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アマテラスは スサノヲの非行をなぜ咎めなかったか

 古事記などが伝えるスサノヲとアマテラスの物語には われわれ現代人が人間を考えるための恰好の題材を提供していると考えます。そこで 表題の件で問います。質問者なりにあらすじをしるしますので
 
 ○ ほかの人びとはスサノヲを咎めてもアマテラス自身はそうしなかった。それは何故か。

 について 見解を示してください。

 スサノヲは イヅモで復活する前に タカマノハラの世界でアマテラスの《なぜわたしの領域にやって来たのか。それは領土を奪いにではないのか 》という疑いによって悩まされていた。かれは 理屈で弁明するよりは 非行・愚行を繰り返すという破廉恥な抵抗によって 自己の知恵の同一にとどまろうと欲した。その一つに。

   アマテラスオホミカミが 忌服屋(いみはたや=清浄な機屋)に坐(ま)
  して 神御衣(かむみそ)を織らしめたまひし時 〔スサノヲが〕その服屋
  の頂(むね)を穿ち 天の斑馬(ふちうま)を逆剥(さかは)ぎに剥ぎて堕
  (おと)し入るる時に 天の服織女(はたおりめ)は見驚きて 梭(ひ)に
  陰上(ほと)を衝きて死にき。(古事記)

 とさえ記されている。
 もちろんスサノヲは 殺そうと思ってそうしたのではないであろう。だが あえてこのような事をも辞さなかった。

 そこで これらの天つ罪と呼ばれる非行のあと 罰を受けて追放されたのだが しかもなおかつその上で イヅモ・スガの宮での復活を受け取ることになった。こうなると つまりあたかも神の国が生起して身は復活し ひとの歴史が前史から後史へ入ったとすると おそらくこの神の国は 過去へとさかのぼり 後史が前史をも覆う・つまり前史を完成させるということが 生起するのではないか。
 それは こうだ。この世にあっては 神の国は地上の国と混同して互いに入り組んでいるのだ。地上の経験的で相対的な人間の愛が ちょうどその向きを変えられ回転せしめられてのように あの神なる愛につらなるという〔観想的な〕事態を見ることになるのではないか。なぜなら 《その皮を剥いだ馬を機屋の屋根を破ってその穴から落とし入れて その結果 服織り女たちは驚いてしまい ひとりは 梭(=杼=shuttle)にほとを衝いて死んでしまった》という経験の中のスサノヲの前史の心を すでに その後史の心がおおうと見られるから。ちょうど

   王はその宮からわたしの声を聞かれ
   王に叫ぶわたしの叫びがその耳に達しました。(旧約聖書詩篇18・6)

 とすでに言ってのように 前史の愛のなかに後史(または 王の本史)の愛がたしかに はたらいていたと見出されたかのように。あるいは

  〔神の愛は〕処女の胎から あたかも閨(ねや)から出てきた花婿の
  ように 道をかける巨人のように躍り出た。
  (旧約聖書詩篇 19・5;アウグスティヌス:告白 4・12〔19〕)

 というのが 事の真相であるのではないか。これによって機織り女が驚いたのでないなら それは 何故か。機織り女も 肉の眼によってではなく 心の内なる眼で なぞ(神の愛)を見たか。

 この事件のあと 《ゆえにここにアマテラスオホミカミは見畏(かしこ)みて 天の石屋戸(いはやと)を開きて さし籠もりましき》。つまり その身を隠した。

 もう一例を引こう。
 スサノヲは アマテラスの疑惑を疑い返し やはり自己の知恵の同一にとどまろうとして この上の事件を起こす前に 次のような愚行をおこなったと記されている。

   アマテラスオホミカミの営田(つくだ)の畔を離ち(境界を取り除き)
  その溝を埋め また その大嘗(おほにへ)を聞こしめす殿(アマテラス
  の神聖な御殿)に尿(くそ)まり散らしき。(古事記)

 これは いわゆる反体制の運動のようなのだが そのあと

   しかすれども アマテラスオホミカミは 咎めずて告りたまひしく
    ――尿(くそ)なすは 酔(ゑ)ひて吐き散らすとこそ 我(あ)が
    汝弟(なせ)のミコト(=スサノヲ)は かく為(し)つらめ。ま
    た田の畔を離ち 溝を埋むるは 地(ところ)を惜(あたら)し
    (=土地が惜しい)とこそ 我が汝弟のミコトは かく為つらめ。

   と詔(の)り直したまへ〔ども なほその悪しき態(わざ)は止まずて
   転(うたて)ありき〕。(古事記 承前)

 要するに アマテラスは なお疑惑を解かなかった。

    *

 疑惑を解かないけれども 咎めもしなかった。なぜか?

 《疑うなら つまりそう考えるなら 我れあり。》と考えていたという答えをひとつ用意していますが いろんな解釈があると思われ みなさんの知恵を拝借したいところです。

A 回答 (15件中11~15件)

どういう風に間違っているか?



以下例証いたします。
例証)
質問者「ガラパゴス化」と「縄文人」は、関係があると思いますが、
「ガラパゴス化」の定義を教えてください。

回答者1「ガラパゴス化」とは「島嶼化」を一般的に言い換えたものです。縄文人とは関係ないと思いますよ。

質問者 おいらは三十年間以上研究してきた。関係あるといっておこう。

回答者2 ガラパゴス化とは、平行進化の文脈で使われています。歴史的・社会的には適合できない概念ではないでしょうか。

質問者 それでも 三十年以上の結果がある。関係がないとはいえないといっておこう。

例証終)

さて問題です。回答者は質問者に何を説明するべきなのでしょうか?

結果を成果とを取り違えているのが誤謬の原因です。貴方が「御伽噺を読んでどう感じるか」ということを感想文にまとめるという行為と学問的な「神学」とは関係がありません。

貴方の言う神学と通常の神学との間には、アウグスティヌスという言葉より他に接点が存在しません。

貴方はアウグスティヌスの権威を、自分の権威付けに利用しているだけです。
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この回答へのお礼

 たらこくん 対話を絶やさない心がけは 見上げたものです。ご回答をありがとうございます。

 だが 今回は先回のわたしの答えでじゅうぶんです。
 ☆☆(No.3補足欄) ~~~~~~~~~~~~~ 
 1. そもそも《古事記とほかの書物の文章の間に 文脈としての共通性はない》でしょう。

 2. それらを結びつけて議論を展開するのは 自由です。問題はその結果です。推論に妥当性が生まれればかまわないでしょう。

 3. では どういう推論のまちがいが現われているのか? その妥当性の無さについて 具体的に批判を展開してください。

 4. 《おいら以外の要素が存在しない》というのではなく そうではなく すでに文章は述べてあるのですから たとえばどうも神学の要素が混入しているから 哲学の一般的な見方からは取り扱うにはむつかしい。といったふうに述べるのがよいでしょう。

 5. ただし この神学の要素も 哲学が扱えるほどに述べたつもりです。――でも それを受け容れたくないというのでしたら それは 自由ですので もう分かりましたということになります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 《ガラパゴス化》については 回答者の人びとの指導にしたがっています。いまさら何かを言われることもありません。


 ★ 貴方が「御伽噺を読んでどう感じるか」ということを感想文にまとめるという行為と学問的な「神学」とは関係がありません。
 ☆ この指摘に対してははっきりと答えることができます。はっきりと答えることがあります。
 これまでの《学問的な〈神学〉》がちょろいのだということです。わたしの解釈と《関係がない》とまでは行きませんが 違っていると見えて とうぜんです。わたしはちがったことを・つまり新しい見方を提出しているのですから。
 要するにこれまでの神学は 恰好をつけているだけです。光の天使をよそおう悪魔だとは言いませんが 理念の城を建ててみたというだけのことだと考えます。
 わたしの神学は 生きています。《おれおれ理論》と名づけても放っておきますが その中身についてしっかりと捉えるとよいでしょう。


 ★ 貴方はアウグスティヌスの権威を、自分の権威付けに利用しているだけです。
 ☆ わたしはすっかりアウグスティヌスに信仰とその観想あるいは文章の作法などなどをおそわって来ましたから わたしの言うことはすべてアウグスティヌスの請け売りであると言わざるを得ません。
 ただし ここ数年のあいだにはかなり独自の――つまりアウグスティヌスに対する裏切りとしての――見方や理論を試みて来ています。そういう考えが得られて来ています。
 わたしたちの《権威》は はりつけにあったその人です。その無様な無力 これがわれわれの力のみなもとであり 権威です。

 あなたも少しづつまなんでいくとよいでしょう。

お礼日時:2010/08/05 23:52

 bragelonneさん。


 神話はいろいろに解釈できるのでしょうが、専門家でもないけど、アマテラスとスサノオですか、人間存在の側面としてみると、アマテラスは一時の自分であるスサノオをとがめる事はなかったのかもしれませんね。とがめ方が違うと存じますが。
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質問者


「おいらの考えが正しいとして・・・質問に答えてください。」

回答者
「貴方の仮定は、正しくありません。古事記とアウグスティヌスの文章の間には、
文脈的共通点として
それらを結び付けたいオレオレ君の『おいら』以外の要素は存在しません。」

歴史主義という言葉を検索してみるとわかりますが、
「体制」・「非行」といった言葉は、質問者様の思い描く「べき論」を前提としています。

「おいらの考え」を正しいと仮定できない普通の人にとっては、難しい(つらいwww)質問です。

この回答への補足

 たらこさん こんにちは。質問への批判をありがとうございます。

 そうですね。いくらかは反論しておきます。

 ★ 質問者 「おいらの考えが正しいとして・・・質問に答えてください。」
 ☆ 詳しくは:《おいらの解釈が妥当性のある一つの仮説を構成するであろうと考えるので よろしければその前提に立って 問いに答えてください》。
 この種の質問の場合には 言外に含みもあります。《もしこの前提に異議がある場合には どうぞその点を明らかにしてお示しください》。

 ★ 回答者 「貴方の仮定は、正しくありません。古事記とアウグスティヌスの文章の間には、文脈的共通点としてそれらを結び付けたいオレオレ君の『おいら』以外の要素は存在しません。」
 ☆ 1. そもそも《古事記とほかの書物の文章の間に 文脈としての共通性はない》でしょう。

 2. それらを結びつけて議論を展開するのは 自由です。問題はその結果です。推論に妥当性が生まれればかまわないでしょう。

 3. では どういう推論のまちがいが現われているのか? その妥当性の無さについて 具体的に批判を展開してください。

 4. 《おいら以外の要素が存在しない》というのではなく そうではなく すでに文章は述べてあるのですから たとえばどうも神学の要素が混入しているから 哲学の一般的な見方からは取り扱うにはむつかしい。といったふうに述べるのがよいでしょう。

 5. ただし この神学の要素も 哲学が扱えるほどに述べたつもりです。――でも それを受け容れたくないというのでしたら それは 自由ですので もう分かりましたということになります。


 ★ 歴史主義という言葉を検索してみるとわかりますが、「体制」・「非行」といった言葉は、質問者様の思い描く「べき論」を前提としています。
 ☆ たぶんこの指摘には応えなくてもよいでしょう。《非行・愚行》は ふつうの言葉です。《体制・反体制》を出したのは そういう体制の問題という観点ではないようだと言おうとしてのことです。つまり 出さなくてもよかったものです。
 《べき論》がどうの《歴史主義》がこうのというところは 分かりません。分からなくても すでに上に述べたところによって わたしの応えは足りていると考えます。

 ★ 「おいらの考え」を正しいと仮定できない普通の人にとっては、難しい(つらいwww)質問です。
 ☆ これは ひょっとして もう少し一般化して述べて問いたまえという意味でしょうか?

 

 あとは 余分でしょうが みなさんのための資料として なぜ神学の要素を容れたかを説明します。

 アマテラスとスサノヲは スサノヲの心の清きをかけて ウケヒ(誓約)ということをしています。これにスサノヲが勝ったという記事があるにはあるのです。そこから スサノヲは のちに前史から後史に入った・つまり復活したという捉え方をします。
 このスサノヲの復活は とうぜんのごとく 神学の観想としての捉え方をとおして――もし言葉に表わそうと思えば――触れることしかむつかしい。と思われた結果のことです。

 ウケヒの資料です。

 ▼ (ヰキぺ:アマテラスとスサノヲの誓約) ~~~~~~~~
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9E% …

 スサノオはアマテラスの疑いを解くために、2人でウケヒ(宇気比、誓約)をしようといった。二神は天の安河を挟んで誓約を行った。まず、アマテラスがスサノオの持っている十拳剣(とつかのつるぎ)を受け取ってそれを噛み砕き、吹き出した息の霧から以下の3柱の女神(宗像三女神)が生まれた。この女神は宗像の民が信仰しており、宗像大社にまつられている。

  多紀理毘売命(タキリビメ)
  市寸島比売命(イチキシマヒメ)
  多岐都比売命(タキツヒメ)

 次に、スサノオが、アマテラスが持っていた「八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠」受け取ってそれを噛み砕き、吹き出した息の霧から以下の5柱の男神が生まれた。

補足日時:2010/08/05 18:31
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この回答へのお礼

 
  左のみづらに巻いている玉から 正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(マサ
 カツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ)
  右のみづらに巻いている玉から天之菩卑能命(アメノホヒ)
  かづらに巻いている玉から天津日子根命(アマツヒコネ)
  左手に巻いている玉から活津日子根命(イクツヒコネ)
  右手に巻いている玉から熊野久須毘命(クマノクスビ)

 アマテラスは、後に生まれた男神は自分の物から生まれたから自分の子として引き取って養い、先に生まれた女神はスサノオの物から生まれたからスサノオの子だと宣言した。スサノオは自分の心が潔白だから私の子は優しい女神だったといい、アマテラスはスサノオを許した。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ この最後の箇所つまり《アマテラスはスサノオを許した》は 原文にはそうともそうでないとも書いてなありません。《咎めなかった》ことの理由を述べたことは書いてある。(→趣旨説明)。
 このウケヒのあとのこととしては スサノヲが勝ちに乗じて 非行をおこない始める。その記事がただちにつづく格好です。
 
 このウケヒについてその中身がよくは分からないのですが・つまり なぜどのようにして勝ち負けが決まるのかも分からないのですが ともかくおおむね――日本書紀の記事をも含めて――勝ちはスサノヲであったようです。
 この結果じたいは 質問者の解釈に採り入れています。そうして スサノヲの復活のもんだいとして最終的には捉え そのあとその結論から逆推して 《皮を剥いだ馬を屋根を破って中へ投げ落とした》事件について解釈したものです。神学の要素を採り入れました。
 そしてこのひとつの解釈については 一方で 自由であると同時に 他方で それを拒むのも自由です。後者のばあいには できれば批判を明らかにしていただければなおありがたいです。


 * 鯉は分かるんだけれど その背景は何なんだろう。

お礼日時:2010/08/05 18:44

他人の思惑が何故、わたくし共に憶測できましょうか。



脳を思考を共有している訳でもないのに。

問いに答えを求めるのなら、答えは延々見つからないと思います。

また、何故答えを出さねばなりませんか?
そこに正解など、存在するのでしょうか?

これだけですかね…。

もう逃げます(笑)
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この回答へのお礼

 ラブくぼさん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。アマテラスのこのときの態度は けっこうナゾだと受けとめられていると思います。
 ★ そこに正解など、存在するのでしょうか?
 ☆ 分かりません。人それぞれが考えてみるということです。

 ★ 他人の思惑が何故、わたくし共に憶測できましょうか。
 ☆ 現われた結果は みなに共通の判断材料ですから そこから或る程度は 共通の解釈も得られる場合があるのではないでしょうか。

 ★ 問いに答えを求めるのなら、答えは延々見つからないと思います。
 ☆ これが正解だったりして。・・・つまりこのときのアマテラスの心つもりも狙いも 大したことはなかったのかも知れません。補佐や人びと一般に任せていたということかも知れません。

 分かりませんが さらに見解の披露を待ちます。ありがとうございました。

お礼日時:2010/08/05 17:52

※突っ込み厳禁です



『そこに愛があったから』

この場合の『愛』についても、狭い意味に捉えず、様々な可能性を見出して頂きたいです。


ただ言えるのは、愛。
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この回答へのお礼

 こんにちは ラヴくぼさん。ご回答をありがとうございます。

 ★ 『そこに愛があったから』
 ☆ これは どうなんでしょう? アマテラスの胸の内にということなのか それとも 人びとのあいだになのか? 両方とも でしょうか?

 無難で一般的だと思えるのですけれど。

 わたしがなぜそういう回答を用意していないかを述べます。
 けっきょく そのアマテラスの主宰するタカマノハラなる世界から スサノヲは追いやられたからです。追いやってしまうくらいなら きちんと咎めて反省するかあるいはつぐないのために謹慎するかをさせればよかったのではないか? と思うからです。
 何もしなかったのです。

 しかも けっきょく身を隠してしまったりしています。例の《アマノイハヤト(岩屋戸)》に籠ってしまったという行動です。
 そしてそのあと 人びとが 例のアメノウズメの踊りを見て笑っているのを聞いてアマテラスは出て来るという展開です。
 さらにそのあと 古事記では ただちに スサノヲを追い払うという記事に移ります。

    ここに(つまり 世界に太陽がふたたび照り輝いたところで) 八百万
   の神 共に議(はか)りて ハヤスサノヲのミコトに千位(ちくら)の置
   き戸(罰金)を負(おほ)せ また 鬚(ひげ)と手足の爪とを切り 祓
   (はら)へしめて 神(かむ)やらひやらひき。(古事記)

 とあります。アマテラスは 黙って人びとのやるに任せたのか 暗黙のうちに了承を与えたのか あるいは陰でそうせよと指図をしたのか まったく分かりません。何も書いていません。
 ★ この場合の『愛』についても、狭い意味に捉えず、様々な可能性を見出して頂きたいです。
 ☆ なんですけれど。・・・

 すなわちそういう曖昧さがあるので いったい《愛》にしてもどういう愛であるのか。なかなか はっきりしないのです。そうではないでしょうか?
 もうひとつ 憎まれ口をたたきますが アマテラスはけっきょくアマノイハヤトに勝手に身を隠し 勝手に出て来たわけです。そしてスサノヲの処分は ぜんぶ人びとに任せた格好である。――《愛》というには あまりにも不明瞭ではないか。という質問者の思いがあります。


 なお これからのみなさんが回答を寄せてくださるときの資料として かかげます。

 ○ アマテラスのスサノヲに対するうたがいは つぎの事件のときに始まっています。
 ▼ (ヰキぺ:アマテラスとスサノヲの誓約(うけひ)) ~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9E% …
 スサノヲは、姉のアマテラスに言ってから根の国(亡き母のもと)へ行こうと思って、アマテラスが治める高天原へと登っていく。アマテラスはスサノヲが高天原を奪いに来たのだと思い、弓矢を携えてスサノオを迎えた。

 ▼ (鈴木三重吉:古事記物語) ~~~~~~~~~~
 http://www.aozora.gr.jp/cards/000107/files/1530_ …
 § 天(あめ)の岩屋(いわや)
 ニ

 〔スサノヲは〕「それでは、お姉上さまにおいとま乞(ご)いをしてこよう」とおっしゃりながら、そのまま大空の上の、高天原(たかまのはら)をめざして、どんどんのぼっていらっしゃいました。
 すると、力の強い、大男の命(みこと)ですから、力いっぱいずしんずしんと乱暴(らんぼう)にお歩きになると、山も川もめりめりとゆるぎだし、世界じゅうがみしみしと震(ふる)い動きました。

 天照大神(あまてらすおおかみ)は、その響(ひび)きにびっくりなすって、
 「弟があんな勢いでのぼって来るのは、必ずただごとではない。きっと私(わたし)の国を奪(うば)い取ろうと思って出て来たに相違(そうい)ない」
 こうおっしゃって、さっそく、お身じたくをなさいました。女神はまず急いで髪(かみ)をといて、男まげにおゆいになり、両方のびんと両方の腕(うで)とに、八尺(やさか)の曲玉(まがたま)というりっぱな玉の飾(かざ)りをおつけになりました。そして、お背中には、五百本、千本というたいそうな矢をお負(お)いになり、右手に弓を取ってお突きたてになりながら、勢いこんで足を踏(ふ)みならして待ちかまえていらっしゃいました。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 男装し武装までしたとのことです。ゆえに 《愛》???? なんです。
 (突っ込みを入れてしまいました)。

お礼日時:2010/08/05 13:56

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