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日蓮聖人の解かれた仏法で幸せになれるという創価学会の教えなら、南無妙法蓮華経を唱えれば幸せになれる、人間革命が出来る、境涯を変えることが出来ると言うのならば、わざわざ創価学会でなくたって身延山久遠寺やその末寺で南無妙法蓮華経を唱えても同じだと思うのですが、結局はどこでどの教団にしろ、寺院にしろ南無妙法蓮華経の功徳や効果は同じだと思うのですがいかがでしょうか?

A 回答 (7件)

それを言ったら儲からない(信者が増えない)でしょう。


時代により、相手により信仰のスタイルは違うわけです。
鎌倉時代ですか?日蓮という人は当時の民衆に合った(または可能な)信仰として「南無妙法蓮華経」と唱えなさい、と言ったのでしょう。そもそも魔法ではないのですから、南無妙法蓮華経と唱えても功徳や効果はありません。成仏できる、幸せになれると「希望」を与えることが目的でしょうし、信仰へのきっかけでしょう。

創価学会や日蓮正宗などのカルト教団は、「入信すると幸せになれる」「こうしなければ幸せにはなれない」などというように非常に偏った考え方を信者に植え込み、信者を欲や恐怖で縛るわけです。(好んで縛られている人もいます)

本当はそのように偏ったり、拘ったりする「心」についての問いや学びが宗教(信仰)ですから、まとも宗教指導者は「この宗教でなくてはならない」などということは言いません。
ただし、他の教団の批判ばかりをしたり、排他的で偏った考えの信仰については、激しく否定します。それは「宗教」ではないからです。カルト教団というのは宗教ではありません。

インチキ宗教は「正しい」とか「間違い」とか、そのようなことばかりに拘るように信者の心をマインドコントロールのようなもので操るのです。そして信じる気持ちばかりが強くなり深く考えることを止めてしまいます。「すばらしい信仰に出会った!」「本当の信仰に出会った!」と感激し、ある意味それが「希望」となり生き生きと見えるわけですが、結局は信仰に「依存」する弱い人間を作っているのです。
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一番わかりやすい違いは、以下の通りです。


・日蓮宗は、神社への参拝は、問題ありません。
・日蓮正宗は、戦中、神社の札を受け入れました。
・創価学会は、日蓮正宗が神社の札を受け入れる事に断固反対しました。
 今でも、神社への参拝は禁止です。(観光なら問題ありません)

靖国神社情報
http://sites.google.com/site/yasukunijinjamondai
http://sites.google.com/site/yasukunijinjamondai …

そもそも成り立ちが違います。
例えば、創価学会の言い分ですと、日蓮宗が日蓮の教えを守らなかったので、日蓮正宗ができ、日蓮正宗が、日蓮の教えに反した事をした為に、創価学会を作ったそうです。

日蓮系の宗派は、他の宗派に比べても、他宗教や他宗派には攻撃的ですが、それでも、創価学会に比べると日蓮宗は、わりと寛容的ですし、そもそも拝む対象も、日蓮、仏、神と、特にこだわりはありません。
寛容的とゆう表現も、言い換えれば信念が無いとか、いい加減だと言えなくも無いでしょうけど・・・・

創価学会自体は、戦後にできた新しい団体なので、設立には、既存の宗派を否定する、なんらかの理由があったはずです。
創価学会に限らず、新興宗教は、そのほとんどが、既存宗教からの発展だと思います。
よって、功徳や効果が、既存の宗教と同じだと思う人は、少なくとも信者の中にはいないでしょう。
キリスト教で言えば、ルターがカトリックからプロテスタントを起こした様な感じです。

100%同じ教義なら、別々の宗教団体にする必要はありません。
わざわざ、宗教団体として分かれているからには、他の団体との違いが必ずあるはずです。
「南無妙法蓮華経を唱えれば・・・・」が、創価学会や身延山久遠寺の教義の全てでは無いので、あまり、そこにこだわらず、本質的な違いを見つける方が良いかもしれません。

参考URL:http://sites.google.com/site/yasukunijinjamondai
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No.2です。



>私の実家は天台宗ですが、天台宗でも南無妙法蓮華経を唱えるのですか?
>私の祖父母は南無阿弥陀仏を唱えていましたが。

私の実家も天台宗ですが、祖父、父の葬儀の時に
法華経 寿量品の自我偈の読経とその後南無妙
法蓮華経の御題目を三編くらい唱えていましたよ。
もちろん、その他の(何だか良く分かりませんが)経文
も唱え、念仏も唱えていましたよ。


>それと後半の方がやや学会寄りの意見になり、日蓮正宗を悪者扱いにする意図が取れます。
>そうではなく、学会・正宗どちらにも偏らない中立性のある説明を求めます。

創価学会の人間ですし、学会寄りになる事は当然
でしょう。また、日蓮正宗に非が無ければわざわざ
独自路線にはなりませんよ。
偏らないと言ったって、内部においての事実であり
ますし、偏りは無いと考えて回答していますよ。
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それならばお話は合いそうですね。


もう少し詳しく言えば、信じているだけでもダメ。

行動することこれが重要。
つまり他人への無償の愛が功徳ということです。

そういう意思が強い人達が集まるところに霊的な力が働きます。
だから同じ信念を持った集団は強いといえますが、
逆にいえば邪霊にも利用されやすいんです。
この事実は霊魂側からもさかんにメッセージを送られて来ています。

人間の想念って結構厄介ですから。運命転換とかいう奴ですね。
この辺に私が創価学会に入りきれない理由があります。
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これははっきりと違いますわね。


あなたは霊魂や輪廻転生の存在を信じてまして?
そういうのを信じない方に功徳なんて有るわけありません。

オームって宗教団体があったわね。
ああいう集団に属している人達が救われましたか。

あまりおしゃべりもするなと言われてるのでこの辺で。

この回答への補足

私は輪廻転生を信じていますし、霊魂を信じていますよ。
信じているなら功徳があるのですか?

補足日時:2011/10/30 23:21
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創価学会 壮年部の者です。




先ず、御題目についてですが、

『南無妙法蓮華経』

この読み方(音声)については、同じです。
創価学会だけではなく、日蓮正宗はもとより
日蓮宗、天台宗についても同じです。

次に、御本尊ですが、これが各宗違って
きます。天台宗はもちろん『南無妙法蓮華経』
の曼荼羅ではありません。

今、現在の日蓮宗の本尊が何を用いているか私は
存じてはおりませんが、そもそも、日蓮大聖人御在
世の当時、波木井の里、身延山に草庵を築いたのが、
現在、日蓮宗の総本山になっている『身延山 久遠
寺』の始まりです。約10年間、日蓮大聖人と共に弟
子達が寝食を共にした場所です。
しかし、大聖人御入滅後、弟子の一人日向が地頭
波木井実長と親密になり、釈迦像を建立したり、神社
参詣を許可したり、謗法の山となってしまいました。

その時、日興上人は、弘安二年に日蓮大聖人が現
された御本尊と共に身延山を降り、富士の大石が原
に『大石寺』を立てられました。これが現在の日蓮正
宗 大石寺です。

また、日蓮大聖人は御在世中に、日興上人にたいして
相承書を送られていますので、この時点で、日興上人に
連ならないものは、日蓮大聖人の御血脈は受け継がれ
ない事になります。

日蓮大聖人の仏法については、『本門の本尊』を第一
としています。したがって、『南無妙法蓮華経』と御題目
だけ唱えても、本尊に向かわなければ意味の無いものと
なります。

さて、日蓮正宗についてですが、先にも書きましたように
日興上人が身延山より大石寺に移した大御本尊は今
日蓮正宗に安置されています。
しかしながら、当時の日蓮正宗監頭:日顕は平成二年に
池田名誉会長を、平成三年に創価学会を破門し、本来、
広宣流布の本山としてあるべき日蓮正宗を、私物化して
しまったのです。
いくら本尊のある本山だとしても、日蓮大聖人の表わされた
民衆救済の為の仏法を、自身の嫉妬に狂い見失った本山
では、いくら熱心に信心しても功徳はありません。

そういった消去法から言っても、日蓮大聖人の仏法を
そのままに受け継ぎ、実践している創価学会の信心の
中にしか、宿命転換できる道はありません。

『南無妙法蓮華経』の御本尊についても、『南無妙法蓮
華経』の御題目についても、日本全国、そして全世界に
広めたのも、牧口初代会長、戸田第二代会長、池田第
三代会長を中心とした、創価学会ですよ。

宗門、法華講では折伏の概念なんか無くしていたのです
から広宣流布なんて鼻から無理な話ですよ。

この回答への補足

説明丁寧にありがとうございます。
私の実家は天台宗ですが、天台宗でも南無妙法蓮華経を唱えるのですか?
私の祖父母は南無阿弥陀仏を唱えていましたが。

それと後半の方がやや学会寄りの意見になり、日蓮正宗を悪者扱いにする意図が取れます。
そうではなく、学会・正宗どちらにも偏らない中立性のある説明を求めます。

補足日時:2011/10/30 22:42
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個人的意見ですけれど、日蓮さんは唱えれば大丈夫なんて言っていないんじゃないかと思います。


南無妙法蓮華経は題目で、これは教えに帰依する宣言です。題目は文字通り経の題を意味しますが、同時に題目を唱える事によって経を読んだと同じとされています。とはいえ本来は、全館読み終わったあとで唱えねば意味の無いことでしょう。
それが何時しかマジナイの様に、題目さえ唱えれば呼んだ事になってしまっているわけです。
また題目を連呼する事によって、法華経に従い、そのような障害をも乗り越えていく心を強くする意気を高揚させる意味もあります。

一方南無阿弥陀仏は、それにより往生を約束される阿弥陀仏そのもの、或いはその威徳が周囲に満ち溢れ、その中に身を置く事で安堵の心になる。その安堵の気持ちを感謝に替えていく事が目的です。

でも、日蓮宗はその排他的性格がゆえに、自らの中でも解釈の違いによって分裂を繰り返すハメになっています。
だから、きっとこの世に日蓮さんが戻られたら、「こんな教えは説いていない」と怒るでしょうね。

もし、お題目を唱えれば、それで幸せになれると創価学会が説いているなら、それはすでに唱題ではなく唱名でしょうね。
つまり日蓮の教えじゃないって事です。
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