アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

平安京と今の京都で大きな相違点とはどんなところでしょうか?

また、どうしてそう変わったのでしょうか?

A 回答 (3件)

平安京は右京(西側)の桂川と紙屋川(天神側)がしょっちゅう溢れて


水害の被害に何度も遭遇してしまい衰退してしまいました。
(それでも下級役人と職人達が住んでいたそうですが)

それと戦乱や火災で上京と下京の大きな街二つに分かれてしまい
上京と下京以外の周りは農村となってしまいました(寺社を除いて)。

近代は明治維新で街の活気が無くなってしまったので
琵琶湖疏水を引いたおかげで今の京都市があります。
(水力発電所で市電を走らせた)

今のJR京都駅は市街地のど真ん中にある感じですが線路を引いた時は
あのあたりは農村でした。市内中心部も壬生寺から東は田畑がいっぱい残っていました。
山科や伏見はまるっきり田舎でした・・・。
    • good
    • 0

今の京都は平安京の左京エリアが中心と言えます。


右京は低湿地であったため、早くから衰微してしまいました。
今では京都の市街地の西の方に位置する千本通が、平安京の朱雀大路の名残だそうですが、
元々80メートル以上の幅員があったとされる朱雀大路からするとだいぶ小さな道になっています。
    • good
    • 0

平安京と称していた時代には、鉄道やバスは走っていません。

電気も使っていません。
平安京の当初の構想と、実際の平安京とは場所的にもややズレがあります。平安時代は比較的長かったので居住地の広がりもかわります。また中心部も東に移動し、宮(内裏)のあった位置もずれます。羅生門は荒れ果て藤原道長は羅生門の石材を運んで別の建物に流用したりします。西では本来都大路だったところを占有し耕作したりするヒトもいました。平安京の北側と東側は比較的発展伸展しました。平安京が作られた最初の頃には武士集団は住んでいません。後では若干武士が住んだところもあるし、武士が横行したり、平安京を戦場にして戦ったりもしました。
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/20 …
今の京都には、天皇も住んでないし、ほとんど行きません。貴族、公家、武士も住んでいないし、最近は戦場になったこともないです。
昔の京都には政権の本拠があって、全国に命令したり、税を集め貯めておくような機能もありましたが、現在はそうはなっていません。
またどうも平安京のあった時代と、今の時代の京都では、どうも気候が少し違うようです。
人口は平安京全体と現在の左京区が同じ位らしいです。
現在西陣織など京都は伝統工芸の主要生産地として産業活動も盛んですが、たぶんこうした活動が盛んになったのは16世紀、17世紀になって日本全国で絹織物、工芸品の需要が急増した結果なので、平安京が政治経済の中心であったころは、日本各地から物産を平安京に集めていても、平安京から出て行く物産は公家などが持っていくもの程度で多くはなかったでしょう。
 
どうしてそう変わったのか。
変化のどこを見るのかによって変わります。
位置のヅレ1:計画が大げさ・気張りすぎで、実力・経済力が伴っていなかった。
位置のヅレ2:右京区(西側)は土地の事情が悪かった。
位置のヅレ3:天皇トップ制から、天皇上皇トップ制になった。
内裏の再建断念:もはや経済力もなかったし、中国を意識した律令制維持の気持ちもなくなっていた。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8C%E5%86%85% …
衰退:律令制は衰退する運命にあり、地方勢力、武士の台頭は天皇上皇公家では防げなかった
政治の中心の脱京都:中央集権制から封建制になり、最強勢力は自分の拠点に拠ろうとする。
電気ガス水道下水市電バス鉄道:時代の流れです。
    • good
    • 1

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!