あなたの習慣について教えてください!!

私たちは普段から「私」という一人称を使いますが、
「私」というコアは本当にあるでしょうか。

例えば
私の家は私でしょうか
私の車は私でしょうか
私の家族は私でしょうか
私の体は私でしょうか
私の命は私でしょうか、

すべて「の」がつくものは私の管理物または所有権を表しているに過ぎず、私本体ではありません。
すべては私を構成する一部であるという考え方もできますが、車検が来るごとに交換する私のパーツなど想定したところで意味はないでしょう。
だとすれば私というコアはどこにあるでしょうか。
本当はそんなものは無く、ただ意識があるだけの存在ではないでしょうか。
しいて言えば私とは「記憶」ではないでしょうか。

このQ&Aでは自殺願望がある質問者をよく見ますが、彼らは本質的に勘違いしてないでしょうか。
私の体を殺したところで私が死ぬとは限らないですよね。

A 回答 (8件)

仰ることよくわかります。


きわめて当然な思惟だと思います。

多分ご存知なのでしょうが・・・
「自己」または「自我」というものについての
解釈は古今東西数多の人によってさまざまにされているのですが
実際は私というものが私について考えるのですから
所詮「客観的」な「説明」は不可能といえるでしょう。
まあそれで結局いろいろ考えた結果
「自己は本質的に不可知である」
とかいうばかばかしい答えをもったいぶってだすことになる。

自己というのは言葉でしか存在していないのでしょう。
モノは自己などという意識をもたないのですから。
自己はヒトのオリジナルな概念です。

私はそれでもあえて「私なりに」考えてみるに
自己、いや「自分という感覚」とはつまるところ
不安感なのだと考えると
すべて辻褄があってくるように思っています。

不安感とは
経験が記憶に照らしあわされ
それによって未来像を組み立て(想像する)
それが命を持続するために(持続するから命なのですが)
あやういものと分類されると
ヒトの意識野にそれに無理に注目させるべく発せられる
警告のサイレン、または横断幕のようなものです。
このPCにおいても
なんらかのトラブルが発生すると
そのときやっている作業に警告が割って入ってくるでしょう。
まあ、実にうっとうしいものですが
とにかくそれを解決しないことには
なにも出来なくなる。
不安感とはそういうものではないでしょうか。

記憶というものは静的なものですから
それだけでは人は動かないのです。
それでは生命維持ができないでしょう。
記憶にてらして未来を組み立て、
人を動かす必要がある。
これは生命というからくりをもっているものはすべて
同様でしょう。
したがって想像力は人だけのものではありえない。
アメーバにも想像力はあるはずです。

個体が警戒するには自らの「他」との境界を意識することにもなる。
組織としての個体を維持するために
その個体自体を維持するものとして意識しなければならない。
そこに求心性も生まれる。そしてそれはまた必然的に虚焦点なのです。
自己はきわめて漠然としている。

あなたの仰る自己とは記憶ではないかというのもよくわかりますし
私も昔はそうかもな、と思ってもいたのですが
この点で私は「自分という感覚」は記憶だけではないと思うのです。
自分とは自分を守ろうとする時に意識されるものでしょう。
自分を守ろうとする時に自分という意識をし
意識の中になにか自分というものがある感じがする。
自分という手ごたえというか感触がある。
それが不安感なのだと思うのですが
どうでしょう?

不安感は警戒感でもあります。
絶えず状況にセンシティブになっていなければならない。
で、人には生きている限り
程度の差こそあれ不安感、
また自分という意識(言葉)がたえず張り付いているのでしょう。

「私」の実体は「不安感」なのです。

きわめて拙速にまた簡単に書いてしまいました。
これもすべて不安(私)のなせるわざ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

確かに自分を意識するときは大抵なにか不都合なことが起こったときですね。
失恋、仕事の失敗、将来への不安など。
「私」=「不安感」かどうかは私にはまだちょっと分からないですが、宗教的にいうところの無我になれば不安も消えるだろうとは想像できます。

人間にとって肉体的な不安(生命活動に生じる不都合)なら合理性もあるのでしょうが、それを拡張してしまったのかどうか分かりませんが、心理的な不安というものまで手に入れてしまったのは厄介でした。

お礼日時:2011/07/30 23:06

>私の家族は私でしょうか



 あなたにお子さんがいるとしたら、それはあなたの物ではないですよ。

 若干心配はしています。

 Sorry, I'm not good at English. I have no time.
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>あなたにお子さんがいるとしたら、それはあなたの物ではないですよ。

そこにピントを合わせる必要はないと思いますよ。

お礼日時:2011/07/30 23:25

私の「私」は存在していますよ。


コアとかの言い回しや表現は、物質的、精神的にとらわれ自分を見失った状態にあるように窺えました。
存在している意味の否定でしょうか?
「私」がなければ他の「私」もないことですが、貴方から見た私は誰が否定してでも存在しています。
人間では数十億分の1ですが、存在の否定は逃げの言い訳に見えるのですが・・・
では、貴方から見た向こうに沢山ある人は、飲み食いし何かをしゃべる物質なのでしょうか。
「私」も存在し「貴方」も存在し成り立っているのではないでしょうか。
自分を愛しないもの(認めない)は他人を愛すること(認める事)はできません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

私がこのカテでこの種の質問をするのは私自身にメンタル的な問題があるためではありません。
このカテの質問者たちに視点を変えると当たり前のものが違って見えることを指摘したいためです。
私は自信が無い、私には生きる意味が無い、私は親から愛されなかった・・・・・
こんな質問がこのカテにはたくさんありますが、では私とは何か、生きるとは何か、愛とは何かという問いが無いのです。これはとても奇妙なことです。
言葉、イメージに振り回されていると思います。
私はこのカテでいわばカテ違いの質問を立てることで視点を転換せよと回答しているつもりなのです。

お礼日時:2011/07/30 23:17

肉体や、意識や、記憶等の、


色々な物が組み合わさって出来ているものを、
自己(私)と呼んでいるんです。

他のご質問で回答させて頂いた様に、
絶対的な善悪と呼べるものが無いのと同じで、
私の本体と呼べるものもありません。

あらゆる物事に本質と呼べるものは無い。
諸法無我とは、そういう意味です。


「私の体を殺したところで私が死ぬとは限らない」


そう、究極からすれば、確かにその通り。
でも人の目からすれば、死ぬのも確かなんです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

コアが無いとすると意識とは何でしょうね。
哲学も詰まると宗教的な領域に踏み込みますね。

>絶対的な善悪と呼べるものが無いのと同じで

こんな考え方もあります。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6626429.html

お礼日時:2011/07/30 00:22

 こんにちは。


 話長くなるかな?

 12年くらい前に僕のプロポーズを断れなくて、茫漠と無言になっちゃった恋人がいたんですが、2年後くらいにふらっと部屋に来て「もう犬儒さんしか頼る人がいないの」とか言っていたので、とっさに「あ、お金に困っているんだな」と思って、恋人に現金渡すのも何かなーと思って、椎名林檎のCD2枚上げたら5分後に戻ってきてCD置いて財布から6千円かっぱらって帰って行きました。
 それで怒って電話したら、「来てもいいよ」(昔は「来て」だった)と言っていたので、待っていたら鏡台の前で髪とかしていると思った3秒で全裸になって僕に覆いかぶさってきました。
 あまりの懐かしさのあまり、睡眠欲モードで無言で30分間抱き合っていました。
 まるで彼女の体が自分自身のように感じられたです。
 それ以来、彼女が僕になっています。

 意味不明の話、失礼しました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/07/30 00:07

>本当はそんなものは無く、ただ意識があるだけの存在ではないでしょうか。


>しいて言えば私とは「記憶」ではないでしょうか。

科学的な話ではなくて、『仏法』の話をいたします。
仏法では、実はこの『意識』というものの上に、いくつかの
階層がある事が説かれています。それは『九識』といいます。

【九識】
1.眼識
2.耳識
3.鼻識
4.舌識
5.身識
6.意識
7.末那識
8.阿頼耶識
9.阿摩羅識

この九識のうち、『阿摩羅識』を如来蔵識ともいい、心の作用の
根本として、『心王』といいます。これが生死の流転をするとい
われています。そして、これらはパソコンでいうところの「ハード
ディスク」の様なもので、上書きは出来ても消去は出来ません。
ここに蓄積されたデータの内容でもって、次の生の在り方が決
まるとされています。

No.2様の仰る通り、心理学・医学、または科学では解明する事
は無理でしょうから、“信じる”という事が先に来ることは言うまでも
ありません。



>このQ&Aでは自殺願望がある質問者をよく見ますが、彼らは本質的に勘違いしてないでしょうか。
>私の体を殺したところで私が死ぬとは限らないですよね。

自殺の念は、人間の六道から出るものではありません。したがって
本地を知らずして、あるいは本地を開かずして、解決できない
悩みにより惑わされ行きつくのではないでしょうか。
先にも書きましたが、仏法での流転というものがあるのなら、
悩みの中で自らの命を絶つという事は、また、引き続きその悩み
の中に生まれてくるという事です。

現代は、科学が進み様々なものが世に現されていますが、その
反面こういった思想的・哲学的な事柄が置き去りになってきてい
るのでは無いでしょうか。
本来、仏法というものは、人の生・老・病・死を始めとした“根本苦”
から、人間の命の状態をあかし、自身の胸中を変革し、その変化
を持って、依報である環境さえも変えていくことをあかされているの
です。

少しずつでも良いと思います。仏法を勉強されると良いと思います。
そこには貴方の言う“私”というものが、あきらかに存在しています。
すべて文字として、書物に書かれていることなのです。

最後にもう一度言いますが、“信じるか信じないかは貴方次第”です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

仏教はそういう考え方が発展しているので参考になるかもしれませんね。

お礼日時:2011/07/30 00:07

>本当はそんなものは無く、ただ意識があるだけの存在ではないでしょうか。



そうです。自分のコアに関する解釈は心理学・医学では無理でしょう。
自己、意識、認識、これらの探求は哲学分野で行われています。
メンタルヘルスより哲学スレッドへどうぞ。早く元気になって哲学でもやってください。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

本当に哲学を必要としているのはこのカテの質問者たちだと思います。

お礼日時:2011/07/29 12:31

言葉遊びの罠に嵌っているようですね。



>私の体を殺したところで私が死ぬとは限らないですよね
死にます。

私が存在するには心が必要です。
体が死ねば脳は動かなくなり心がなくなります。
結果死にますよね?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

私が言わんとするところはそこでは無いのです。

お礼日時:2011/07/29 12:22

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