おはようございます
最近、質問が立て続けになってしまって申し訳ないのですが、どうしても確認したい事項があるので質問します。
以前、戦国時代に詳しい方から「合戦は弓や鉄砲による攻撃がほとんどで、白兵戦はほとんどないと考えて間違いは無い」とのご教授を受けました。
このことから考えますと…大河ドラマなどの合戦シーンを実際のものに近いものとして見るのは難しくなりますよね?何故なら白兵戦が多く描かれているからです。
では、実際の合戦とはどんな感じになるのでしょうか?
出来れば、次にあげる合戦で説明しやすいものを選んで頂き、実際にどんな感じで合戦が進んでいたのか解説していただけると非常に嬉しいです。
(1)武田氏と村上氏が戦った上田原の戦い
(2)六角氏と浅井氏が戦った野良田合戦
(3)姉川の戦い
これらの合戦以外でも良いので、典型的な戦国時代の合戦で解説しやすいものを例にあげて、ご教授のほどよろしくお願いします。
特に、白兵戦がほとんど行われずに…ということが非常にイメージしにくいです。
単純に考えて、お互い離れ合って弓を撃ち合い、引き上げるのでしょうか?そうなると槍による激戦が繰り広げられたイメージのある(1)(2)(3)の合戦はどんな感じになるのか非常に興味深いです
A 回答 (6件)
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No.6
- 回答日時:
もし本当に白兵戦がほとんどなかったとしたら、戦国時代が始まったのは鉄砲伝来の80年くらい前ですから、おおざっぱにいって鉄砲が来るまでの半世紀の間はどうやって合戦していたのかっていう素朴な疑問はあります。
弓ってのはテレビなんかで見たことがあるでしょうが非常に難しいもので、目標に対しては文字通りに弓なりの軌道で狙います。それで正確に相手に命中させるのは非常に困難で、弓道の大会でも選手が的を外すのは珍しくありません。ましてや露天なら横風の影響もありますからね。
当時は弓は今なら野球が得意みたいな運動能力に優れた人がやっていたと思います。つまり誰でも弓兵にはなれなかったと思います。
また鉄砲が伝来した後も、将兵のうち槍兵がおよそ半分くらいで、弓と鉄砲を合わせても全体の12%から多くて20%程度です。およそ半分は槍なのでやはり主兵力は白兵戦力であったと思います。
また古代から中世にかけて、ま、近世も入れていいんですけど、その時代の戦争つまり鉄砲と大砲が幅を利かす近代戦以前の戦闘では、戦死者の多くは追撃のときに発生しています。その典型が長篠の合戦で、武田軍の主だった武将が多く戦死していますが、そのほとんどが追撃の途上で討たれています。
片方の軍が崩壊すると、兵士は我先にと逃げ出しますから武将を守る供の者も少なくなりますので非常に危険なんですね。で、多くの戦争の場合、勝った方の損害率って案外に5%とかそんなもんなんです。20人に1人が負傷か戦死(医療が未発達の近代以前の戦争において負傷に伴う戦死率は非常に高かったと思われます)しているということになりますね。5%くらいなら、死屍累々、というほどでもないと思います。
戦国時代の多くの合戦で、合戦により雌雄が決してしまうことがしばしばあります。このとき、我々は負けた軍勢は兵力を全滅させて負けてしまうとイメージしますが、実際はちょっと違うんですね。
摺上原の合戦がその典型だと思うんですが、敗北した蘆名軍は確かに主だった武将を失うのですが、敗北してしまったがゆえに配下の武士たちが沈みゆく船に付き合う理由はないとどんどん勝手に帰ってしまうのですね。あるいは、戦場から離脱してそのまま戻ってこない。それで、黒川城を守れるほどの戦力が集まらなくなって蘆名氏は落ち延びていくことになります。
どちらかというと威信が低下して誰も命令に従わなくなる、という感じかと思います。
No.5
- 回答日時:
その方の話の典拠は鈴木眞哉氏の一連の著作でしょう。
『戦国合戦の虚実―日曜歴史家への誘い』 講談社、1998年
『鉄砲と日本人―「鉄砲神話」が隠してきたこと』ちくま学芸文庫、2000
『刀と首取り―戦国合戦異説』平凡社新書、2000
『謎とき日本合戦史―日本人はどう戦ってきたか』講談社現代新書、2001
『鉄砲隊と騎馬軍団―真説・長篠合戦』洋泉社新書y、2003
などが該当します。
戦闘による負傷原因が書かれている一次史料である軍忠状をもとにした負傷原因の統計が根拠となっているようです。
統計では、飛び道具による負傷が大半で、刀などによる負傷はほとんどないことから、時代劇に見えるような白兵戦は考えにくいとのことです。
刀で甲冑が斬れるとは考えにくいことからも、納得できる結論だと考えています。
基本的に日本人は遠戦志向であったことも指摘されていて興味深い内容です。
なお、例としてあげられた合戦の描写復元ですが、部隊編成・規模や戦場の推移を明確に物語る史料そのものが欠如しており、実態を知るのは非常に困難かと。
姉川はまだ史料が多い方ですが、詳しいものほど徳川史観の影響が強く書かれた内容を鵜呑みにするのは危険です。
上述の長篠の本でしたら、すこしイメージしやすいかもしれません。
私は、ご想像の通り、遠くから両軍が撃ち合い、先鋒がある程度被害を受けて敗走し、それが全軍に及び、追撃戦に移る、というイメージを抱いています。隣の仲間が撃たれたら、正直逃げ出したくなりますもの。
いずれにしても上述の著書をご覧になるのがよろしいかと。
ちなみに中世前期でしたら
近藤好和『騎兵と歩兵の中世史 』 吉川弘文館、歴史文化ライブラリー、2004
も参考になります。
No.4
- 回答日時:
合戦は弓や鉄砲による攻撃がほとんどで、白兵戦はほとんどないと考えて間違いは無い」とのご教授を受けました。
とのことですが。。。。
まずひとつめ
小田原衆所領役帳(永禄2年)を調べてみますと、北条軍軍役は北条氏康の時代で、
家臣は560名が記載され、その所領総額が7,2168貫259文となっています。
一般的に後北条氏の軍役は、7~8貫あたり1人というのが大方の見方のようです。ほぼ1万人ほどとなりますか
北条氏の支配体制をなした貫高は(石高制はもっと後)、年貢・公事などの賦課額や家臣の知行高や
それに対する軍役の賦課額などを、銭の単位である貫文によって表示したものである。」と述べています。
この検地は、在地から申告される指出検地(さしだし検地)で、耕地が田と畑に区分され、
各々一反当たり田が500文、畑が165文の基準数が決められていたようです。
検地は秀吉が始めたわけではなく、各地でそれぞれに検地をしてそこから軍役を課すわけですよ
参考までに
家臣名 知行高 馬上 鉄砲 弓 槍 指物 旗 歩者 合計 着到年次
小曾戸丹後守 200貫 5 20 0 0 0 2 0 27 天正年間
岡本八郎左衛門 59貫 1 0 0 2 1 1 2 7 元亀2年(1571)
ふたつめ
この時代馬2頭が並列に並んで通れる道がそもそも存在しません。
したがって相手も反対側から同じ道を来て、ガッチヤンすることもあったでしょう。
よほど索敵をしっかりしていないとそこで出会い頭の乱戦となる。
その例が今川雪斎と織田(信長の親父)の小豆坂合戦の緒戦となりました。
みっつめ
戦国時代はまた飢饉の時代ともいえます。
2、3年おきに天候不順による飢饉が続いて、領土拡大ではなく明日の食べるものを
求めての他国侵略(乱捕り)人(女子供捕虜にして後で売り飛ばす、物、金の略奪。
これは組織的に公認された行為です。
よっつめ
中国戦国史のような支配体制ではありませんし、軍の展開も組織的にはほど遠いもだったでしよう
戦が始まったら、あっちへこっちへなんて指図はかんたんではないはずです。
江戸時代のやくざ同士の出入りの大きいものとみるのがちょうどかな
度胸勝負
馬はロバよりやや大きい程度、とても早くは走れませんし、それに高価。
戦闘に入るときは後ろに置いて、徒歩で戦います。
相手より数多く集めることが、第一に問われる大名の力量です
数で相手に圧力をかける。前に書きましたが、出会い頭の乱戦で斬り合いがあっても
実際のところ、合戦で巷でいわれるほど人は死なかったようですよ
後ろばかり気にしていたとおもいます。退路を絶たれることが一番怖い。
怖気ずいたほうが負け、合戦の勝敗が決まるのはどちらかが引いたとき
No.3
- 回答日時:
刀の切り合いが白兵戦というなら、TVほど華々しい例は少なかったかも。
鎧は刀に対する防御なので、刀を使う時は刺すか、ブロテクトのない部分つまり足先や指先を傷つけるだけでよかった。
槍は初期段階では馬や人の突撃に対する防御として、柄の部分を土に突き刺して斜め上に穂先を構え、歩兵戦に入る時は上から振り下ろして、相手の頭をドツク。つまり兜のうえからの打撃で、脳しんとうを起こさせる。
弓は遠距離の場合、角度をつけて上から垂直に落下させることで、鎧や屋根の防御のない所を傷つけ、結果として陣形を混乱させることが主眼。近距離の場合は鎧を貫くことができるが、速射には技術がいるので、農民兵には無理。今でいう、攻撃準備射撃みたいなもん。
ただ川中島の合戦のように、天皇家へ激戦の報告がいっている場合もあるので、切り合いがなかったとはいえない。
No.1
- 回答日時:
ご質問の意図に適合した回答ではないかも知れませんが、お許し下さい。
>以前、戦国時代に詳しい方から「合戦は弓や鉄砲による攻撃がほとんどで、白兵戦はほとんどないと考えて間違いは無い」とのご教授を受けました。
その方の説の根拠は何なのでしょうか?
武田、上杉、織田などの戦国時代の兵員の主力は、その殆んどが農民兵です。
堅固な城に立て籠もる籠城作戦が有効だったのは、籠城により合戦が長期化すると兵の主力となる農民達が田植えや収穫の時期には野良仕事に戻らなくてはならなくなる為に兵を引かざるを得なくなってしまうためでした。
(農民を国に帰して米を生産しなければ収穫が無くなり、年貢が納められなくなったり、飢餓が起きるなど国力が衰えてしまうから)
質問者様は農民兵に配られた槍などの武器の実物をご覧になった事はございますか?
農民兵に配給される槍は、テレビなどで見る様な立派な武器では有りません、実物は槍の先端部の刃の長さが10センチにも満たない様な極々粗末な物です。(不足の場合には竹槍を配給される事も有ったようです)
戦う事を専門の職業とする職業軍人(傭兵部隊)を本格的に実践活用しだしたのは、豊臣秀吉が天下統一に向けての最後の仕上げに入る頃になってからの事です。
鉄鉱石の少ない日本では砂鉄などから鉄を造る事も多く金属はかなり高価な物でした。
農民は木製の鍬や鋤などを使用していたようです。(出土した古民具が歴史資料館などに展示されています)
刃渡りが50センチも有るような立派な槍を与えたら、大喜びで戦の途中で戦線を離脱して槍を持ち逃げしてしまうと言う事も考えられます。
まして鉄砲などは論外で、農民兵に与えたりしたら確実に持ち逃げされて敵国や商人に売り飛ばされてしまうでしょう。
鉄砲は非常に高価なもので合戦の主力となるほどの数を用意する事は困難だったと考えられる事。
また、臨時の農民兵に熟練を要する鉄砲の扱いを訓練する事は実質的には殆んど困難であったと思われる事。
弓は有効な武器であり実践では大活躍をしたと考えられますが、弓の技能の習得は鉄砲よりもさらに難しく、兵の主力の農民が扱う事は鉄砲よりも更に困難であったと思います。
(沢山の敵がいる辺りを目がけて上空に向けて矢を放つくらいなら農民兵にでも可能なように思えるかも知れませんが、実際に殺傷力が有るような弓を射る事はそんなに簡単なものではありません)
更には、史実として残っている信長の時代の武器の変化の中に、通常の槍に対して有効な武器(新兵器)として「長槍」という武器が登場している事が上げられます。
(槍の柄の部分を長くする事で、白兵戦の際に敵の槍がこちら側に届く前に、先に敵を殺傷する事ができる)
上記のような諸事情を踏まえ、兵の主力(兵の殆んど)が農民兵であったという事も合わせて考えると、鉄砲や弓は非常に強力で有効な武器では有ったが、それらの武器を扱う事が可能な者(持たせてもらえる)は極一部の武士たちや傭兵に限られていたと考えられる。
城攻めなどに於いては火矢や大筒などによる攻撃が行われた可能性も有りますが、信玄と謙信の川中島の合戦野戦などのような野戦に於いては槍兵が横一列に並んで突進してぶつかり合うような白兵戦が戦の主流だったと考えるのが普通だと思います。
だからこそ速力と突破力に優れた武田の騎馬隊が最強軍団として恐れられていたのではないでしょうか。
(馬の速力をもって敵の放つ矢をかわし、雑兵の農民兵を蹴散らして突進して敵将を討つ事が可能)
川中島の合戦や姉川の合戦など、当時の合戦の多くは広く開けた河原などで行われていました。
他にも現代に伝えられている「〇〇ヶ原古戦場跡」など、平原や河原のような広く見通しの良い場所が決戦の部隊として選ばれていた事が分ります。
鉄砲や弓が合戦の主力であったのならば、河原の様な広く開けた場所ではなくて、矢避けや玉避けとなる遮へい物が多い場所での戦いになっていた筈です。
以上のような様々な状況や史実を組み合わせて考えると、戦国時代の合戦の様式はテレビドラマや映画などで描かれているようなに沢山の雑兵が槍を持って突進してぶつかり合う白兵戦が主流であったと考えられると思います。
(テレビや映画のシーンも当時の実際の戦闘シーンとはかなり違う物だったとは思いますが、白兵戦が主流であった事は間違いではないと思います)
回答ありがとうございます!
まずその方の根拠というか説明を書きますと…
(1)戦国時代の合戦は遠距離攻撃が主流であった
(2)現実問題として考えて、白兵戦を行えば使者が多数出る。そのため、合戦場は屍により病気が流行る。また、戦力は減少し、二度と合戦が不可能になるばかりか、白兵戦が主流であったならば日本の人口は10年足らずで壊滅してしまう。
というものです。
また、戦国時代の負傷原因は弓矢などによる傷が最も比率的に高かったそうです。
ちなみに騎馬隊はなかったというのが通説ですが…また旧説が盛り返したのでしょうか?
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