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私は信者ではないので、失礼なだと思われるかもしれません。
信者の方はスルーして下さい。

友達に誘われて、教会に行きました。
そこでゴスペルソングを聞いたのですが、
「主は私たちのために死んでくれた」
という一節がありました。
信者の方は、愛が深いといっていましたが、全くわかりません。
イエス様が十字架にうたれたことで、私に何のメリットがあったんですか。
そして、歌は誰が作ったか知りませんが、恩着せがましいと思うのですが。

また、いつも見守ってくれているとよく言いますが、
私はイエス様を信じていた時でさえ、何も助けてはくれませんでした。
信者の人たちは、何をもって信じているのですか。

別に疑っているとかではなく、素朴な疑問なので、
優しくご回答頂けると嬉しいです。

A 回答 (15件中1~10件)

>信者の方はスルーして下さい。


信者でないと説明できないと思いますのでご容赦下さい。

子供向けの聖書絵本ですが、
「みんなの聖書絵本シリーズ」の最終刊「せかいは新しくなる」に、
神様の歴史の要約がわかりやすく書かれています。

『はじめに神さまは天と地をつくりました・・・
ところが人間は神さまの言うことを聞こうとしませんでした。
神さまのつくったよいせかいをどんどんわるくしていきます。』

『神さまは新しいやくそくをしてくれました・・・
そのメシアがとうとう生まれました。イエスさまです・・・
神さまのねがったよいせかいがはじまったのです・・・
ところが人々はイエスさまをうけ入れようとはしませんでした。』

そして地上からわるいものをとりさりせかいを正しくおさめます。
そのときせかいは新しくなります。
神さまがはじめにねがったような
「とてもよくできた」せかいとなるのです。』

これを前提にして話しますが、

まず、イエス様が死なれた意味ですが、これは見えない霊的な価値観が理解できないと納得できません。
この世は悪魔と神様が人間を引っ張り合いをしています。しかし人々はどうしても悪魔に流されてしまう。
だから、誰かが条件を立て、犠牲となって、悪魔から人々を開放する必要があったのです。

喩えるなら、不良ばかりの高校があった。生徒たちに将来がなかった。街のヤクザが生徒を悪い道に誘惑していた。そこの校長は生徒を愛していたので、自身が犠牲となり、ヤクザが生徒に手出しができないよう封じ込めた。それがイエス様の働きです。

しかし生徒の多くは校長の働きに気付かなかった。
質問者さんなど、多くの人が気付けない霊的な次元では、昔のような悪魔からは大いに開放されているのです。

そして、「イエスさまはもういちど地上に来られます」、とあるように、実はまだ完全に救いは成されていません。
原発問題で利権が暗躍するように、まだまだ悪魔が幅を利かせる世の中です。
信仰を持つ、イエスの側に立つことは、悪い世の中で少数派になること(小出先生みたいに)。苦労は必須です。
ご利益的な宗教が主流の日本では理解できないでしょうが、イエスを信じることの根本を勘違いしてはいけません。もちろん、違う意味での永遠の祝福と平安がありますけど。

しかし、イエスが本来十字架に掛かるかどうかは民次第でした。聖書の歴史を見ると、
民がメシアを受け入れ、平和が成される予言と、民が受けいれず犠牲になる予言の二通りがあります。
イエスが救い主と人々が気付かなかったので、十字架は非常用の選択肢だったと考えて下さい。
イエスの十字架で確かに救われました、しかしそれは「結果として」仕方なくそうなったことです。イエスが80年生きて活躍した方がどれ程よかったでしょうか。

これは伝統的なキリスト教の十字架の教理とは違うかも知れませんが、現代ではキリスト教の矛盾にいろいろ答えが出つつありますよ。

最後に。信仰を理解することは簡単ではありません。現代のキリスト教も葬式仏教のように間違いをたくさん犯しています。本当に信仰の本質を見出している人はむしろ少ないかも知れません。
だから、質問者様のように、わからなくなる人が多くいます。でもあきらめずに、イエス様の隠された人生の宝物を見出して欲しいと願います。内村鑑三なども読んでみて下さい。


偏見なければこちらもどうぞ。
http://www.setsuri.com/modules/d3pipes/clipping/ …
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この回答へのお礼

お礼が遅くなり申し訳ありません。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/12/09 14:25

私は信者ではありません。



聖書や教義は幾らでも解釈の幅があります。
イエス様の死は「人を救済するため」「人の代わりに罪を背負うため」という考え方もあります。
一方で「神自らが人間の苦しみを体験する」という教えもあります。
つまり自らが「普通の人」として人間の様々な苦しみを体験したこと。
食欲、性欲、睡眠欲、嫉妬心、後悔、恨み、痛み、
などは弱い人間にならないと分らないこともあるのでしょう。
百聞は一見に如かずです。神が人間になって人間の苦しさを体験する方が、
人間について百聞くよりも色々と分るのでしょう。

私はこの教えを知ってイエス様の意味が理解できました。

また、信仰を持っているからと言って「助けて」もらってばかりでは楽をしてしまいます。
助けてもらうのをあてにしないで、自分で努力するのも大事だと思います。英語の格言にもあります。
「God helps those who help themselves. 神は自らを助けるものを助ける。」
信仰を持っているから全てがうまくいくほど人生は甘くないのではないでしょうか。
と、同時にある程度の試練があった方が成長できると思います。
全て助けてもらっては成長しないで一生が終わる気もします。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなり申し訳ありません。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/12/09 14:24

確かに仰る通りでして、たとえ『建前的な死』を示しましても、


組織の代表による引責辞任が問題解決に繋がるとは限りませんよね。

でも、『【統合の象徴】の建て前的な死』は、
寧ろ、内部の団結を促せるのかも知れません。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなり申し訳ありません。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/12/09 14:25

 No.8です。



 疑問もいただいていますが 基本的な考えを述べて キリスト・イエスの示したことを明らかにします。

 1. イエスというふつうの人間は すでに生前に 自分が神の子であり神であると明らかにしています。
 ▼(ヨハネ福音書 14:7-9) ~~~~
 〔* イエスの発言として:〕 あなたがたがわたしを知っているなら、
   わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。
   いや、既に父を見ている。」

 フィリポが

   「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」

 と言うと、イエスは言われた。

   「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていない
   のか。
    わたしを見た者は、父を見たのだ。
    なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。 ・・・

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 2. 想定された物語としての説明を述べるのですが ところが この世の生身の人間が 神を見ることはできない相談である。

 3. よって イエスは 去って行かねばならなかった。去って行けば 《神である聖霊を送る》と言うかたちで 自身が神であったことが弟子たちを初めとする人びとに分かるようになる。そのようにするという方法を採った。

 4. ただし 去って行くというのは死ぬことであるが 自殺行為ではあり得ない。あくまでユダヤの高等法院の裁きにかかるというような手続きを経て ローマ総督によるはりつけの刑に遭った。

 5. もしこのとき・つまり当局に捕らえられて死地に就くというとき 神であるなら その十字架から降りて来いと言われても もし神の力によってその危機を切り抜けたとしたら 人びとはこぞって それは神であるから出来たことだ われわれ人間にはとても出来っこない そんな特殊な奇蹟を見せてもらっても何にもならない と言ったりすることでしょう。

 6. けれどももし すでに生前に(1)のごとくみづからが神であると言っていなかったなら イエスはただ単に ふつうの人間として 多少はみなの積み重ねて来た罪のためにいけにえとなったと言った程度の人間論として捉えられるのが関の山である。
 多少は偉い人間だったとか 人びとみなのために代わりにいけにえとなったのだ だから片や見上げたものだと言い 片やそれこそ恩着せがましいことをしやがってと言っておしまいである。

 7. つまり 人間の理性や努力によってコトを成し遂げるといった種類の問題として片づけられておしまいである(6)か それとも たしかに奇蹟を起こしたがそれはあくまで神であったからこそだ われわれ人間には関係ないことだと打っ棄ってしまわれる(5)か どちらかで終わるような情況であるところを そうは終わらせない手段を採った。こういうことです。

 8. つまり 神を指し示し 知らせた。神との関係を非思考の場がわが心に成るという信仰として伝えた。
 ▼(ヨハネ福音書14:6) ~~~~~~
 イエスは言われた。

  「わたしは道であり、真理であり、命である。
  わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 ・・・
  
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 9. つまりは 誰もこの経験世界において神を見ることは出来ない相談なのだから イエス・キリストは・つまりは神は その後ろ姿を人びとに見せることにした。去って行ったそのあと 生前をしのび みづからの背面を見させるかたちとした。

 10. このことが つまりは《イエスは ふつうの人間であると同時に神の子であり神であった》と死後にうわさされるということです。そのイエスは キリストという名でよばれるようになった。
 去って行ったあとに そのようにうわさされたということは 復活したということです。物語にしたがう限りで。

 11. 言いかえると その《道であり 真理であり 生命である》キリスト・イエスの力が 泉に湧く水のごとく 人びとそれぞれにつねに内から息吹きを起こすと言われたのだとさ。というお話です。
 これだけです。

 12. それまでにも アブラハムやモーセらは 神のことを語っていたわけですが 神を指し示すということは 出来ていなかった。やっとイエスに到って初めて その真理としかもそれによるめぐみとをすべての人びとに指し示すことが起こった。

 13. なにぶん神のことですから 話はすべて想定であり 物語というかたちを採っています。
 信仰とは 無根拠についての非思考という関係を わが心の庭に成らせられることです。

 14. 非思考の庭がわが心に成ったかどうか これだけの話です。目に見えませんから あくまで一人ひとりの主観におさまる問題だと思います。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなり申し訳ありません。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/12/09 14:25

再度ご質問をいただきましたので、ご迷惑と思いましたが、記載させていただきます。



>イエスを友達だと思うのですか。......やはり死んだことが一番自分たちに良い方法なのかということは、疑問で仕方いりません。

たしかにイエスが友達であるならば、その死に直面しましたら、衝撃的なことと思います。ただ回答者の意図は衝撃を与えることが目的ではございません。ただイエスの十字架の死およびその3年前当たりからのイエスの行動を調べて欲しいと思いました。

要約しますと、重要なことはたくさんあるけれど、その内でもっとも大事なものは愛である。愛とは他の人々の最善を願うことである。しかも愛の究極の姿は「その友のために命を捨てることである」と彼は語り続けました。しかし彼の其の思想は当時のローマ帝国の監督者やイエスの生活した時代のユダヤ教の宗教指導者には不都合なことでした。ある時イエスの弟子が賞金のかかったイエスをローマ兵に売り、わずかばかりの金銭を手に入れました。実際問題としてイエスはそれまで3年に渡り「神の愛」を説いてきましたが、その間ローマ兵に捉えられることはありませんでした。つまり自由に逃げることも出来たのですが、聖書によればあえて死を選びました。つまり愛とはその友のために命を捨てることであったからです。

イエスには天から与えられた使命がありました、それは彼が生きた時代の友人だけでなく、その後の世代の友人のために自分の命を捧げるという使命が有りました。つまりあなたの失われた命を、取り戻すために自分の命を捨てたのです。幸いなことにそれゆえ私どもクリスチャンは今日生きています。死ぬ必要がなくなったといえます。このことにまず私どもクリスチャンは感謝しております。

なぜイエスが死ななければならなかったのか、理由は聖書にある通りです。

罪の支払う報酬は死である。」(ローマ6:23 口語訳)

人の心は甚だしく汚れており、どのような努力を持ってしても、その罪を取り除くことができないと思います。さらに聖書では

「義人はいない。ひとりもいない。」ローマ3:10

この世界に全く正しい人はいないと述べています。たしかに良い行いをする人、社会のために人生を棒に振る人はいますが、そのような人の心の中も詳細に見てみれば罪にまみれているということを述べています。つまりイエスは人々の罪の身代わりとなり、私どもの罪を許すために十字架で死なれました。

「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」 (マタイ26:27)

つまりイエスが十字架で死ぬときに流す血は私ども罪にまみれた人間が赦されるという約束の印であるとのべて、ローマ兵に捉えられて数日後に処刑されました。その約束の結果私どもイエスを信じるものは自分の罪を許されたと知るのです。このことで私どもは感謝しています。

>血を混ぜてはいけない。

聖書のどの箇所に上記のような意味の言葉があるかわかりませんが、36年にわたるクリスチャン生活の中で輸血をしたり、されたりしてはいけないという箇所を読んだことがございません。聖書の一部を取り上げて、針小棒大な理解をするとか、あるいは過小に理解してもいけないと思います。聖書は全体を通して何を語られているか理解する必要があると思います。聖書では重要なことをいくつも述べ立てておりません。むしろひとつのことだけ述べようとしています。つまりイエスキリストは誰ですかということだと思います。

>イエスは私たちの為に死んだ、素晴らしいというのに、自殺は絶対してはいけないという。

最初に述べましたが、イエスがこの死すべき罪のある者の身代わりに死んでくださったので、その代わりに私もあなたも死ぬ必要が無いということを述べたいとおもいます。また聖書全体のあなたに対する望みはあなたの人生をイエスキリストに預けてみないかということなので、その命を無駄にしてはいけないという2点を述べておきたいと思います。

もしあなたの人生をイエスキリストが望むような生き方に変えようと、決断できるならばあなたの人生は今の喜びと比較にならないほど歓喜と平安に満ちた生活になることをお約束します。

私はプロテスタントのクリスチャンで、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは関係ございません。お近くの教会の牧師とお話してみてください。新しい展開があると申し上げます。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなり申し訳ありません。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/12/09 14:25

ここまで 書いたとおりのことが起こってしまうと



逆に ちょっと 肩透かしですが・・・・


 教徒は入ってくるな といっても ずかずか 土足で はいってくる。

宣伝はたくさんだと断っても 売込みをやめない。 

そういう具体的行動がキリスト教的「恩着せがましい態度」の根源です。

こまったもんです。

 仲間だけで聖書よんでればいいのに ネ・・・ (ほんとうるさい ったらありゃしない)

あと哲学は けんかだと定義しておきながら、論争でたたかれると

「いたいじゃないか たたくのをやめろ!」と 情けない口答えをする。


「いたいよう・・・ やめろ よゥ・・・ どっか いけよう! いいつけてやるぅ!」www
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/07/24 16:54

>信者の方はスルーして下さい。



ご質問のしょっぱなで参加資格を剥奪されてしまいましたが、あえて参加させていただきます。回答者はプロテスタントのクリスチャンでご質問者さんが感じている疑問に回答できる立場にいると感じています。

>「主は私たちのために死んでくれた」

この言葉を理解するには少しばかり時間軸を圧縮して見ていただく必要があります。つまりイエスが十字架で死んだ約2000年前の処刑場にご自分がいると仮定していただく必要があります。もう少し正確にいえばその処刑に至るまでの約3年間のイエスの行動も含めて眺めていただく必要があります。

これは例えば数百年前に書かれた小説の作者の意図が読んでみて解るということと似ています。つまり作者に出会うということが言えると思います。

聖書の目的は書かれているイエスに出会って欲しいということですので、もしご質問者さんが聖書を読んでその意図が解れば、イエスに時代を越えて出会ったと言えるといえます。つまりイエスがご質問者さんにとってイエスが友達となり、彼が何かをしてくれたとすればありがとうとなるのではないでしょうか。

>イエス様が十字架にうたれたことで、私に何のメリットがあったんですか。

繰り返しますが、ご質問者さんがイエスを知らなければ上のご質問は最もなことで、無礼でもなくまた、なんにも助けてくれなかったと思われてもそれは当然のことと思います。つまりご質問者さんとイエスは全くの無関係という関係ですので、何の義理も煩いも心に持つ必要がないばかりか、もつことができなくて当然と思います。

>いつも見守ってくれているとよく言いますが、私はイエス様を信じていた時でさえ、何も助けてはくれませんでした。

信じるということの心的な状況はどうゆうものでしょうか。信じるということは例えばいまご質問者さんが持っている財布の中に高性能の時限爆弾が入っていて10秒後に爆発するという状況に気がついた時に、思わず10万円ほど入っている財布を投げ捨てるときと同じといえます。つまり爆発すると信じると同じようにイエスが行った諸々の行為や言葉を信じるならばご質問者さんの感じている疑問は氷解致します。

つまり命に関わる問題が提議されたときには命がけで対処する必要があります。多くの人が聖書を読んでいることは聖書が永遠のベストセラーと言われていることからもわかります。しかしながら、真剣に読む人は少ないということかもしれません。

>信者の人たちは、何をもって信じているのですか。

何を持って信じ続けているのかと言えば、それはクリスチャンであることがそうでなかった時の自分と比べて比較にならないほどハッピーであるからとしか言えません。

「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネの福音書14:27)

この言葉はイエスが十字架に架かる前に弟子たちに語った言葉です。自分は十字架について死ななければならないという状況の中で弟子たちの不安そうな姿を見て語ったのだと思います。自分の命を捨ててその友(私ども)に教えたかったことはなんでしょうか。

再度お近くの教会の牧師に質問、疑問を投げかけてみてください。牧師はそのためにその教会におりますので、喜んで対応してくださると思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

イエスを友達だと思うのですか。
一緒に各地を周り、正しいと思うことを訴えたけど目の前で反逆者として友がはりつけにあう姿を見て、自分が何を思うかということでしょうか。
私だったら間違ってたと後悔するかもしれませんが、弟子の方は現在本当に多くの人が信じるものにしたというのは、本当に凄いと思います。
ただ、やはり死んだことが一番自分たちに良い方法なのかということは、疑問で仕方いりません。

>命に関わる問題が提議されたときには命がけで対処する必要があります
ということは、いつもは献血はダメだ~と色んな人にいうけど、
自分(や自分の愛する人)が死にそうになあると、
聖書をほって、献血はするべきだと言うということですか。
血を混ぜてはいけない。
だから誰でも死を受け入れるべきだと、
だけど助かる人が死ぬのはもっとダメだというのと、
どちらが正しいといえるのでしょう。

イエスは私たちの為に死んだ、素晴らしいというのに、
自殺は絶対してはいけないという。
みんなが感動するような筋書きに書き換えられている気がしてなりません。
批判的なことを言ってすみません。
キリスト教が良いや悪いということをいいたいのではなく、
ただこれ程支持される理由が知りたいだけなのです。

ありがとうございました。

お礼日時:2011/07/24 17:17

 こんにちは。



 ★ 「主は私たちのために死んでくれた」・・・は・・・恩着せがましいと思うのですが。
 ☆ もしこのゴスペルどおりの思想であれば おっしゃるとおりおのれの力をひけらかしていると思います。

 そうではないという見方を提出します。

 ☆☆【Q:キリストは勝手に人間となり 磔に遭って死んだのだ。】~~~
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6778821.html

 1. もし人びとの罪を取り除くために〔のみ しかもそれを人びとにうったえようとして〕やって来たというのなら それは 当世流行りの《自己主張》である。
 それのみである。ただ人間としての自己主張であるに過ぎない。

 2. 弟子たちを初めとする人間から見れば 自分たちの原罪をあがなってくれたと受け取ったであろうけれど

 3. キリストの側から見れば すべては勝手にイエスというふつうの人間となって 勝手にふるまった。振る舞った結果 人びとの手にかかりその手によって十字架上の露と消えた。
 ただこれだけの話である。

 4. だから 思考にあらずという意味での《非思考》として 人間にとっては 《信じる》があるということを知らしめた。つまり 信じるのは何かといえば 神(もしくは 無い神)であるというその神を――言葉や思考を超えて――指し示した。
 これだけのことである。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ どうでしょう?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
つながりが私の頭ではうまく理解できないのですが、
つまりキリストは勝手に来て勝手に磔に合って、周りの人に衝撃をあたえながら勝手に死んでいったかと思ったら、勝手に生き返って力を誇示した。その結果、周りの弟子が感動して、私たちの為に~と言ったってことでしょうか。
実際にその場にいなかった私には、結局よくわからないことなんですかね。
やはり思想は難しいです。
ありがとうございました。

お礼日時:2011/07/24 16:46

>恩着せがましい



一神教の特徴は、偽善と男尊女卑
原因は、神が男であり、存在しないものを存在すると叫びまわるうそです。

さらに唯物論も一神教の一種です。

ものは唯一の原因から生じるという考えが背景にあるからです。
つまり経済ばかりをむさぼり他人を不幸にしてきた人間は、自己愛におぼれ利己主義の実行を自由意志と勘違いし、
神は俺を許している として 社会で 被害を拡大していく。

うそは物語であるという開き直る。社会の害悪です。

当然他人を守るということはしない。

逆に弱いものいじめは大得意。

興味の中心は、

「お前は俺の意見に賛成か 反対か 反対なら出て行け 消えろ!」ということ。

グループで楽しくキャンプしていたら、わざわざ乗り込んできて 騒ぎを起こす。

まったりと話し込んでいたら でしゃばってきてうるさい。

自分はいままで うそをいってきたが、社会は甘えの社会である ゆるせ!
おれはキリスト教だが うそは方便である。 仏教もすばらしい発明をした。

髪は人間にとんでもないものを与えてしまった。

と うそぶく。

そういう人にとっては
大惨事がおこっても自分の意見と保身だけが 興味の中心であり、
しめしめ 自己主張のための手段に使える と ほくそ笑み あのてこのてで 延命を図る。

病院と年金をもらいにいく銀行だけが社会の積極性である というのが 友愛真実の相です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
nananissethe2ndさんのおっしゃる通り、
宗教がグループの違いになっている気がします。
おいしかったものを友達にも食べて欲しいという気持ちで勧誘をしているなら、
あまり拒絶反応をしなかったかもしれませんが、
友達だからこっちのグループになって!という雰囲気には抵抗を感じてしまいます。
本当に良いものであれば、自ずとみんながそこへ向かうものだと思うので。
神が悪いのではなく、神を良いように使ってる人たちが悪に感じてしまいます。
病院は人を救うことが第一なのに、献血はダメだという宗教も、悪に感じます。
人が多いから、考え方も沢山出てくるのでしょうか。

ありがとうございました。

お礼日時:2011/07/24 16:54

キリスト教徒として生きてゆくためには、上手に本音と建前をうまく使い分ける必要があります。



建前:イエス様は両親がセックスした結果ではなく、木の股から生まれた。
本音:イエス様も人間ならば両親がセックスした結果生まれたに違いない。

それと、歌詞ってのは詩であって、「真実の記述」でないですから、ゴスペルだからといって歌詞の内容の真偽を疑問に思ったりしないことです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
本音と建前ですか。確かにそのとおりですね。
おっしゃるとおりです。
ありがとうございました。

お礼日時:2011/07/24 15:06

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