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戦国や江戸の武士が、いろいろな官位を名乗っていたのは知っていました。
その中で下級武士まで「○○守」などの高位を名乗っていたのは、いわば自称だったと、最近知りました。
(昔は、なんとなく「○○守は一人だけじゃなく、お金を払うとか何か目立つ働きで貢献するとすぐにお許しが出て、何百人も同じ官位の人がいた」と思い込んでいました)
しかし、よくわからない点があるので質問させてください。

疑問1;自称官位と、正式官位の見分け方
大名とか高位の武士なら、本物の官位かといえばそんなことはなく、たとえば織田信長の「上総介」は自称だったそうです。
その一方、大した身分でもなさそうな人が本物の官位を持っていたりします。
これを、現代人が見分ける方法は、「よく調べる」ことだと思うのですが、それ以外に一見してわかるような見分け方があるのでしょうか?

疑問2;官位を詐称された本人や、権力者は怒ったりしないのか?
現代では学歴や職歴、官職の詐称は許されず、公職でない者が公職を自称すると犯罪(軽犯罪法1条15号)になります。
たとえば○○(国名)守は現代の都道府県知事に相当する要職だと思いますが、それを勝手に名乗った場合、朝廷や幕府によって逮捕・処罰されたり、あるいは○○守の本人やその家来に怒られたりしないのでしょうか?

疑問3;誰がどうやって決める?
自分で「おれは今日から武蔵守を名乗る」と決める?
主君や上司などから「君は明日から信濃守を名乗れ」と命じられる?
そして、名乗るにあたってどんな官位でも好き勝手に名乗っていいのでしょうか?
それとも何らかの制限(たとえば、将軍家と同じ官位は禁止とか)があるのでしょうか?
書籍などを読んでも「何年頃から○○を名乗るようになった」という程度しか書いてなく、基準がまったく不明なので、知りたいと思っています。

疑問4;当時の人は混乱しなかったのか?
ある武士が「(苗字と)○○守である」と名乗った場合、それを聞いた相手は、「○○守」が自称なのか本物なのか、混乱しなかったのでしょうか?
明らかにそんな身分と思えない下級武士だったらともかく、織田信長くらいの有力者が「上総介」を名乗れば、本物と誤解する人がいそうな気がします。
当時の情報伝達速度を考えると、正式官位保有者を全部知っているのは朝廷の中枢以外ありえません。
そういう問題は起きなかったのでしょうか?

どなたか、詳しい方がいましたら教えてください。

A 回答 (4件)

質問者様は官位と、一言で書いていますが、実際には官職と位階と言う2つの種類に分かれています。



どちらも、もともと中国の皇帝が王宮に務める官僚たちに与えたものになります。日本でも律令制を輸入してきたときにこれに習い、天皇が公家など部下の役職者に与えたものが最初です。江戸時代までこれは変わらず、官位と言うのは原則的に天皇が与えるもの、でした。

官職のほうは役職に対して与えるもので、関白もそうですし大臣も同じです。徳川に負けた石田三成は治部少輔でしたが、これは律令制なら戸籍を扱う部局の長官で、しかし戦国時代には治部少なんて役所はないので、単に「箔をつけるためのポスト名」に過ぎなくなっていました。

位階は位が高くないと天皇に拝謁できないので、有力者には高い位階を与えています。以上は律令制の時代の話です。

鎌倉時代になると武士が政治の実権を握りましたが、特に西国では「天皇の方が偉い」と考えている人も少なくなかったので、鎌倉幕府は武士達に「勝手に官位をもらうのは禁止、幕府が許可したらOK」と通達を出します。

天皇側が「お前左大臣にしてやるから、幕府潰すの手伝わない?」と武家などを誘惑して、混乱がおきるのを避けたかったからです。

室町幕府もこの許可制を継続したのですが、段々幕府の統制力が弱くなって戦国時代に入っていきます。戦国時代は「実力世界」なので、幕府の許可をもらわずに勝手に官位を貰う人もいる出て来たし、織田信長なんて勝手に「上総介」名乗りました。

これはこのような官職名が、占領した場所を統治する時に「偉人だから従おう」という気持ちを引き起こす効果があったからです。

戦国時代は下克上の時代ですから、秀吉のような農民の出の実力者が、血筋の良い者にバカにされないように官職を名乗ることで一目置かれるという効果があったからです。

秀吉が天下人になり関白になると、また官位の引き締めをおこないます。自分の部下達に天皇から良い位階とその位階に合った官職を与えたのです。

ただ律令制はとっくに崩壊しているので官職名は有ってもその仕事はすでに無かったわけです。

徳川が関ヶ原で勝ち、各領地の改易も終わると、また江戸幕府は「幕府が許可しない限り官位をもらっちゃダメ」と決めます。

しかし官職も位階も単に「箔をつけるだけの名称」なっていたため、天皇や将軍に拝謁できるレベルの官位は管理しても、〇〇守程度の管理名は誰が名乗っても、基本的にはお咎めなしでした。ただ、それが詐欺やお家騒動に繋がると罰せられたようです。

以上のことから
疑問1 時代によって異なる部分はありますが、毎年「だれがどんな官位を受けたか」は発表されていたので、調べれば分かったはずです。それ以外の見分け方はないですが、そもそも指紋も写真もない時代は「言っている本人がその人物なのか」という問題の方が大きかったので、それほど問題では無かったでしょう。

疑問2、3
与えるのは朝廷で時代によっては幕府の許可が必要でした。同じ官職で同じ苗字だと混乱するので、そこは避けていたようです。高い位だと問題が起きるので、ある程度は管理されていました。

疑問4 混乱したかもしれませんが、武士は元々実力社会ですから、上に立つ能力があれば、たとえ嘘とわかっていても受け入れるしか無かったでしょう。特に戦国時代はそうでした。

幕府がしっかりしていた時代は、そういう部分も含めて「秩序維持」に気を配ったでしょう。
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疑問1.これは武鑑というものが有り、毎年のように発行されていて、様々な事がかかれていた。


この中に官位というのも書かれている。
家紋から、氏名、石高、俸給、本貫地、系図、大名席次、家督相続年、槍印、船印、菩提寺、家臣、歴代城主などなど。

疑問2.○○守は、別に付けたっていいけどみたいな適当なもので、庄屋なども付けていた。
守護は任命されたもので正式であるからその人しか名乗れない。

疑問3.将軍が朝廷に頼んでもらってあげる。
それを有り難くもらう、名誉職。
幕末には、会津藩松平容保が朝廷を通じて京都守護職に任ぜられた。

疑問4.守などは、いまで言う・・社長、良い娘いますよの、社長と一緒だと思いますよ江戸時代の事ですから誰も知らないはずです。
違うという人が居たらホントかどうか確かめたい。
ただ、守護は違います朝廷からですからね。

以上です。
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こんにちは、



う~んと、
何か「官位」を取り違えてられる気がしますね、

官位は帝(みかど)から下賜下さる物では無かったですか?、

仰るのは、会社の部長・課長程度のものだと思いますが、

彼の徳川家康ですら帝から賜ったのは征夷大将軍、

尾張大納言や水戸中納言、此れが無いと帝への拝謁がかなわなかっんですから、

十羽一絡げのパチモンの位なんかはゴミ。
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流石に・・・・下級武士は、○○守は名乗りませんよ



○○少輔とか
××大膳とか


2)怒ったところで、どうします?
 実力(武力)次第でのし上がれる世の中ですから、実力でのし上がった人間に何の実力も無い人間がどうやったら処罰出来るンでしょうね?

3)ケースバイケース
 自分で決める場合もあります <-独立勢力なら
 でも大抵の場合は、何れかの上位権力者の元に所属しているのですから
 その権力者から授けられるでしょう
 或いは、一定の献金や献納を名ばかりの公家に送り届けられれば、然るべき名称を謝礼代わりに授けられて、子孫代々その名を継承する場合もあるでしょう
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