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音楽に関する以下の文の日本語訳をお願いします。



Le travail de l'orchestre est proprement ahurissant: il réussit à trouver une voix nouvelle, radiculament différente de ce qu'on avait entendu dans l'adagio, miroite en dizaines de "points" sonores qui s'épanouissent, sans que jamais on ne perde un seul élément de l'ensemble sonore: la harpe magnifique de Marie-Pierre Langlamet est d'une rare présence, les mandolines finales, si souvent étouffées par le reste, apparaissent avec un relief inoui, c'est bouleversant de bout en bout.

Une fois de plus, Abbado fait entendre une oeuvre qu'on croyait connaître et qu'on découvre d'une fraîcheur incroyable où se lisent jeunesse, vigueur, ironie, mélancolie, joie, amertume dans une ténébreuse et profonde unité, dirait Baudelaire. Oui les couleurs et les sons se répondent, oui, ce n'est plus de la musique, c'est un art syncrétique où se mêlent musique, poésie et peinture: jamais je n'ai tant pensé pendant l'exécution phénoménale de Berlin à une lecture "picturale" de l'oeuvre.

後半部はそこそこわかるのですが、前半部のマンドリンやハーブの説明の箇所がよくわからないです・・・・
よろしくお願いします。

A 回答 (5件)

私が彼女のいうボードレールの「人の良い某」だと思います。

なかなか面白い記事で、マーラーに関連するとはすばらしい。しかし、質問の仕方として、用途が書いていないのは問題だとは思いました。仕事で使うのですか。それとも学生さんが、大学の講義を聞いていなくて、訳してもらいたいのですか。これで、訳し方が変わるんですが。大学の場合、意訳は許されませんから、面白くなくても、逐語訳にします。

―――
オーケストラの仕事は実に見事である。この仕事は一つの新しい響きを発見するにことに成功した。その新しい響きは、根本的に、アダージョで我々が聞いたことがあったものと異なる。またその響きは、十二の「点」において、きらびやかで、これらの「点」は、のびやかに広がるのである。さらにこの響きは、音のアンサンブルの一つの要素としても、決して、失っていない。マリー=ピエール・ラングラメの見事なハープは稀有な存在であり、最後のマンドリンは、その余韻がときどき鈍い音をさせているが、かつて誰も知らない奥行きをともなって現れるのであって、隅々に至るまで衝撃的である。

一度ならず、クラウディオ・アバドは我々がすでに知っていると思い込んでいた作品を聞かせ、その作品に、信じられない爽やかさを、我々は見出したものである。そこに読み解けるのは、ボードレールが言うであろう、暗く、深い統一の中にある、若さ、力、イロニ―、メランコリー、美しさ、苦しみである。そうだ、色と音は応えあう。そうだ、それはもう音楽ではない、むしろ、混淆主義の芸術なのだ。そこでは音楽、詩、絵画が混じり合う。私はかつて、ベルリン・フィルの驚くべき演奏の間、かくも作品の「絵画的な(=目に見える)」読解を考えたことはなかった。
―――

巨匠の指揮なので、恥ずかしいほどに、褒め殺しですね。前半の方が簡単なので、後半が分かって前半がダメということは無いはずです。ちょっと難しすぎたのかな、と思います。まぁ、いいでしょう。学生さんの場合は、教員が悪いのですから。後半は、詩みたいになっていますね。Ouiと繰り返しながら、自分で自分の意見を確かめているのです(オクタヴィオ・パスの詩にそんな言い回しがありましたが)。

後半で問題になっているのは、共感覚というもので、いい香りをかいだら、嗅覚のみならず、視覚や触覚が刺激されて、幻影が見えたり、音楽が聞こえたり、というものです。詩人のボードレールが「万物照応」(『悪の華』収録)でうたった感覚です。フランス語では、単語がほとんど同じですから、引用しているのも同じです。でも、フランス人なら、正直、知らない人はいないことでしょう。だから、引用とする必要もないほどで、教養ある読者は、ちょっと誇らしい気持ちになるでしょう。この評論の作者は、詩人になりたかったけれど、なれなかった人なんだろうなぁ、と想像できます。

さて、こうした感覚の交わりという意味で、最後に、ピクチュラルと言っているのですが、議論は、厳密に構成されているわけではないので、やはり読者の教養を刺激するためと言ってよいでしょう。ボードレールが応用された例と言えますか。でもホラティウスの頃から、「詩は絵画のように、絵画は詩のように」と芸術ジャンルの越境は言われてきたのであって、必ずしも、ボードレール独自の意見ではありません。もっとも、ボードレール好きの私としては、少し気分がいいですね。深く知りたければ、「万物照応」をお読みください。井上究一郎の訳だと、「交感」となっていますが、これが読みやすいかな。私としてはサーヴィスしているつもりですが、あなたが仮に、他人任せで勉強したくない人なら、「意味わかんねぇ」と叫んで終わりかもしれません。そんなことありませんように。

交感

自然は一つの古代神殿、立ち並ぶ生きた円柱は、
ときどき、判じにくい言葉をもらす。
人がそこを通って、数々の象徴を秘めた森に分け入れば、
森は親しいまなざしで人を見守る。

長いこだまが遠くから交わり合うように、
そこでは、夜のように、光のように、広漠とした、
真黒くて、深い、一つの統一の中に、
応え合うのだ、匂いと色と音が。

匂いには、幼子の肌えのように初々しい、
オーボエの音のようにやわらかい、牧場のように緑の、匂いがある。
――またほかに、腐乱の匂い、豊満な匂い、旺盛な匂いもある。

それらは、無限に広がる物質の要素をもち、
竜涎、麝香、安息香、撒香のごとく、
精神と諸感覚との交流をうたう。

(※)例の箇所は五分で訳したので、間違いがあったら、雨合羽さん、直しておいてください。
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最後のところ、音声再生での聴き取りでなく画像再生での聴き取りというのは、特に固執しませんが、おそらく質問者さんはざっと全体を英語でお読みになった方だと思いますので、a "pictorial" reading


であることが判ればそれでよしとされてください。
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tomotlife さん はじめまして



あなたの小気味の良さに魅かれて
小筆を執り、ご不明の点のみ回答

蕎麦に、七味をふりかけて
山際に、目をやり紅葉狩り

前半部ハープ/マンドリンの個所は
上記の拙文二行に集約されています

rareが七味、山際がreliefですね

d'une rare présence それは稀な存在
『稀』は貴重であること、貴重でなければ
敢えて『稀』と形容する必要はないでしょう
-しかるべき時に、どこからともなく立ち上がる音-
主役の蕎麦にかなわないが、欠かせない拘りの薬味
その役割を演じているのが、ハープと言っている

un relief inoui それは確かな耳が得心する調べ
reliefは、ご存じの起伏、強弱などなどです
紅葉狩りで、紅葉した木々(ここではle reste)だけに
注目しておりますか 山際(ここではun relief つまりマンドリン)に
そっと視線(耳を欹てる)を移して天空やたなびく雲の色との対比で
いっそうの季節感(bouleversant de bout en bout)が生まれている

かような解釈は、この文にあるfinalesの位置に注目して見るとわかります
les mandolines finales, si souvent étouffées par le reste
apparaissent avec un relief inoui

apparaissent finalement avec と記述されていません
それに、si souvent étoufféesと既に何度となく登場
最終楽章でのみ、relief inoui なら、finissent à ~でしょう
つまり、mandolines finales をマンドリンの主旋律と解釈し
その旋律は、他の楽器の旋律で、幾度となく(その存在感は)”一聴きでは”地味だがが
全体を通して(de bout en bout)聴いてみると、渋い味をだしていると。。。
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偉そうに言っておきながら、少なくても一点、私は間違えました。


miroite en dizaines de "points" sonores qui s'épanouissent miroite en dizaines de "points" sonores qui s'épanouissent
ここで「十二の」douzaineとしましたが、私の見間違いです。「数十の」としなければならなかった。ここで評論が言うのは、「点」として、幾重にも、音符が目に浮かんでくるようだということかもしれません。そして、その音符一つ一つが非常に丁寧に鳴らされている、ということでしょう。
それと、質問者にとって肝心のマンドリンの箇所ですが、
les mandolines finales, si souvent étouffées par le reste, apparaissent avec un relief inoui,
の箇所は、もう一回、訳した方がよさそうですね。Resteを私は「余韻」と解釈したが、どうもそうではないようです。「最後のマンドリンは、それまでしばしば他の楽器に抑えつけられていたものの、えも言われぬ立体感を伴って、姿を表わす」。マンドリンの音はかき消されていたが、最後に他の楽器が止んで、その中で真価が浮かび上がったと言っているというわけです。この解釈の方が正しいように思えます。
しかし私の最初の訳も、文法的に完全に間違いではないので、ちょっと「最後のマンドリン」を聞いてみないと分からないかもしれません。一斉に他の楽器が止まって、マンドリンだけが鳴るのか。それとも、他の楽器が鳴る中で、マンドリンの音がきれいだと言っているのか。これは質問者さんが確認してくれることでしょう。
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「オーケストラの仕事はまさに驚愕だ。

アダージョで聴かれたものとは完全に(radicalement)異質な新しい音響を見出すことに成功している。それは広がる数十の音の“斑点”に煌めき、響き全体の要素1つたりと決して失わずにいる。マリ=ピエール・ラングラメの素晴らしいハープは稀な存在感を持ち、最終部のマンドリンは、それまでよく他の楽器に掻き消されていたのだが、途方もない浮き彫りとなって表れる。初めから終わりまで意表を突いて気が抜けない。」

「またもやアバドが聞かせるのは我々が知っていると思い込んでいる作品であり、我々は信じられない新鮮味のもとに作品を再発見するのである。そこには若さや力強さ、皮肉、メランコリー、喜び、ボードレール言うところの(※)不可解で深淵なる合一における苦味が読み取られる。そう、色彩と音は呼応する、そうだ、もはや音楽ではなく、融合の芸術であり、そこには音楽と詩と絵画が混ざり合う。ベルリンの非凡な上演の最中にこれほど“画像”再生を思ったことは私にはかつてなかった。」

※詩篇Correspondanceからの引用
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