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特殊な議論になるかも知れませんが おしえてください。わたしは この水の洗礼を受けていない自称のキリスト者です。

ヨハネ福音は《血によらず 肉の意志によらず 人間の意志によらず 神によって生まれる》(1:13)と説きます。水の洗礼は 人間の意志によっているのではないでしょうか。(儀式としては 別の問題です。)

むろん 同じヨハネにイエスの言葉として《水と霊とによらなければ》(3:5)という明らかな文句があり イエスも洗礼を受けたし パウロも受けました。旧約からの継続として そういうかたちを採ったと考えられませんか。割礼も 必要なくなったのだと思います。

解釈だけではいけないとすれば エレミヤ書31:31以下に 《そのとき 人びとは隣人どうし ・・・〈主を知れ〉と言って教えることはない》とあります。うんぬんですが。

A 回答 (46件中1~10件)

誰々がこう言った.



ではなくて
自分の言葉で言うことが大切なんだな.
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この回答へのお礼

agrippaさん この言葉には しびれました。また まだ さらに続いていて なお一層しびれさせるという魂胆ですね。

お礼日時:2007/05/25 21:13

ガラス玉演戯をしてはいけない。

その場を知らないのだから。あなたは弱者であるというのに、ほかの汚れやすい場所を汚す者になろうとするのか。質問はもう終わったのではないのか。

違うゲームへ入り違う言葉を使いぬかるみの上を歩く人は健全ではない。
ルールの高い者のほうが失うものが大きい。
キリスト教徒の処遇はかならずキリスト教徒がしてくれる。

この回答への補足

amaguappaさんに甘えて この場をお借りして みなさんにご挨拶申し上げます。

信仰は 個人の問題であるという見解に わたしは立つことに決めました。

洗礼が 集団として 集団の行事(秘跡など)として 行なわれることと 個人の信仰とは つながりがないという考えです。

また 個人と個人との社会的なつながりは 個人一人ひとりの信仰がその基礎となりますが 直接には信仰がかかわることはない。

このように考えます。みなさん ありがとうございました。

補足日時:2007/05/27 08:15
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この回答へのお礼

忝く侯と存じます。

お礼日時:2007/05/27 01:09

精神が卑しいんだ.



誰かさんの.

普通
これだけ言えば
反省することがあると思うのだが
それが伺えないということが
面白いキリスト教徒だ,
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本当の



アホカ.
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今までに


何の接点もないけれど

心に何かこだわっているものがあると
それは知らず知らずのうちにでてくる.
ある意味
恐ろしいことであると思う.

平和とは自らの心の中の
拘りを,囚われを取り払う作業ではナインか.
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この回答へのお礼

シャローム!!

お礼日時:2007/05/27 01:02

場がぬけていました.



澄みません
馬鹿なもので.
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品がない.................................


とでも言え伝わるだろうか.

優しさも時と場合で
良し悪しだね.
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この回答へのお礼

じゃあ 神を信ずでもなく
神を信ぜずでもなく
無神を信ずでもなく
ただ 人間の精神と理性(同じ?)と感性と・・で考えたり想像したりしているだけとなるのかなぁ。

哲学と神学は違うし 神学と信仰とも違うからねぇ。

お礼日時:2007/05/26 20:28

育ちが悪いんだよね.............

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この回答へのお礼

うぅーーんっ!

お礼日時:2007/05/27 01:03

精神が濁るとはどういうことか.



点が欲しいという
欲望さ.

何時までたっても
餓鬼の根性が抜けない.

この回答への補足

a bientot !!


根性は抜くものか?

補足日時:2007/05/26 19:44
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この回答へのお礼

夕食に行きます。
ごめんなさい。
à bientot !!

お礼日時:2007/05/26 19:44

精神が濁っていれば


伝わることもないと思うが
それでも希望はある.

この回答への補足

どんな悪事であれ それが起こることを許すことによってさえ 神が善をなしたまうことを疑うべきではない。
というのは 神が正しい審判によって許したまうのでなければ そのことは起こらないからであり また正しいことはすべて確実に善であるからである。
したがって悪であるものは それらが悪である限りにおいては 善でないが 神が善いものだけでなく 悪いもの〔にも存在すること〕を許したまうということは善である。
なぜなら 悪いものも存在するということが善でないならば 悪いものが存在することを 善い全能者はお許しにならなかったであろうから。神にとっては 欲することをなすことが容易であるように 欲しないことを許したまわないことも容易であることに疑いの余地はない。
もしわたしたちがこのことを信じなければ 《我らは全能の父なる神を信ず》と告白しているわたしたちの信仰告白の冒頭の言葉が危うくなる。・・・
(《信仰・希望・愛》第六部 神の経綸 第一章 神の審判とその正しさ 三 神は悪が起こることを許したまう場合でも 正しい 《著作集・4》)

きびしいいいいいいいっ。と あらためて読んで思いました。最初に読んだときは ごくらくとんぼだったことになります。

補足日時:2007/05/26 19:37
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