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日本の南北朝時代に、兄弟または親子で南北朝に分かれて戦った例を探しています。尊氏が一時南朝に下ったのは、一例かと思いますが、相続をめぐってなどを理由に他にも事例があれば、教えて下さい。

A 回答 (1件)

まず、「観応の擾乱」において、南朝に走ったのは弟・直義の方です。

尊氏ではありません。
これは、尊氏の執事であった高師直と、実質的な政務担当者であった直義との権力闘争が発端であり、結果として尊氏と直義の対立になったものです。
直義は京を脱出し兵を挙げた際に、南朝に降り、後村上天皇の綸旨を得て、南朝方勢力を味方につけようとしたものです。

次に起こった「正平の一統」では、尊氏・義詮父子が。、鎌倉に入った直義との闘争に備えて、後方の安泰を図ろうとして、南朝との和睦を画策し、その交渉が成立した結果、南朝は北朝の崇光天皇をを廃し、北朝の「観応」の元号も、南朝の「正平」に統一されました。
その後直義は鎌倉で軟禁され、最後は獄死します。

先の和睦により、一旦は南朝が北朝の政権接収を進行させていましたが、直義の死で和睦の約束に拘る理由はなくなり、「一統」の破綻は時間の問題と見られていました。
その後の双方の戦闘では、南朝が有利な形勢は長くは続かず、南朝方が崩壊し、北朝は再建されたのです。

南朝と北朝は対立していたものの、一般の公家や武士たちは、その時々の情勢を見ながら自分たちの身分の安定を求めて、北朝と南朝の間を行ったり来たりした人も多いようです。

多くの公家たちにとって、北朝か南朝かという差異はそれほど深刻なものではなく、それぞれの家の存立がまず先にあって、その家の存立を意味づける手段として、北であれ南であれ、朝廷というものの存在が求められていたのが実態です。

また、実務官人たちも、家業が保証されれば、北も南もなく「南北往来」はよくありました。

一方、地方の武士たちにとって、一族内部での所領争いなど、身の回りの対抗関係を「宮方対武家方」という構図に乗せることで、自身の拠りどころを調達することが、肝心だったと言えます。

例えば、下総結城の結城氏が足利方につくと、同族の白河結城氏は対抗上南朝方につくのですが、しかし、関東における南朝方の旗色が悪くなると、白河の結城親朝は様子見を決め込み、北畠親房の救援要請に応じようとしなかったそうです。


以上、ご質問の直接の回答にはなっていませんが、南北朝の実態はこのようなものですので、本家と分家との争いはあっても、直接の親子・兄弟については、事例は少ないような気がします。
(足利家内部における尊氏・直義兄弟、尊氏の子供ながら直義の猶子となった直冬対尊氏の例しか知りません。)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。南北朝の動乱が長引いたことを単独相続による一族間の争いがひとつの原因として捉えられないかと考え、上記のような質問をしました。結城氏の例は、これに当たるのかなと思います。鎌倉末期から室町にかけての相続は、必ずしも長兄に限らなかったようですから、室町時代を通じて相続をめぐる争いが多かったと思います。その視点から、南北朝も捉えられると、この時代の特徴のひとつが見えてくるのではと考えました。

関連する参考書籍等御存知でしたら、お教え頂ければと思います。

お礼日時:2012/01/09 02:13

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