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形而上学という言葉は、どのような意味を指すのでしょうか。
人間の思考というのは、おそらく意識によって行われると思うので、学問のみならず、あらゆる思考は観念的行為だと思います。その意味からすれば、思考というのは、いつも必ず「形而上」つまり物質や形あるもののメタに立つわけだから、あらゆる思考は形而上学であるとは言えないのでしょうか。

たんに、物質や社会など形而下のことを考える学と対峙して、形而上、つまり精神や魂や神を考える学を、形而上学と呼んでみただけのことなのでしょうか。

どなたかお答え頂ければ幸いです。

A 回答 (4件)

こんにちは。



>人間の思考というのは、おそらく意識によって行われると思うので、
>学問のみならず、あらゆる思考は観念的行為だと思います。

>あらゆる思考は形而上学であるとは言えないのでしょうか。

teppyonさんの指摘は「思考する主体」から見ればおっしゃる通りだと思います。
が、形而上学が問題にしているのは「思考する対象」だと思います。
つまり、形而上学とは、経験的には規定されず(たとえば化学実験などの
客観的再現性)思惟によって「のみ」捉えることの可能な、生成変化しない
ものについての学、ということだと思います。

形而上学についてはアリストテレスがかなりしっかりとした枠組みを
提示しています。

詳しくは以下のサイトがわかりやすいです。

「科学と形而上学」

参考にどうぞ。



参考URL:http://iii.cc.kochi-u.ac.jp/~kisoron/kisoron_011 …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

上記サイトを拝見しました。少々難しいところがありましたが、表現に無駄がなく読みやすく、読み終えた後、いろいろ考えさせられました。

ヘーゲルの論理学を幾度か読んだことがあるのですが、なるほどたしかに論理というものを捉えようとするならば、一や多、質や量、同一や区別などの作用そのものを、この世に現象する全てのものの在り方として考察するのは哲学の精神として自然なことで、これはヘーゲルに限った話ではなくて、このような論を総称して形而上学と呼ぶのかなと思われました。

もっと言葉が身にしみて実感されたらよいと思われますが、時間が解決してくれることを望みます。
ありがとうございます。

お礼日時:2003/08/20 21:11

サブカルチャーなんかを覗いていると


よくメタがつく言葉が出てきますよね。
メタ・アートとかメタ・ムービーとか
メタ・ミュージックとかメタ・マンガとか。

ゴダールあたりの映画はよくメタ・ムービーとか言われますね。
普通の人が見ると、何が面白いんだかよく分からない映画。
でも、映画に造詣が深い?人が見ると
従来の映画の、形式だとか常識だとか構造とかを
意図的にズラシたりハズシたりコワシたりしているのが
面白いんだそうで。
既存の映画の作法やルールの中から作品をつくっていくのではなく
外からつくっている、などとよく聞きます。

ゲーデルの数学はメタ数学と言われるそうで。
ゲーデルは「数学は、この答は正しいか否かを証明するが
では、数学は数学自体の正しさを証明できるか?」を考えて
出来ない、という有名な証明をした人ですね。

ジョン・ケージの「4分33秒」はよくメタ音楽と言われるそうで。
この作品は簡単に言ってしまえば、4分33秒の間
舞台上の演奏者は何も音をださないという作品です。
これは音楽か?とか、では音楽とは一体何だ?と
物議を醸した作品ですね。

そう聞いて、自分は何となく「形而上学」の感じを掴んだのですが
どうです?ダメですか?

何かを思考するとき
その(自分の)思考スタイル、基準・規範、立脚点、形式・様式、環境etc.
といったモノに意識的であり
それらを俯瞰して、客観化して相対化して
考えていこうとするのが「形而上学」だと思います。

考えていこうとする、と曖昧に書いたのは
絶対確実に俯瞰したり客観化したり相対化したりすることが
出来ないと考えるからです。
相対化を絶対化する、これがすでにパラドクスです。
相対主義の人たちはこれに自覚的で
相対主義とは絶対的なモノではなく、態度や意志である
というようなコトを言ってますね。

形而上学は「イデア」信仰がベースにあり
それを「ロゴス」化することが出来ると考えるゆえ
成立すると思うんです。
それが正しければ、これはキリスト教などと同じ構造ですよね。
最終的には「絶対的」な「真理」があるという
前提に立っているわけです。
だから、絶対真理に近いつもりの思考を
自ら「上位」として位置づけている。

現代哲学は一種の形而上学批判ですが
「この世の中に「絶対」というコトは絶対にない」というコトは絶対にない」
といった言葉遊びみたいになっていて
その先がまだないですよね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

メタ、という言葉は、おっしゃるとおり、いろいろなところで使われますね。
興味深く読ませていただきました。多方面の知識を味わえて、面白かったです。

しかし、哲学、という一つの歴史的営為において、形而上学というものはどのように位置づけられるのかという問いに対しては、0410さんに薦めていただいたサイトに書いてある内容が、一番適切な答えのように私は思いました。

>何かを思考するとき
>その(自分の)思考スタイル、基準・規範、立脚点、形式・様式、環境etc.
>といったモノに意識的であり
>それらを俯瞰して、客観化して相対化して
>考えていこうとするのが「形而上学」だと思います。

これは、なるほど、そのとおりかもしれないと思いました。

相対と絶対という言葉の関係は、なかなか厄介ですね。
絶対なくして相対なく、相対なくして絶対なし、という見地に立って、
もっとシンプルに、かつ奥深い哲学的表現があるのではないかなぁ、となんとなく思いました。
西洋でいえば、ヘラクレイトス、ヘーゲル、東洋でいえば仏教、竜樹や禅僧などの思想がそれに近いのではないかと予感します。

お礼日時:2003/08/20 21:28

物質や、形あるものを、形あるものとして認識する時点で、そこにメタ化行為が存在しています。


脳を含んだ神経系などの機能はそういうものではないでしょうか。
だから、質問者さんのおっしゃるメタ化される以前の、認識される以前の存在を形而下世界と呼ぶなら、それがメタ化され、その存在が認識された時点で、それは形而下の下ということになります。
さらに、その形而下の下のものについて、色々な名前を付け、言語、諸学問は発達してきたわけですから、科学考察、および文学などは、形而下の下の、も一つ下の世界になります。
二重メタ化行為(反応)が、かかっています。

ですから、そもそも形而上学というのは、不可能なものなのですが、もともと科学も、その不可能性(その問いが立ちえる根拠の部分)を黙認して推し進められ、成果を挙げてきているので、不可能であるということを心に留めるなら、形而上学は可能であると、思います。
 
 
僕が思うのは、何故、形而中がないねん?ということです。
形而中の世界というのは、一切メタ化されていない、存在そのもの、世界そのもののこと、planeな、現代人の印象からすれば、無差別的な世界を指します。
普通な生き方では、この世界に立脚しているのが、都合がいいと思います。
 そんな形而中から、形而上にいくのが、かなり意味不明で不慣れ、ピカソ的な難解さの、何乗も不慣れな行為であるかということです。
でも、慣れればできると思います。
 
私見ですが、質問者さんがおっしゃられているあらゆる思考というのは、形而下の下(言語を使わない思考や、イメージング、夢を見るなども含む。意識的か無意識的かは問わず)の世界、または、形而下下下の現象だろうと推測します。 
でも、結局は、形而の下であろうが、上であろうが、中であろうが、どうでもいいといえば、どうでもいいし、このように簡便に、上中下ってなってるわけでもないんですが、形而ー下の世界、ー下下下の世界、ー中の世界、ー上の世界、などというのは、いろんな人に、求められてもいいような、世界観だろうと思います。
 
形而上学は、一般的に捕らえられている「思考」とは違うということです。それは、思考でもなければ、行為ですらないといいえそうです。観というものは、形而下下下から形而中までは、ある意味で行為として成立しますが、それ以上では、行為としては成り立ちません。そこに、行為は無いからなんです。
 
現存している形而上学といわれるものは、言い換えれば、形而上の世界を、形而下下(ないし+下)的世界観に、翻訳されているというか、形而中から形而下(ないし+下)までの世界観を透過(徹)されているものとも、いえなくもなありません。
もちろんそれは、影の影の影ではあれど、形而上のオリジナル性を、持っていても全然おかしくありません。
当然のことです。
 
(それに、世界同士の関係が、実体と影というふうに、簡便になっているとも思いません。
科学的にみれば影という現象だって立派な実体です。
科学的見方に、たぶん象徴というものは入りにくいとおもうんで、勝手にそう思っています。
(象徴というのは、手品師のテクニックのようなもんだと思うんで。種も仕掛けもありますよって感じで。)
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

形而中、というものがなぜないのか、ということはふと気になりました。
けれど、メタ化行為、形而下の下、さらにその下、という語を用いて表現しているところの意味が、残念ながら私にはよくわかりません。また、

>物質や、形あるものを、形あるものとして認識する時点で、そこにメタ化行為が存在しています。
>脳を含んだ神経系などの機能はそういうものではないでしょうか。
>だから、質問者さんのおっしゃるメタ化される以前の、認識される以前の存在を形而下世界と呼ぶなら、それがメタ化され、その存在が認識された時点で、それは形而下の下ということになります。

とありますが、認識される以前の存在、というものがあるとして、それを形而下世界、と呼ぶことに対して、私は違和感を感じます。
どうやら回答者さんと私の認識に、いくつかズレがあるようです。せっかくご回答して頂いたのにもかかわらず、このようなお礼となってしまって申し訳ありません。

お礼日時:2003/08/20 21:25

「形而下」という言葉は、「時間、空間の中に形をとってあらわれるもの」だそうです。

医学などを形而下学と言っているようですよ。
「形而上」は「形のないもの」あるいは、「通常の感受的経験を超えたもの」ということなので、「実験で証明することが不可能な学問」が形而上学ではないでしょうか?

形而下学として捉えられているものも、モトはといえば哲学から派生してきていることは確かなので、なかなかムズカシイ問題だと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

たしかに、「なかなかムズカシイ問題」ですね。
ムズカシイ問題だということが、なんだかよく納得されました。

「通常の感受的経験」とは、要するに五感ですかね。
そうであれば、やはり、外界への感覚である五感を用いるのではなく、純粋に観念のみによって考える学が形而上学なのかなと思えます。

お礼日時:2003/08/20 21:08

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