並行して進んだものと推測します。


刺激と反応によって心理は発達しますので、内部で思うことという刺激=反応サイクルの存在しないものは、発達のしようがないと考えます。

ちなみに オオカミ少女の件に関しては下記書籍参照

オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険 [単行本]

うそですから、オオカミ少女の話は。
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言語が無くても知能は発達すると思います。


もちろん言語の定義に依りますが、文字、音声として使える言語とします。

言語は基本的には音の連なりとして生まれました。
それはおそらく生物学的な歴史もありますし、
人間の舌が複雑な音声を発生させることに適していることが関係していると思います。

しかし、仮に音の無い世界に人間の赤ん坊が行った場合は、音声言語ではない方法で情報をやりとりするでしょう。
おそらく視覚を中心としたものになると思われます。

結果的に言語に近い方法での情報のやりとりになる可能性はありますが、それでもいわゆる言語とは異なるものを使うことでの知能の発達は可能性はあると思います。
例えば狩りの場面を考えると映像で思考し、絵で情報をやりとりすると言うのは用意に想像できますし、それの発展も考えられます、そうなると言語に寄っていくことにはなりますが。

ちなみにゴリラは手話を覚えることができます、話せないのは発音の制御能力が無いためであり、知能が不足している訳ではないと言えると思います。

言語である必要はない、とは思いますが、言語が有用であることは揺るがないと言うのも事実のように思います。
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