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まず、現代アートを制作している人にお聞きしたいのですが、
現代アートを今現在に制作する意味はどこにあるのですか?
高額で取引されるようになって製作者自身の至福を肥やしたい、という目的以外に一体何があるのですか?
歴史上、アートの概念位の拡大、規制概念、伝統の破壊、と言った役目を果たす意味合いでの現代アートの存在意義は確かに必要だったであろう。
しかし、現在はほとんどそのことに意味はなくて、むしろ、伝統芸術を再認識して行くことに意味があるように思いますし、一周回って伝統芸術こそが最先端アートであり現代アートのような気がします。
村上隆の著者で現代アートの裏がバラされてしまった現在、村上の言説を論破するよう信念を持って現代アーティストは制作しているのだろうか❔
また、例えばインタラクティブアートと遊園地の違いを教えてください。
技術的にも、多くの人を楽しませているという点でも、金銭的にも圧倒的に遊園地の方が優れたアートですぞ。
なぜ、遊園地は一行にアートとならんのですか?

なんでも後に「・・・アート」と付ければアートになるのではないですか?
そして、そのなんとかアートは確実に遊園地以下の代物である。
以下だからこそ、何や感や理屈をこねて、なんやら高尚なものにしたてあげているのではないのか?

そして現代アートよりも魅力があり人々を虜にしている真の意味での現代アート(マッドアニメ、遊園地など)
は何故現代アートして認められないのか?
私の考えとしてはこれらを現代アートとして認めてしまえば現代アートの存在意義がなくなってしまうので、(人気に圧倒的さがありすぎるので)
何としてでも認めてないだけ、のような気がするがだが、どうか?

そうではないというのならば、現代に現代アートをやる意味はどこにあるのですか?
教えてください。

A 回答 (12件中1~10件)

時代の反映、表の歴史ではない、もうひとつの歴史。


政治にも成り得るかもしれない。
社会をつくるかもしれない。

いずれにしろ、アートに必要なのは、その定義に常に疑問符を投げかけること。
それは同時に、背後にある時代・歴史・社会…etc.への疑問符にもなる。



マッドアニメに遊園地(テーマパーク?)は、自らがアートと称しないからこそ、誰かがそこにアートとしての価値を見出せる。
村上が言いたかったこと、彼がやったことは、それに近い。
村上の言葉は、しかし消費社会との関連づけばかりされてしまう。
アートは、消費社会の斜め横くらいに存在していて、消費社会を反映するが、同一ではない。
そして、エンターテインメントとも少し違う。


アートは、本来カテゴリに嵌まらないもの。
つまり、「◯◯アート」とカテゴライズされた瞬間から、アートではなくなる。


>現代に現代アートをやる意味はどこにあるのですか?

もう、この時点で古すぎる。
「現代アート」も、カテゴリに過ぎない。
「現代」としてカテゴライズされてから、いったいどのくらい時代が経っていると思う?


そう考えたら、この質問も2年くらい前のもの。
2年前って、本当に現代?

アートが見据えている現代は、単純な歴史上での現代、ではない。
でも、現代とは何か、と問いかけてみたら、それがアートになる、かもしれないね。
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村上氏の言説には、欧米を見据えたビジネス的戦略がいかに日本人アーティストにとって不可欠なものかを暴露することにより、衰退する日本固有の芸術・または芸術家を鼓舞しようという狙いがあると思います。


現代アートという欧米で発生した思想形態の文脈上に、その基盤を持たない日本人の伝統及び現代文化・思想を滑り込ませる必要性をアーティストは感じているのです。
作品の裏には虚栄心、自己顕示欲などが多大に絡んでいることは間違いありませんが、次の時代を見越して彼は彼の持つ情報を次世代のアーティストへ向けて発信しているように思います。

さて、遊園地における大義は多くの人を楽しませることであり、人を楽しませることに優れた遊園地であれば人を集め収益を得て更に多くの人を楽しませることが可能です。
現代アートアートと遊園地には与えたい感情・衝動に大きな差がありますが、本来は多くの人のために創りだされるものだと思います。
今現在多くのくだらないアートが蔓延しているように感じますが、それは過去のいかなる時代でも同じだったようで、
レフ・トルストイは著作「芸術とは何か」の中で同時代にて評論家から評価を受けている小説・詩・歌劇などを金持ちのくだらないひまつぶしだと酷評しています。
(私自身現代のアート事情に憤りを感じていた時期に彼の著作を読んで非常に納得&スッキリした気分になりました。)

今後はレディメイドでは埋められなかった人間の問いかけに答えるべく、質問者様の言うように再認識、再発見の必要性を感じる人々が増えていくのではないかと思います。


優れた芸術とは、作家個人の感じた感情を人に感染させる力を持ったものだとトルストイは言います。
感染力が強ければ負も正もなく、その作品の立つ盤が伝統工芸であろうがマッドアニメだろうが気にする必要はありません。

マッドアニメを制作している人にとっては、現代アートとして見てほしくない、というだけの話だと思います。
優れた大衆アニメーションの領域で創作を行っている人に、あなたの作品を現代アートとして美術館で保存しますと言っても信念が違いますので断るでしょう。恐らく作家にしてみればありがた迷惑な話です。

表面的に取りだたされる大仰なニュースとは裏腹に、創作を志した者の仕事というのは日々大変に地道なものです。
わざわざそんな道を選ばなくても、人のためになる仕事はいくらでも考え付きますが、自分の持つ特性と表現の可能性を観察したうえで、アートという表現領域にて自らのもつ財を社会へと還元する努力をしたいと、そう思いながら日々下積みをしています。


私が現代アートの領域で創作をする意味としては、

(1)現在進行形で様式を壊すことを前提として観られる空間を含めた表現の場であるため

(2)表現を行う以上、評価される場を選択しなくてはならず、(1)の理由により現代アートが適切であると考えた

の二点が大きいです。


現代人の自分が芸術表現を模索し、発表しようと思った時にどこかのフィールドを選択する必要があったのです。
今は色々な表現の投下先がありますね、動画投稿サイトでも、絵画投稿サイトでもさまざまな良作があります。
しかし、作品と人がひとところの空間に置かれるライブ感を欲するとなれば、バーチャルの世界に映像・画像を流すだけでは足りず、どこかの空間で発表をするなり何なり、を繰り返しながら表現を模索をする必要があります。
発表のために解りやすく自分の領域を説明しなければならないと思った時に、伝統工芸士を名乗っては本当に伝統工芸品を守っている人に失礼だし物だけでは完結しない、画家というと絵のみで完結する仕事なのでそれも違う。

現代美術家という言葉は大変嫌悪すべきものですが、鑑賞者と作品とともに空間を要する現代アートの場は、自分の行う表現を出す場として適切であると考えて今に至ります。


余談ですが、私は平和な世の中で遊園地を楽しむ人々が好きです。
なので、回りまわって富裕層と呼ばれるアートを食べる方々とアートを通してコンタクトを取りたいと思いました。

とはいえ作品が「現代アート」とひとくくりにされること自体不自然に感じたりしているので、現代アートとして認める必要のない領域の表現(マッドアニメなど)はそっとしといてくれよと思う次第です。
現代アートの評論なんてトイレットペーパーほども役に立ちませんから、わざわざ現代アートとして認められる必要がありますか?
多くの人に見てもらって拡散する方法で存在しているという点では、いずれどこかの美術史学者が、マッドアニメが芸術文化に与えた影響について論文を書いて見直されることはあるかもしれません。

しかし今に生きる我々としては、素直に遊園地やマッドアニメを楽しめば良いと思うのです。
アートとつけば良いものってわけでは無いのはご存じの通りです。
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「現代アートを制作している人」では無いのですが回答してみます


質問者さんは「現代アート」の存在意義そのものを疑っておいでで、その疑問を「制作者」に向かって投げかけているので「制作者」としては真っ向から反論をしなければならない立場に立たされている状況かと思います。
さて「現代アート」(現代美術のことでしょうか)というものが取りざたされるようになったのは第二次大戦後のことで、ヨーロッパが戦禍で疲弊し芸術の本拠地がパリからニューヨークに移ってからのことかと考えられます。
無論それまでも「印象派」や「キュビスム」「シュールレアリスム」など新しい表現が次々と生まれていましたが(それらは当時の現代美術と言えそうですが)それらはまだ「美術」の伝統に連なるものでした。
おそらく質問者さんが不信感を抱かれているのは「なんだか分からないような」ガラクタを集めただけのような「作品」を作っておいて理屈をこねるような典型的な「現代アート」だと思います。
戦争を境にして西洋では価値観が大きく変わり、古い価値観を破壊しようとする気運が高まりました。ジャクソン・ポロックのように筆を使わなくて絵の具を散らして描いてもいいんだ・・ウォーホールのように身近な品をポップ・アートという「芸術」にしてもいいんだ・・などなど「新しい表現スタイル」が次々と生まれてきました。当時の現代美術にあって「そんなのはもう古い」と言われるのが最も恐ろしい状況だったといいます。
これは美術に限らず、音楽においても同じで「現代音楽」なる言葉が生まれ、メロディなど全く無い実験的で難解な音楽が次々と生まれました。ジャズもまたしかりで、フリー・ジャズを経てどんどん先鋭化していきます。無論これらはでたらめに音を出しているのではなく、「新しい」音楽理論に基づいているのです。そういう意味では音楽を進化させていると言えるのですが、一般的な音楽ファンにとっては聴いてもちっとも楽しくないし、「なんであんな音楽を作る意味があるのか分からない」と言われてしまうのです。作曲家の吉松隆さんが書いていますが、ちょっとでも「美しい」メロディがある曲を書くと批判されるのが現代音楽の業界だそうです。チャイコフスキーなどはメロディーが美しいものが多いので、「精神性に欠ける」などと言われたりしているのです。

他の業界と比較すると見えてくるものがいくつかあるのですが、「現代音楽」が人の官能に訴えるような「美しいメロディー」などを排除するのと「現代アート」が「情緒に訴えてくる美しさ」を排除しようとする態度は似ているように思えます。美しい景色や美しい女性を「美しく」描いたようなものは「低俗」と断じられてしまいます。(私もそう思わされるような作品が多いとは思いますが・・)
つまりエンターテイメント性のあるものは「低俗」という価値観です。
遊園地はその点純然たる「娯楽施設」です。「現代アート」業界の人たちが認めることはありません。
文学の世界でもストーリー展開が巧みな作品は娯楽性が強い「大衆文学」などと呼ばれ一段下の存在のように扱われてきました。
極端な意見かもしれませんが、「現代アート」の世界は「カルト宗教の教祖と信者」の関係で成り立っているように思えます。
あえて言いませんが、どう見てもまともではない「教祖」に対して絶対的な信頼と信奉を寄せている信者たちを思い浮かべてください。信者たちは喜んでお金を出したり布教に励みます。そんな姿を部外者が見るとどうでしょう。「あんなもののどこがいいんだろう」と思うことでしょう。
私はかつてある日本の「現代アート」の大御所作家について批判的な事をいうと、その熱心なファン(あるいは信者に近い)の人から猛烈な抗議(反論)を受けたことがあります。その人の主張は結局「有名な美術評論家が評価した」とか「美術館に作品が収蔵された」などの権威主義的なことばかりで、あげくの果てに「あんたには芸術は分からない」ということでした。
どこかの宗教団体の人と似ていませんか?
そういう「特殊」なひとたちにとって、教祖は必要なのです。
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アートに携わる立場から出来るだけ、丁寧に回答したいと思います。



>歴史上、アートの概念位の拡大、規制概念、伝統の破壊、と言った役目を果たす意味
>合いでの現代アートの存在意義は確かに必要だったであろう。しかし、現在はほとん
>どそのことに意味はなくて、むしろ(以下略)

なるほど。主旨はわかりますが、それは違うと思われます。
ご自身の質問の中にも「現在はほとんどその意味はなくて」とありますが、まさに現存する作家が現在作っているものが「現代アート」です。例えば、印象派、キュビズム、シュルレアリズムだけでなく、それ以前のロマン派、ラファエル前派、なども「その当時」における「現代アート」です。時代と共にあるものこそがアートなのだと私は思います。

エドゥアール・マネの絵は今見ても美しいですが「現在」の社会、科学、技術、政治、思想との関係性はありません。ですがマネが作品を作った当時は、伝統を破壊だ、へたくそ、曖昧だ、不道徳だ、醜悪だと散々に酷評されていたのです。それはその当時の美術的な伝統や美に対する概念と彼の作った作品が違い過ぎたからですが、逆に当時の科学や技術(カメラが普及)、社会的な背景(不安定な戦争の多い時代と新世紀への期待)や思想(人々の考え方の変化や新しい哲学的な解釈)からみると、彼には当然のアプローチだったと思うのです。残念ながら生前それが高く評価される事はありませんでした。しかし、それを当時理解し、彼に作品を依頼したり、作品を買う事で彼を支援したのは、ごく一部の友人や詩人や画家のみだったのです。

マネに限らず、生前に評価を得れず死後に評価を得た人の方が歴史的には多いです。ですが、この100年の間に社会も世界も変化し100年前よりも、若い作家を見いだすための機会は圧倒的に増えました。これはマーケットの仕組みが出来てきた事を意味していますが、まだまだ成熟しているとは言えないでしょう。多くのアーティストは今も作品を作るだけでは生活が出来ないのですから。

村上隆さんは素晴らしいと思いますし、また言っている事も正しいとも思いますが、それが全てではありません。あくまでも作家として、また結果的に成功しているアーティストと言う視点からの意見です。全てのアーティスト、作品を買う人、美術館、ギャラリーの考えでは無いのです。あくまでも1つの解釈です。


>一周回って伝統芸術こそが最先端アートであり現代アートのような気がします。

アートは常に思想史と連動しています。もし伝統芸術が最先端に見えるのでしたら「ポストコロイアリズム」的な思想(思想は社会的なムーブメントの反映または先読みですので)の文脈上でそれが反芻されているからかもしれません。結果としてその様な表現を見る機会が増え、また自国の伝統的な表現にスポットを当てたくなる様な社会的なバックグラウンドがあるからだと思います。10年前にはそう思わなかったでしょうから、それは今思う事だと思うのです。


>インタラクティブアートと遊園地の違いを教えてください。技術的にも、多くの人を
>楽しませているという点でも、金銭的にも圧倒的に遊園地の方が優れたアートですぞ。
>なぜ、遊園地は一行にアートとならんのですか?

同じかもしれませんし、現在の遊園地やアニメは十分にアート的なのかもしれません。ですが遊園地は商業的な方向に向いています。商業が悪いわけではありません。ですが「人を楽しませられないかもしれないが、今だからこそ、このアトラクションを提供しておくべきだ」と建設コストや収益性を一切考えずにアトラクションを増やす事は、ビジネスとして出来ないでしょう。これが商業的であり、商業でしかないと言う理由です。思想と収益を考えた時に収益を無視できないからです。それを度外視して現代と言う時代にコミットして突き進む様であれば、それは芸術的にさえ見えてくると思います。


>何や感や理屈をこねて、なんやら高尚なものにしたてあげているのではないのか?

それは違うと思います。
まず日本はアートの世界では正直言って僻地です。もし日本だけを見て言及しているのでしたらソース不足だと思います。ニューヨーク、ロンドン、フランス、ドイツ、中国、それだけでは無く世界は広くアプローチも様々ですし、アーティストも沢山います。日本だけでも様々なアプローチがあります。たまたま目に入ったものが全てではありません。テレビやメディアで知ったものにはバイアスがかかっている場合もあります。それはメディアもまた商業的な文脈を無視しがたいからです。哲学的だし考えさせられる事が多い作家や作品をまともに取り扱えるとしたら、NHKや収益を無視している雑誌でしょう。媒体も、もっとキャッチーで面白いもののをネタに使いたいでしょう。
その足でギャラリーを毎月回って、美術館に足を運んで、海外のフェアや現代美術館に多く行き、多くの現存作家と話をする機会を得れば、全く違う世界が見えてくるはずです。

コミットすれば見えてくるもがある。私はアニメが好きですが、アニメに興味が無い人は「アニメなんか無くても良い」と言うでしょう。極論私の親や祖母はアニメを必要とはしていません。アニメが消滅しても彼らには直接影響はありませんが、めぐり巡って間接的には社会的な影響が出るでしょう。アートもそうです。誰にどういう影響が出るか、社会や文化にどういう影響が出るかを知るにはアートにコミットしてみるしかないと思います。


>高額で取引されるようになって製作者自身の至福を肥やしたい、
>という目的以外に一体何があるのですか?

アートであれ、ビジネスであれ、結婚生活であれ、成功や幸せを目指すのは当然だと思いますが、それは目標であって目的では無いでしょう。
作りたいもの、表現したいものがあって表現している。ほとんどのアーティストにとってはそれが現実です。それを理解できるように表現できるかどうかは作家のセンスでしょう。理解されないと評価されない、理解される努力をするか否か。村上さんの著書でもその様な事を別の言い方で説明しています。

また、作品が高額で取引されるのは、作品が安い時代から作品を買っている人が多く居るからです。前述の通り現代アートは今を生きる作家が作っています。キャリアも実績も少ない作家の作品は、たとえ作品の質が高くても1万円くらいから売っています。お小遣いで買えるでしょうし、1、2度食事会を辞退したり、高級な焼酎、そこそこのワインを買うのを一度辞めれば買える金額です。

自分が好きだと思う作品を買う事で自分自身が楽しみ、買った事で作家は次の作品作るための予算が手に入ります。そうして作家を支援して行く人が居て、初めて作品の価値は上がり、作家は成功していくのです。私は90年代前半から村上さんの作品や活動は知っていますが、大成功したのはほんの数年前です。それまで彼を支えたごくわずかの人が居て、表に出さなくても彼もそれを知っているし感謝しているはずです。努力の結果の成功であり、成功のために彼が行ったチャレンジや努力は真似が出来ないほどリクスと度胸と体力の居るものです。

アニメのDVDを買わずにTorrentでダウンロードして無料で見る。著作者の努力や権利を無視して、敬意も払わずにタダ乗りする人にアニメをどうこう言う権利があると思えないですよね?働いても給料が払われないのに文句だけ言われるのと同じ事です。

アニメのTV放送と同じで、アートギャラリーは無料で見れますし、美術館もそれほど高くありません。見に行くだけでも応援になる。見に行くと知る様になり、知ると作品を買っても良いと思う様になる。1万円でも作品を買う事でアーティストを支援する事になる事を知っていて、それを実行している人は今のアートに意見があっても、その意見も的確でしょう。意見があるのも不思議はありません。

まずは、知識と情報を深めてみて欲しいと心から思います。
そうすると、きっと貴方の質問の意味する事も、意図も、欲しい回答も、自分で見つける事が出来ると思います。
心からそう思っていますので、時間を作って是非実行してもらえればと思います。

最後まで拝読いただき、ありがとうございました。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/ポストコロニアル理論
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誤解を恐れず簡単にいってしまえば、現代美術は美人投票と同じです。


人気のある作家が評価されます。
ただしそれにはルールがあります。美人コンテストのように好き嫌いの好みで選ばれるものではありません。
そのルールは残念ながら今のところアメリカのルールが市場を支配していますが。というか経済力のあるお金持ちたちによって支えられています。
ただ日本の成金などと違い、お金持ちたちには当然知性や品格、教養などが求められます。
昔から芸術を愛してきたお金持ちの世界で、良いとされるもの。それはしっかりしたバックボーンがあるアートです。
そのためには過去の美術の歴史を全てしり、さらにこれからの新しい表現や社会に対する意見なども。
アーティストだけでなくアートを支える人たちも同じ土俵で楽しむことは、アートにとっては欠かせないことです。
とは家理想論だけで成り立たないのがこの世界。投機目的だったら端なりお飾りのステータスとしてアートを持つ人たちも当然いらっしゃいますが、それでも良いんじゃないのかな。
みんなで新しい価値をつくりあげていければ。
そういう意味では思想家のようなもので、世界中の人々の信頼を勝ち取るものがアートかもしれません。

ですから、もしかするとディズニーランドみたいなのもアートですし、日本のオタク文化の中からも将来アートが生まれるかもしれません。
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質問者様は色々な問題を混同されていますので、まず分解整理して考えましょう。



>現代アートを今現在に制作する意味はどこにあるのですか?


料理や車いじりを仕事にすると一緒で、自分の好きな事を仕事にしてるだけですね。
車や洋服でも、一般販売しないショーモデルってあるでしょ、デザイナーやイラストレーターが、自分を売り込むショーモデルの意味でアートを作ってる場合も多いです

>高額で取引されるようになって製作者自身の至福を肥やしたい

全ての人が村上隆ではありませんからね。
石田徹也って人の事を調べて下さい、彼は「人間の心の闇」を描きたかったので、わざと肉体や精神を追い込むようなバイトをしながら、絵を描いていたそうです。
そして作品が認められて画家としてこれからって時に、自殺と思えるような、電車と衝突死をしています。
遺族は息子の作品をより多くの人に見て貰うために、地元の美術館に無償で作品を寄付しました。

>伝統芸術を再認識して行くことに意味があるように思いますし、
>一周回って伝統芸術こそが最先端アートであり現代アート

ファッションは20年周期位でトレンドを繰り返すけど、それと混同してない?

伝統芸術に拘ってたら、変化を拒否してる事になりますよね、変化を辞めれば衰退するだけですよ。
(能や歌舞伎が良い例)
現代アートも100~200年経てば伝統芸術ですから、今の時代で現代アートを否定する事は、将来の伝統芸術を否定すると同じです。

>現代アートよりも魅力があり人々を虜にしている真の意味での現代アート(マッドアニメ、遊園地など)
は何故現代アートして認められないのか

たぶんアナタは「芸術」に興味が無いのでしょう、だから知識が足りないので、意味不明な批判をしてますね。
ジブリは現代美術館で、ドラクエやワンピースは森美術館で企画展をやってますよ。

上記のアニメはストーリの裏付けで価値のある絵になってますから、ストーリーを知ってる日本ではアートの扱いですが、お話を知らない外人がルフィーを見ても、何も面白くないでしょうね。
本物のアートは「絵」が1枚で完結していますから、どの国に持っていっても通用します、つまり言葉を必要としないのです。

アートとは「見て感じる作品」です、質問者の言うアニメは「ストーリー(活字)を楽しむ作品」であり、住み分けがキッチリ出来ています。

最後になりますが
>なんでも後に「・・・アート」と付ければアートになるのではないですか?

そうですね、現代アートにはバカバカしい作品も多いですが、実際に見た事が無い人が言いそうなセリフですよね
木場にある現代美術館にでも行って、現代アートを直に感じてください。
常設だけじゃなく、今なら「アイオー」の企画展が素晴らしく、言葉を必要としない感動を理解できると思います。
(具体の田中敦子は個人的にはイマイチ)
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現代アートは鑑賞する事をただ消費するだけではなく、そこから色々考えさせるものです。


遊園地はそこに行って例えば社会や政治について考えたりはしない(したくない)=楽しいエンターテイメント であると思います。
現代アートは気持ち悪いもの、見たくはなかったものなどを露骨に見せてきます。一概に楽しいものではないです。その点では非常に価値があります。

「歴史上、アートの概念位の拡大、規制概念、伝統の破壊、と言った役目を果たす意味合いでの現代アートの存在意義は確かに必要だったであろう。
しかし、現在はほとんどそのことに意味はなく」
これは主に日本の現代アートの話でしょうか。海外に目を向ければ「きれい・かわいい」アートだけではなく、作家たちは未だに多くの敵と戦っています。なぜなら社会そのものも変化しているから、そこから派生する問題も変化しているのです。

インタラクティブアートは楽しいです。将来遊園地にその装置が設置されるかもしれません。インタラクティブアートは遊園地に先駆けてそのアイディアを提示するものと考えてはいかがですか。

私にとって「一周回って伝統芸術こそが最先端アートであり現代アート」はもう古い気がします。何年同じ事を言っているのか。伝統芸術は理解されやすい、感動を安心して期待出来るという点でつまり遊園地みたいなものです。遊園地ばかり行ってたら飽きてきます。その揺り返しで伝統を破壊するアートが生まれるのです。

村上隆の本は以前読みましたが内容は忘れました。私腹を肥やすという表現は間違っているような気がします。作品が高値で売れれば、その金を次の作品に使う、その繰り返しなのでは。作家が清貧であるべきという謝った偏見はおかしいです。作家は才能があります。その才能を「好きな事やっているんだから貧しくても当たり前」と、対価を払わないのは搾取に他なりません。
あと作品を作る目的として、劣等感の誇示や名誉欲からアートが生まれても、面白かったらそれでいいと思います。

以上作家側からの意見です。
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難しい問題ですね。

はっきり、これという答えを提示することはできそうにもありませんが、
普段美術批評の本を読んでいる自分から、自分なりにまとめて答えてみます。

あなたのおっしゃったことを要約すると以下のようになるわけですね。

「アート」と呼ばれるものと、「アート」と呼ばれないものの違いが分かりにくい。
インタラクティブアートと遊園地のアトラクションの違いなんてそもそもないではないか。
なんでも「アート」を付ければアートになるのなら、「アート」をわざわざ作る目的は何か。
そんなものより、伝統的な芸術文化に注目すべきではないのか。
「アート」がただ投機目的に利用されているだけなら、「アート」の存在意義などないではないか
だったら、それをどうして作り続けるのか?

ということですね。

では以上のことについてお答えします

(1)「アート」と呼ばれるものと、「アート」と呼ばれないものの違いが分かりにくい。
インタラクティブアートと遊園地のアトラクションの違いなんてそもそもないではないか。

昔、椹木野衣という方がボナールの展覧会へ行った時に、ボナールの絵を見たオバサンが
「綺麗ねぇ」とため息を付いたそうです。ボナールの境界のぼやけた淡い色彩を見てその
ため息をついたということですが、そのオバサンがマーク・ロスコの色彩の境界のぼやけた
部分を見ても「綺麗ねぇ」とため息を付いたのなら、それは『至極真っ当な鑑賞態度』だ
と自著の中で述べておられます。

つまりこういうことです

「アート」に触れてある種の感動を覚えたのなら、その感動はいかなるものであれ「アート」
によって引き起こされた感動であり、至極真っ当なものである。

ということがまず言えます。その意味では遊園地のアトラクションを体験して「これはアートだ!」(「アート」に触れた時に覚えた感動と全く同じものではないか!)というのなら、その人にとっては遊園地のアトラクションは「アート」といっても差し支えはありません。

しかし、問題はその逆です。つまり

あるモノに触れていかなる種類によらず、感動が心に発生すればその「あるモノ」はすべて「アート」と呼べる

というのは成り立たない、ということです。

だから壮大な自然を見て「これはアートだ!」というのは正しくはありません。あくまで「芸術的なもの」です。

それが何故か。村上隆氏の著作を読まれたのなら私が説明しなくても分かるでしょう。

(2)なんでも「アート」を付ければアートになるのなら、「アート」をわざわざ作る目的は何か。
そんなものより、伝統的な芸術文化に注目すべきではないのか。

なんでも「アート」を付ければ「アート」にはなりません。
答えは(1)の私の回答と村上隆氏の著作の中に述べられていると思います

(3)「アート」がただ投機目的に利用されているだけなら、「アート」の存在意義などないではないか
だったら、それをどうして作り続けるのか?

投機目的に利用されているのは事実です。村上隆氏の著作の中でも何度も述べられていますが、西欧では美術品に対する投資に税金がかかりません。しかもオークションという形式を取っているため値段が底なしに釣り上がります。

ですが、そこで取引されているものはほとんどがあくまで「アート」です。(中には評価に値しないようなガラクタ同然の作品が高値で取引されていることもありますが)世界的な「アート」の基準からみても遜色のないようなものが多くあります。

そのアートの基準とはなにか。それは、

『20世紀前半から始まるアメリカを中心とした複雑怪奇なモダンアートの様々な潮流の中で新たな支流を付け加えるようなコンセプトを持っているかどうか』

大まかにいえば、そういうことです。モダンアートの辞書の中で自分の名前を記したい。たとえ芸術家の系譜の末席中の末席でも構わない。その中に入って新たなモダンアートの可能性の光を一瞬でも見られたら自分はどんな苦労も厭わない、と村上隆氏は自著の中で述べておられましたよね。

目的はそのためです。

自分の様々な本の聞きかじりから自分なりに考えをまとめてお答えしました。
もし疑問・反論がございましたら、ぜひお聞きしたいところです。
よろしくおねがいします。
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ただの人です。



村上氏のやろうとしていることは、純粋なアートをもっと、
マーケットを意識したものにしちゃおう、という挑戦というか
提案なんだろうと思います。それには既存のものへの反抗みたい
なものもあるのかなと思います。
そしてインタラクティブアートも鑑賞側との距離感を縮めたいという
提案と挑戦だとすると。
現代アートと呼ばれるものには、提案と挑戦が内在していると思います。

現代ロマン主義には辟易としている人も少なからずいるので対立する
構図はのぞましい傾向かもしれません。
ただ、サロン市場を意識しているということは、ロマン主義を完全に
否定したことにならないきがするんだけど。
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>例えばインタラクティブアートと遊園地の違いを教えてください。



作品の評価する場合二種類の評価基準があります。「作品的評価」と「興行的評価」です。

そんな事知っている。と思われるでしょうが、結局それが全てです。

インタラクティブアートは「作品的評価」に該当します。
遊園地は「興行的評価」に該当するでしょう。

そして、「アート」とは「作品的評価」を重点に置きます。



売れればアートになる。とは限りませんが売れればそれだけ認知されるので、その中には「これはアートなんじゃないか」と言う人たちが出てきてアートの側面が出てくる場合はあります。

アニメや漫画がその例です。


しかしそれはあくまでも、アニメや漫画が「作品的評価」としても評価できるジャンルだと認知されたからであって、「興行的評価」(人気)が高いから自動的にアートになったのではありません。
だから遊園地も人気があるからといって、自動的にアートになる事はないのです。



>そして現代アートよりも魅力があり人々を虜にしている真の意味での現代アート(マッドアニメ、遊園
>地など)
>は何故現代アートして認められないのか?


最後のまとめですが、したがってマッドアニメも遊園地も、今後はアニメや漫画のように「作品的評価」として認知されれば、アートの側面を持つ事になります。現状はマッドアニメは「アートとして見られていない」と言うのが多数でしょう(たぶん)。しかし、貴方のようにマッドアニメも作品的評価(アートさを感じる)ような人が多くなり、評価をする「お偉いさん」にも評価されたら、アニメや漫画のように、新たなメディアアートの仲間入りを果たす事でしょう。



問題は、その「作品的評価」をする「お偉いさん」に気に入られるかどうかですね。

結局、アニメや漫画、浮世絵だって、その「お偉いさん」とやらに評価されたからアートになった。
と言うだけですから。
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この回答へのお礼

「お偉いさんに認められたから」アートになったというのは、まさにその通りですね。

そして、今までの現代アートの理屈を駆使して行けば、世の中のそのほとんどは現代アートになってしまうという事実です。
しかし、そのお偉いさんと現代アート好きは、それを認めない。


「作品的評価」と「興行的評価」だって、現代アート派閥が作り上げた勝手な概念でしょう。
だって、遊園地だって現代アートの理屈を駆使すれば、現代アートになる。
しかし、遊園地は現代アートにはならない。
なぜならば、遊園地は現代アートよろ明らかに面白く、意味があり、一般人に許容されているからです。
現代アート好きは、劣等感が強く「私は現代アートがわかる」ということで自分を特別な人間だと思い込みたい負け犬やろうか(日本では特にそうですね。製作者、鑑賞者とわず)、アートのマネー・ゲームに参加することに特権意識を感じている金持ちだけ。ですから「一般人に多く許容されているものは現代アートではなくなる」のです。なぜなら、一般人にも理解できてしまうものなど「現代アート好きな私」にとっては格下の存在でなければならないからです。


つまり、私が疑問なことは、「作品的評価」と「興行的評価」など現代アートを勉強しているならばそんなことは存在しないことは承知のはず。なんで、この期に及んで現代アートなのか?
どうして、わざわざ現代アートと遊園地をわけるのか?「お偉いさん」に認められていないからです、というのならば、現代アートの意味が益々解りませんよね。

どうして、現代に必要なのか?ということ。
なんたらビエンナーレとかに参加しとる詐欺師どもにぜひ答えてもらいたいです。

お礼日時:2012/03/05 19:43

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