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前掛川藩大田氏の資料を探しています。
 大田氏は幕末、掛川から千葉の松尾の転封されました。徳川慶喜の処分に際し、家達が徳川の相続人となり駿河に来たためでした。これにより、掛川藩はじめ七藩が、現在の千葉に移転しました。
 明治元年十一月です。これにより七藩の各藩士 、六千五百七十二人、家族を加えると二五〇〇〇人が、静岡県からおよそ十一日の行程で千葉に移りました。
 移動手段として、荷車が考えられますが。記録によると、家具のほか、障子、漬物石まで運んだそうです。するとおよそ七千台の荷車が東海道を下ったことになります。
これらの移動期間を著した資料を探しています。また、大田氏に関する資料も探しています。

A 回答 (1件)

直接の史料ではありませんので、余り役立たないかもしれませんがm(_"_)m


少なくとも沼津藩(菊間藩)に関しては
一気に短期間で藩士・家族全員という事でもなさそうです。

◇『平成22年10月24日 一紅会歴史研究会「幕末維新の旅」
房総の地に生きる -駿河遠州諸藩士の維新- 渡辺房男』によれば、
http://www7b.biglobe.ne.jp/~kf1-tokyo/9th_rekish …
…典拠・出典が明示されていませんが…
沼津水野家は「4か月で移動」「舟で移動するものも多い」と記述されています。

○当時の駿河、遠州の諸藩と転封…
7藩の藩士家族、約2万5千人が、明治元年4月か(←たぶん4か月の誤記)で移動。
幕臣たちと7藩の藩士たちの大移動が始まり東海道を行き交う。
○ 房総移住の大名たちのその後
例として、沼津から移住した水野家5万石の歴史…
5)藩士の移動
家屋の解体、駿河湾を舟で運び、市原郡八幡宿に揚陸。
藩士たちも、舟で移動するものも多い。

また、
◇『近世の碧海部/石川康敏』の「4.沼津藩・菊間藩」<7・8/26>では、
http://wwwhou1.meijo-u.ac.jp/housei2/semi/2007so …
「城下町があるわけでなく、移住した藩士が住む家もなかったから、…
明治元年から2年にかけて順次移住」と記述されています。
参考文献として『碧南市史料 第一冊~第四冊』『碧南事典』等を
掲げていますから、それに当たれば元々の典拠・出典が分かるかもしれません。

「…沼津5万石水野家は駿東郡、益津郡、志太郡のうち23700石を上知し、
かわりに上総国市原郡菊間村(今の市原市菊間)を中心に83か村、23700石を与えられ、
従来からの伊豆国、三河国、越後国の領地と合わせて菊間藩5万石が成立した。
既に明治政府が発足した明治元年(慶応4年)7月14日に発令を受け、
8月の晦日には沼津城を引き渡し住み慣れた沼津を離れた。
藩主忠敬は伊豆戸田および江戸で仮泊後、新領地に向かった。
菊間へ移住した旧沼津藩士は587人だったが、菊間は純農村地帯、
一面の田畑で、城下町があるわけでなく、移住した藩士が住む家もなかったから、
藩士・家族2695人は明治元年から2年にかけて順次移住していった。…」


残念ながら掛川藩(柴山藩<松尾藩>)に関する移動記録は定かではありませんが、
◇国立公文書館デジタルアーカイブ
http://www.digital.archives.go.jp/
「件名 太田備中守上総国柴山村ニ仮役所ヲ設ケ柴山藩ト称ス」
行政文書>*内閣・総理府>太政官・内閣関係>第六類 太政類典>
太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第六十二巻・地方・行政区一
によれば、
http://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listP …
「旧領掛川表」からの「総引拂」は「(明治2年)去月(6月)下旬」と読み取れます。

「(明治)二年七月十日
太田備中守上總國柴山村ニ仮役所ヲ設ケ柴山藩ト稱ス

去辰年備中守儀上總國内ヘ轉國被仰付去月下旬旧
領掛川表総引拂相濟候旨於東京表御届仕候旨申越
候間比段御届申上候以上 二年七月廿三日」

なお、
東京大学史料編纂所>データベース検索画面>
できごとを主題に 維新史料綱要データベース
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/index-j.html
キーワード「太田資美」と「掛川藩」で別個に検索したところ、
明治元年7月10日以降分では重複を含め
「太田資美(17件)」「掛川藩(18件)」の記録がありますが
明治天皇の東幸時期とも重なるためか
残念ながら掛川藩(柴山藩<松尾藩>)に関する移動記録はありません。

あと、太田資美を含め太田家に関しては、
◇国文学資料文学館(歴史資料)
http://www.nijl.ac.jp/
史料情報共有化データベース
http://base1.nijl.ac.jp/infolib/meta_pub/SKYSear …
によれば、1720(享保5)年~1914(大正3)年の間にわたる
「上総国柴山太田家文書」が存在し、千葉県文書館が全文書を複製しているとの事ですから、
情報収集には「千葉県文書館」が一番かもしれません。
http://www.pref.chiba.lg.jp/bunshokan/contents/i …

以上 少しでもヒントになれば幸いです^^
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この回答へのお礼

御親切痛み入り申し上げます。移動は一気にいかなかっつたと思います。ただ、城の引き渡しの実務によれば、城明け渡し、家臣たち住まいの引き渡し時期は極めて厳格で、赤穂事件にあるように、大石たちが幕府の立会人に城渡し目録を渡してから、ことごとく城下を去っています。
これは、次の新城代を迎えるためにも、旧家臣が屋敷に居残ることは、物理的に無理と考えられます。
そこで、彼らはどこに住むことにしたのかが疑問です。
親戚に頼るか、寺、農家、ですが、滞在が長くなれば、目的地までの路銀がなくなります。幕末の時代は貨幣経済が確立してますから、銭がなければ戦争もできない時代です。
おそらく借金でしのいだのでしょうが、誰が貸したのか、そして回収できたのでしょうか。
掛川藩は、明治3年の藩債調帳によれば16万4088両の藩債がありました。
政府から38000両、旧領地から74603両、東京の金貸しから19173両、大阪の住友等から6195両、新支配地から5929両、旧幕府から5929両です。
掛川藩は、城割をして城下町を作り、城の完成を見ずに藩が消滅したのですが、これら城下町を作るのにようした金は、新政府が肩代わりしたとおもわれますが、支払い金は全額払われたのか、8掛けなのか、あるいは未払いのものが多いのか。
新政府は肩代わりした明細表を残しているのでしょうか。

ともかく、参考になりました。これらの資料は国立図書でなければわからないと思いますが、調べ方の参考になりますので、お気づきの節は、お教え下さい

お礼日時:2011/06/08 08:05

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