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こちらで この質問をすると複雑になりすぎてしまうかな^^と思い 忙しかったのでアンケートカテで同内容の質問をしてみたのですが  少し時間がとれそうですし、  こちらで再質問させていただくことにしました。

実人生は 複雑です。 とても ことわざが すべてにおいて当てはまるなどということは考えられません。

例えば 「猿も木から落ちる」ということわざがあります(アンケートカテでは「失敗は成功の母」を例にとって説明しました^^)。

この「ことわざ」と 似た意味のことわざが結構多く知られている「ことわざ」ですが、 弘法にしても^^、猿にしても、失敗することがあるのだから 私たちが 失敗するのはあたりまえ、 気にしないで進んでいこう♪ とかいった意味合いの「ことわざ」だと思います。

でも あえて ここで その意味合いに まず反論をしかけてみるのです。

反論→ とんでもない、 猿と人間の木の上での能力は次元がちがう。 弘法と私たちの筆の世界も同じく。  その次元の違う世界の失敗もありえることを引き合いに出して、自分の失敗を 軽く考えてしまうのは甘えでしかない。  

といったふうにです。

しかし そこで 同時にその反論への反論をも考えてみてください。

反論への反論→ 次元が違う失敗は 確かに次元が違う。 しかし 人は常に一歩一歩は進歩してゆける存在であり 高次の失敗も その過程を踏んでやがて 高次の失敗にたどり着いたということなのだから、 考えすぎずに 単純に 「猿すら木から落ちるのだから」と 失敗にめげず前に進んでゆけばいいのだ。 

というふうに考えることで より深いしっかりした「ことわざ」の解釈を得たりします。

弁証法の テーゼ→アンチテーゼ(反論)→アウフヘーベン(止揚) ですか その 止揚を「ことわざ」の解釈の世界に当てはめて 考えてみようという実践的哲学質問^^です。


「失敗は成功の母」というアンケートカテでの例を ここでも掲げれば、(ここではさらに掘り下げた言い方をしますが)

反論→ 人間も生物としての死があり一生涯があるのだから どんなに失敗の中に成功の素が隠されていようとも それを生涯努力しても見つけることができない 取り返しのつかない失敗というものもある。  そんな場合の 失敗は とても成功の母とはいえないではないか。

反論の反論→

おっと これは 質問者からは ここまでとさせていただきます^^。

アンケートカテでは 「人生万事塞翁が馬」でも 例示してますが、 こちらでは 上記の例のみとさせていただきます。

「ことわざ」は ことわざ集から 適当に選んでもいいですし、 思いついた「ことわざ」から 二つの反論を書いてもいいですし、  そのへんは おまかせします。

一応 例として、「ぬかに釘」 「馬の耳に念仏」「知らぬが仏」「出るくいは打たれる」とかとか 今思いつきで書いてみましたが、  これを使ってもいいですし、

ともかく  反論 とその反論への反論 までを 考えて書いてみてください。

哲学脳柔軟体操^^でしょうか?

別に困ってはいないですが、 忙しくないわけでもないので「すぐに回答を!」を選ばせていただきます。

よろしくお願いいたします。

A 回答 (4件)

ご要望に応えて



多弁に智なし
雄弁は銀
沈黙は金
無為自然が一番          オタマです。

嘘、冗談です。
しかし、筆問文を見ると。哲学(という言葉)のバーゲンをしている
(あなたの場合は弁証法の言葉ですが)自称天才くん、に
似ている。と感じるのは私だけでもないと思います。
「ことわざ」を止揚する。という表現は(ヘーゲルの)弁証法思考には
ないと言えます。

ヘーゲルの弁証法と言われる考え方は
テーゼ(定立) がある、もしくは、起こる、と必ず
アンチ テーセ(反定立) が一体(テーゼを縁として)ある、もしくは起きる。
         そして、両者の葛藤対立の結果として
ジン テーゼ(統一) となる、もしくは、一体となった形態が起こる。

というような、考え方であり

アウフファーベン(止揚)とは、ジンテーゼ(統一)の形態として考えられたもの
でしょう。
数学に例えると(事実に合致する考え方は、数学に合致する、数学式で
後付の理屈が付く事が多いが、数学が、知恵、という訳でもない?)

縦の距離「m」があると(テ-ゼ)
横の距離「m]があり(アンチ テ-ゼ)両者が一体となって
面積「m^2」となる(ジン テ-ゼ)

では面積「m^2」 とは何でしょうか。
距離「m」ではない。  距離は否定される
距離、がなければ、 面積は起こらない。距離が保持されている。
距離と面積は別単位である。別のものになっている。
面積「m^2」は「m」より高次の単位である。
となります。
この。保持する。否定する。別のものになる。より高いものになる。
が、止揚(アウフファ-ベン)4っの意味、と言われるものになっています。      

つまり、「ことわざ」を止揚する。ではなく、弁証法思考なら
まず、「ことわざ」の反定立は何か?それによって、統一、となるものは
何か?それは、止揚された形態になるのか?
では、ないでしょうか。

「ことわざ」とは先人が造った言葉、架空、であり。反定立はない、意味と。
逆の意味の「ことわざ」が反定立となる。意味があります。
意味が逆の二つの「ことわざ」を一体にして、統一としてあらたな「ことわざ」
が起こるか?二つの「ことわざ」を争わせて、個人の認識が変わり、止揚
されるか。という質問なのか。
弁証法の対立物としての、形而上学的に、いろんな「ことわざ」を並べ、評価する
事、知識、を増やす事によって、認識が、止揚、思惑が
知恵、に転化するか?という質問でしょうか。
いずれにせよ、難しい、答えようがない質問。ではないでしょうか。

ついでに、「猿も木から落ちるについて」
「哀れ猿の両頬に木の実を頬張り、片手に木の実を掴み、
その上、もう一方の手でまで、掴もうとする」
(だから木から落ちる?)という釈迦の言葉が語源ではないでしょうか。
  

この回答への補足

ご回答 ありがとうございます。

まずお礼を先に書かせていただいたのですが、 ここは補足質問もさせていただきます。

お礼に書きましたように  ゜質問の仕方が「一気に豊な回答をここに求めすぎ」という欲張りの失敗だったあたり ゛はいなめないようです。

最後の結語でオタマさまが示唆してくださったところこそが 当たっているのでしょう。

しかし これは 質問の仕方が悪かったとも言えるかもしれません。

まず 再質問ですが、

アカデミックな へーゲルの弁証法などの世界で使われる「止揚」という言葉の世界では、

タイトルの《「ことわざ」を止揚すると》というような言葉の使い方はしない ということでしょうか?

そのへんが無知なもので、 この質問文をさらに複雑にしてしまったかもしれません。

このタイトルの意味合いをまず 定義する必要があったでしょう。

「止揚」という使い慣れない言葉を使用しないでも、

同じ意味内容のタイトルは可能です。

《「ことわざ」の解釈をさらに煮詰めてみると》

というタイトルであるべきだったかもしれません。

しかも ほんとうはまず 「ことわざ」に対してAという解釈をしておいて (それをテーゼとしておいて)  さらに煮詰めるとBの反対事例をともなう事例を考える(これは BCDEとつぎつぎ出てくるかもしれない) その上で 煮詰まった結論として もう一度Aが成り立つ解釈が生まれるなら そういう解釈を考えてみよう  という 
 
これはいわゆる文の起承転結の流れと同じような思考法だと思うのですが、そのような 設問だったわけです。

そして 私の質問意図は ともかく これによって いろいろな反論事例が出てきて それがゆえに より豊かな解釈が起こるという特徴が「ことわざ」には 考えられるという点、

つい ここに その豊かな回答を なんと よく考えてみれば あらゆる「ことわざ」に対して求めている質問をしてしまったということです。

これもよく 反省してみれば 文は「一文一テーマ」が解りやすいと聞きますが その真逆での質問文でもあったことになります。

煮詰めるならば 一つ一つの「ことわざ」を それこそじっくり検討するという もっとゆったりとした質問にすべきだったところでしょう。

しかし そちらの 私の質問に対する反論の中には 上記の《解釈》を 最初のテーゼとする思考が  抜けている気がするのです。 (最初の私の質問文にそのへんが言葉足らずだったことが 一番いけなかったところでしょうが)

この 

《解釈》を まず最初のテーゼとして の その止揚 ということであれば  弁証法とも矛盾は無いところでしょうか?

そのへんだけ  もし私に解る解説ができるようでしたら 教えてください。

よろしくおねがいいたします。

補足日時:2011/08/27 11:27
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この回答へのお礼

オタマ様 さっそくありがとうございます。

はじめまして イワマヒコです。

うmm、 私は 自称舞踊家(あるいは舞踊文化革命家)であって 頭は鍛えられてるところもあるのでしょうけど むしろ欠陥も大きいです。

それに 哲学の学問(アカデミックな世界)に関しては かなりの無知です。

《「ことわざ」を止揚する》  という文は 哲学のアカデミックな世界では 文の使い方が間違っているのでしょうか?

そのへん補足質問させていただきますね。


》いずれにせよ、難しい、答えようがない質問。ではないでしょうか。《

質問の仕方や 設定の仕方が そう思わせてしまうものとなっているようです。  そのへんを再考してみます。

ありがとうございました。

》ついでに、「猿も木から落ちるについて」
「哀れ猿の両頬に木の実を頬張り、片手に木の実を掴み、
その上、もう一方の手でまで、掴もうとする」
(だから木から落ちる?)という釈迦の言葉が語源ではないでしょうか。《

私は いつしか 舞踊思考に関しては 猿の域になっていたかもしれません。  しかし人間哲学する存在としては お釈迦様の言われる猿にすぎなかったかもしれません。

私の身近な人の中に 私とは逆の頭の切れる青年がいます。

学生時代は 陸上に関東大会優勝者であるほど 打ち込み ほとんど授業中は眠っていながら いつも学年トップ^^。(これも私とは真逆^^)

この人が 「わたしは教えるのが下手だ。 なぜなら、どうして解らないのかが解らないからだ」と 豪語します。
 
カッコよすぎ^^。

「でも スノボーだけは 教えることが出きる。 苦手だったので憶える苦労が解るから」だそうです(笑^^)

この質問 たしかに、 よく考えてみれば  より豊かなより多くの経験、体験の世界を引き出せるかな、という希望はいいのですが、  まさに欲張りすぎ^^。   

おそらく猿も木から落ちてしまうという 釈迦の言葉の通りの失敗をしているのかもしれません。

オタマ様の 結語こそ、 哲学カテとしては たしかに最大価値のある御回答のようですね。

ありがとうございました。

目を覚まさせていただきました。

一度締め切りたいと思いますが  この質問の仕方に関する補足質問だけ このまま書かせていただき  オタマさまの再回答を待って その後のこととさせていただきます。

ありがとうございました。

お礼日時:2011/08/27 10:44

お礼ありがとうございます。


諺は先人の経験知が結晶したものですから御質問は意義深いと思います。
しかし、問答法を使った回答というのは、正直戸惑います。
自己分析すると、乗りが悪く頭が固くなっているのだと思います。
哲学カテは概して乗りが悪いのですが回答がつかないかもしれません。
誰か先陣をきるひとがいればいいのですが。
そうだ!おたまくんカモーン!
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この回答へのお礼

再回答 ならびに、 お心遣いありがとうございます。

私の場合 実は舞踊(創作舞踊に近いと思う)を追求してきました者です。

歌を踊る場合 あるいは歌そのものでもいいのですが、 よりよい表現のためには、歌詞の解釈を深めるという作業が必須となります。

その解釈が深いと、 表現がまるで違ってきます。

そんなところから 「ことわざ」にも 自然に解釈の深みを求めてしまうのかもしれません。

》諺は先人の経験知が結晶したもの《  

と書いてくださったわけですが、 私は そこに その文だけを見る見方にならないように気をつけています。

文の全体から お人柄を想像して、 その文を 解釈してゆく形です(その心がけということで、 なかなか 「言うは安し行うは難し」ですが^^)。

私は、諺は おそらくそれが生まれた時点では それが当てはまるケースにかなり縛られた かなり狭い地域性かなり狭い経験の世界から生まれたものと考えます(一概に言えるところではないかもしれませんが、言いたい意味は解ってください^^)。

これを「反論」とすれば、その誕生としての生成に関しては 経験知とよべる知恵や知の豊かさの結晶とは言えないのでは と思うということなのですが、

これが 長い歴史に 残り続け しかも 多くの地域に広がっていった歴史があるという事実が 私にとっては 「例えば私自身の経験」をはるかに超えた豊かな何かであると感じさせるとことなのです。

多くの人が そのケースを べつな体験を通して 深く体験しているという ほんとうに豊かな世界があるはずだということを推理できるところ、  その豊かさを引き出せたらなと思っただけとも言えます。(この質問の目的です)

つまり その意味では なんとも豊かな 人類の歴史の経験知の結晶という定義は まさに含み豊かに当てはまるところとなるかと思います。 こうして 反論は反論され 止揚された解釈で、そちらが 書いてくださった 文を そちらが やはり 洞察は深い人であり  一気に何かを直感的に深く解釈できる人であることがわかってくるわけです。

少なくともMOG56222様が頭が固いということは あまり考えられません^^。 

私は 言葉については、たぶん舞踊と逆なので いちいち 思考過程が めんどくさい手続きを必要としている人間なのだと思います。 

ただ、止揚というのは、確か弁証法というよく知られている哲学の伝統と思いましたので、 みなさん、むしろ慣れているかな?と思ってしまったのです。

質問は言葉の組み合わせで生まれます^^。 この考えも舞踊家的なのかもしれませんが^^、 そのかぎり すべてテストケースと考えていますので、 回答がつかないことにそれほど落込んだりはしません^^。

目的のためには 文を変え 時やカテを移し さらにその目的を求めるかもしれませんし、 その目的自体を変化させてゆくかもしれません。  それだけのことですので、ご心配は無用です^^。

ただ 》乗り《
 
と書いてくださりましたが、 そうですよね。 

それがあれば、 おそらく この質問からは、 豊かないろいろなケースの実体験談が生まれ  私たちは そこから多くの学べるには違いないと思うのです。

》そうだ!おたまくんカモーン!《

OKウェブ活用は 数年ぶりなので^^、 今現在のいろいろな様子はわかりません。

おたまくん
 
んnn  めんどくさい思考法でも、有意義なら 乗ってくださる人なのでしょうか^^?

ならば! おたまくんカモーン!(笑^^)

お心遣い ほんとにありがとうございます。

お礼日時:2011/08/26 18:58

こんにちは


諺はよく洞察すれば、矛盾がないようにできていることが理解できます。
例えば、善は急げは善行やめでたい行為は進んでやれという意味で、果報は寝て待ては人事を尽くした後の結果は心配してもプラスにならないという意味でしょう。
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この回答へのお礼

さっそくご回答ありがとうございます。

》 諺はよく洞察すれば、矛盾がないようにできていることが理解できます。《

うむむ、 ここがでも、なんとも言えないんです。  よく洞察しても それなりに矛盾が出てきてしまう解釈も生まれてしまいますし、さらに洞察すると それないにその矛盾が解決できるケースも見つかったりします^^。 

でも これは何も「ことわざ」に限ったことではなく 人生すべてにあてはまってしまうところでしょうが、 反論、さらなる反論と いうふうに反論を重ねてゆけば  やがてすべてのケースが より見通せるようになり 価値はその分明快になりしっかりしたものになり 豊かになってゆくと思います。

そこで 人生について昔から語ってきた 伝統の「ことわざ」がここでの槍玉にあがったということです^^。

★善は急げ、→》進んでやれ《 ですか。 なるほどすでに何か止揚された洞察で解釈されていますね^^。

★果報は寝て待て→ 寝てればいいのか?という疑問をすでにこれも止揚されてるわけですね^^。

ですが、 思考過程としての 最初の反論の部分が表現されていないと 洞察後の解釈が 飛躍的な解釈にも見えてきてしまいますね。

フレシキブル 、フィージーな言葉だからこそ 生き物のように歴史に残り続けたとも考えられますが、 ここが情報化社会、 一度 分解して エキスは何かを探ってみたいと思いました。

できれば 質問のセオリーどおり 過程の反論の部分も書いていただけたらと思いました。

洞察の深さから 知恵の深さが理解できるご回答と思いますので、 もしよろしければ そのへんの意図を汲み取られた再回答を期待したいのですが、よろしいでしょうか?

補足質問という内容ではないのでこちらに書きましたが、 MOG57222さん よろしくおねがいします。

ありがとうございました。

お礼日時:2011/08/25 19:36

人間の行う事は、物理学のような絶対性はありません。


おっしゃるような反論をせずとも、「二度ある事は三度ある」には、
「三度目の正直」のように、逆が用意されています。
例示の「猿も木から落ちる(プロもたまには失敗する)」には、
「餅は餅屋(プロに頼め)」、弘法ネタにしても、「弘法も筆の誤り」
には「弘法筆を選ばず」があります。
“ことわざ公理系”においては、Aも非Aも成り立つ、と主張されて
いる以上、反論に意味はありません。
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この回答へのお礼

さっそく御回答ありがとうございます。

質問意図を予測されての それへの反論でしょうか^^?

わざわざ それをちゃんと「ことわざ」を使って説明くださり ありがとうございます。

その反論への反論はありますよ^^。

「ことわざ」は 含みが豊かです。

ですので たしかにおっしゃるように べつな地、べつな歴史から生まれたであろう「ことわざ」にしても、 それぞれ おたがい矛盾する示唆を語っていても 時と場によって当てはまる人と当てはまらない人が出てくるところでしょう。

私は物理学は解りませんが、 しかしながら ある一定条件においてはAも非Aも成り立つというふうには私は言っていないですし、  実人生においては その含みがあるために逆の示唆が成り立ちえるのであれば、 その反論には意味はありません^^。
そうではなく 逆の場合もある点を すこしでも明確にすることで、示唆があてはまる場合のその示唆内容がより明確になることがあり そのための方法論の一つとしての「止揚」を使用してみたということなのです。

というふうに、です。

私の掲げた事例が むしろ複雑な例となってしまったかと思い
ます。

「失敗は成功の母である」という例示のほうがたぶん解りやすかったかとおもいます。

取り返しのつかない場合以外は 実は 失敗は成功への実験としては成功だとも言える面は確実にあったりします。

おそらく 取り返しのつかない場合についての考察を深めることで そのへんがより明確になると思われるのです。

そうした 豊かな 更なる思考結果を質問にて求めることを、この質問の目的と考えての質問、  私自身は 意味があると思って質問しています^^。

この回答も こうして より豊かな思考結果を ここに生んでいると思います。

ありがとうございました。

そうそう これは補足質問ではないでしょうが、 もしこの反論への反論があれば いつでも どうぞ。

もちろん 新しく わたしの意図をくみとってくださっての再回答も大歓迎です。

ありがとうございました。

お礼日時:2011/08/25 15:42

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