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「見損なう」っていうのは、「評価を誤る」っていうことですよね。

ということは、「こんな事も出来ないなんて、見損なったよ」
とかいうときの、「見損なった」っていう表現はおかしくないですか?

例えば、まちがって思い込んでいたときに
「ごめん、勘違いしていたよ」
なら分かるけど、「ごめん、勘違いしたよ」
っていう文はおかしくないですか?

「こんな事も出来ないなんて、見損なっていたよ(今まであなたに対する評価を誤っていたよ)」
としないと、正しくないような気がして、頭が混乱しています。

どなたか日本語の達人様、詳しく説明していただけないでしょうか?

A 回答 (8件)

直接的な回答ではないですが、ヒントになるかもしれないので書いておきます。


「~している」には複数の意味があります。
(1)その現象が起こっている最中である(進行形を表す)
(2)その現象が完了して、その影響が現在にも残っている(完了形を表す)
(1)の例文としては「今宿題をやっている」「山田さんは今公園を走っている」などがあります。
(2)の例文としては「もう宿題はやっている」「この機械は壊れている」などがあります。
「壊れる」「着く」「死ぬ」などのように瞬間的な状態の変化を表す動詞は「今その最中である」ということを表すことができないため(1)の使い方はできません。


「なくなる」「間違える」「勘違いする」「見損なう」などの動詞は、まず現象が起こり、その後で現象が起こったことに本人が気付くという2段階のステップでできています。どの時点で動作が完了したことになるのかによって解釈が変わってくるため、これが疑問をややこしくしていると考えられます。
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結論から言うと、どちらも正しいでしょう。



「見損なう」は「評価を誤る」という意味です。

「見損なった」の「た」は、この場合、「現時点でそういう判断をした(結論に至った)」という完了の助動詞です。
『現時点で「評価を誤った」と判断した』という意味。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/132183/m0u/ …
「(どうも今までも評価を誤ったきたことになりそうだが)まさに、今、この瞬間、そのことに気がついたよ!」という感覚が強い場合は、
「こんな事も出来ないなんて、見損なったよ」
という表現になるでしょう。

「見損なっていた」の「ていた」は、「状態が継続して現在に至る」という完了形でしょう。
文法には疎いのでぐだくだ言えませんが、ともかく、「今までずっと評価を誤り続けていた」という意味になるはずです。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/15573/m0u/
「今までずっと評価を誤って来たらしい。その状態を続けてきたのだなあ・・・ということが今改めてわかったよ」という意図の場合は、
「こんな事も出来ないなんて、見損なっていたよ」
となると思います。
  
以上の理由で、#4さんのご指摘と大差ないのですが、
前者は現在の心境、後者は過去への回顧に重点を置いた表現、と言えるでしょう。
    
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「見損なった」で、おかしくはありません。


「見損なう」が一回的行為として扱われているのです。
“過去のある時点で評価をした際に誤りを犯した”ということです。
“これまでずっと見損ない続けてきた”というのではありません。
一定期間をおいて、その評価が間違いだったことに気付くような出来事があったわけです。
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評価と言うのは、利益がからんだ問題なので見損なったとは言わないんじゃ




相手の倫理感の欠落やその矛盾を指摘し、以後の関係を絶つことを宣言するのが「見損なった」
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#1です。

そこでの意見を補強しておきます。

「見損なっていたよ」表現では、「見損なっていたよ。でもそれが誤りだと言うことに今気付いたんだ。今後は改めるから御免ね」という表現が可能ですが、この表現を「見損なったよ」で置き換えることは出来ません。だから、「見損なっていたよ」は過去に対する表現、一方、「見損なったよ」は今から未来にかけての表現となっていますね。
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「こんな事も出来ないなんて、見損なったよ」 という場合、話者の失望感を表していると見ることができそうに思います (発話者の現在の感情を吐露している)。


他方、「見損なっていた」 は、確かに 「私のあなたに対するこれまでの評価に誤りがあった」 という事実を述べているのだと思われます (これも感情の吐露と受け取れなくもないですが、上の表現よりは客観的・冷静な見方をしているように感じられます)。

「A君については見損なったなぁ」 という人は、過去の自分のA君への評価に誤算があったという事実を述べています。
他方、「見損なってきたなぁ」 とうと、たえずA君に対する評価をし続けてきて、それらの評価の中に、現在確認された評価と一致するものがない、という事実を述べているような感じがします。

「勘違い」 のケースでは、「勘違いしている」 という状態の継続があったということです。「何か勘違いしてない?」 なんて聞かれる場合です。

語感の問題もあるかもしれないですが、私は 「見損なった」 という言い方は、自然な言い方として受容されている言い方のように思います。
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見損なったと言うのは、相手の内面に対し落胆したことを示すんだと思う



もっときつい言葉だと軽蔑です

その内面に付いては、明確な基準が有って

お互いの正当性を主張し押し問答するようなものではないと言える

基準にそぐわなければ、赤面し沈黙するといったもので名誉の問題なのでは
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人間のやることは、上辺の理屈だけでは理解出来ないところに奥の深さがあり、だから人間んでいることが楽しいのだと思います。



確かに、理屈では貴方が言うように、「見損なっていたよ」が正しそうですが、「見損なったよ」でも良いんだと言う理屈も幾らでもひねり出せそうです。もともと、言葉とはこちらで何を考えているかを相手に伝えるためにあるのですから、もしそれを言った本人が、「今までお前を見損なっていたので、今後はお前を相手にしないよ」と言う未来の状況まで言いたい気持ちが暗にあるのなら、その深層心理の中で「見損なっていた」と単に過去から現在に至る気持ちの表現では物足らず、その勢いで「見損なった」と断定的に言って、その裏の気持ちを迸り出して、簡潔に今後のこちらの態度を相手に伝えている表現とも考えられます。

また、日本人は特にダラダラした長い表現が嫌いなようで、しばしば、本来の正確な表現の一部を省略して、本来それが正しくなくても、それを使おうとするようです。例えば、テレビジョンというダラダラしたカタカナ語を、テレビと言ったり、就職活動を就活といったり、他には婚活と言ったり、これらは全て本来の用法から見れば間違いです。でも、そう言う上っ面な正誤に拘るのは、言葉の役割よりも理屈に興味があるような偶にいる文法学者ぐらいなものでしょう。多分、「見損なっていたよ」の表現にダラダラした締まりのなさを感じてしまい、それをたとえ細かい理屈ではおかしくても、「見損なったよ」と簡潔に言いたくなっているのでしょう。

すでに「見損なった」が皆に使われており、それで誤解する人がいないなら、それを誤りであると言うのは、サザンカは山茶花と書くのだから、サンザカと読まなくては行けないと言っている人のようなもので、皆さんになるほどね、とは言ってはもらえるでしょうが、それで皆さんが今後改めようとはしないと思います。
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