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死後の世界は無く、死んだら無になるとするなら、
私が私の死を自覚(確認)することが出来ないので
私にとって私の死は無いという事になります。

死後の世界があったとしても
私の死を確認している私がいますので
私は死んだことにはなりません。

死後の世界があってもなくても主観的に見て私は私の死を経験することはできません。
いつも死ぬのは他人ばかりです。

結局、主観的にみると私は死なないという結論になりました。
シニアの諸兄、理屈は正しいですよね?

A 回答 (18件中1~10件)

もっとも内奥の存在は不死です。

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

そうかもしれませんね。

お礼日時:2012/05/18 23:52

「>死後の世界は無く、死んだら無になるとするなら、


>私が私の死を自覚(確認)することが出来ないので
>私にとって私の死は無いという事になります。」

と言う事ですが、「私の死の自覚」が死後の結果としてしか自覚出来ないのであれば、正しいでしょう。
しかし、人には、予知能力もある事ですから、死の直前、その瞬間に自覚しているという事は無いのでしょうか。
死の瞬間まで、脳が正常に働いていれば、自覚出来るのではないかと思うのですが。。。

また、
「>死後の世界があったとしても
>私の死を確認している私がいますので
>私は死んだことにはなりません。」

と言う事は、「>私の死を確認している。。。」のですから、「私は死んでいる。」のでしょう。
「私の死を確認している私がいる」世界、死後の世界は、この世の世界ではないのですから、「この世では」、死ぬという事になるでしょう。
そして、ピラミッドやアルプス等で発見されたミイラでも、数千年後の今になっても蘇らないのは、周知の事実ですし、「死」は、この世の出来事なのですから、「私は死なない」という命題は、受け入れ難いのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>この世の世界ではないのですから、「この世では」、死ぬという事になるでしょう。

何をもって死とするかですよね。
生命活動の停止を「死」とするなら、あの世で自分の死を確認することが出来ます。
しかし、私たちが問題にしている「死」はかならずしも肉体の死ではないと思います。
私たちがこれほどまでに死を問題にするのは、死とは家族や友人との永遠の別れを意味し、また自分自身が積み上げてきたアイデンティティー(経歴、経験、財産、ステータス、理念なども含めて)とも決別しなければなりません。
これが辛いのです。
むしろ体のことは二の次ではないでしょうか。
肉体の死が精神の死と直結しているからこそ私たちは肉体の死を恐れるのですが、実際は心理的な死のほうがはるかに恐怖です。

>予知能力もある事ですから、死の直前、その瞬間に自覚しているという事は無いのでしょうか。

死の予知はあくまで連想であり、それは記憶の産物ですから死そのものではないのではないでしょうか。
死を経験することが果たしてできるでしょうか。

お礼日時:2012/05/18 19:07

こんにちは^^



死っていうのは、
産まれてくる前と、同じ状態になるだけじゃないですかね?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

逆に、死の状態(生まれる前の状態)とはどんなものでしょう?

お礼日時:2012/05/18 18:50

この年になると真剣に考えされる問題です。

 うううう~ん
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

思考実験ですから気楽に気楽に

お礼日時:2012/05/18 18:47

 


 理屈か経験か ~ 哲学は実学に及ばず、実学は哲学を生まず ~
 
 手術のための麻酔を経験すると、数時間の記憶が、すっぽりと欠落し、
その間ほんとうに生きていたという実感が失われます。
 自分を置いてけぼりに、世の中の現実だけに時間が経過したのです。
 
 ニュートンのような理論物理学に対し、ガリレイのような実験物理学
があります。実験は、いつでもどこでも誰でも経験できるのが条件です。
 どっちが尊重されるかといえば、もちろん実験物理学です。
 
 ケプラーのような理論天文学に対し、伊能忠敬のような観測天文学は、
うむを言わせぬ説得力があります。ケプラーの推理に矛盾が生じたので、
いまのところ楕円軌道という仮説で、ようやく面目を保っています。
 
 パスツールが、カイコの生態について教わるため、ファーブルを訪問
したとき、ファーブルはパスツールのあまりの無知に驚いたそうです。
 病気のメカニズムについては、ファーブルよりも知っていたのに……。
 
── どちらも、自分の見聞が、他人の見聞より確かだと主張する。
http://q.hatena.ne.jp/1330060801#c233515
 論点整理 ~ 右傾帰脳 vs 左傾往悩 ~
 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

どちらが偉いとかではなくそれぞれが必要で、車輪の両輪として機能するものだと思います。

お礼日時:2012/05/18 18:45

こんな命題を 取り上げてくれたあなたに感謝。



このサイトではかってない、 一番難しい部類にいるだろうね。それにしても 回答者様も 賛否があるが、


この 場合賛否でなく どう受け取るかの 意見の拝見ですよね。 私的には それこそ真剣に

考えてみる 命題であるね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

当たり前のことを別の視点からみると案外当り前ではなくなるところが面白いですよね。

お礼日時:2012/05/18 18:40

すこし考えました。



死は 人間がうまれるまえから あったのではないか。


知的な人間が それに意義づけをしたにすにないのでは。

宇宙でも星の死があり 古代の 動物でも 死があり 体系づけないまま 時が流れた。


人間は 考える芦であるので 死を いろいろ意義づけて 究極にたどりつけないまま

心停止を そう考えてしまう。側面の方が 死の概念を肯定して 本人は 死を肯定することができない。


ながい 宇宙の歴史でも えらい方が 星の死 身近では 細胞の apotosisとかおこっているが

すべて 生きている側の 理屈です。その点では あなたの命題は すばらしいとかんがえます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

死とは何かという問いは裏を返せば意識とは何かという問いだと思います。
意識がなくなる状態を意識が考えているのですから答えが出ないのもいたしかたないのでしょう。

お礼日時:2012/05/18 18:39

通常は死ぬ前に意識が薄れて行きますから…


でも、本人が自覚できないから、ないとは言えないでしょう。
少なくとも死にゆく貴方を見て他人は死んだと判断するのですから。
死は本人の自覚が無くても他人が確定するもんなのでしょうね。

だから「臨死体験」なのです。
臨死体験は死では無いのです。
自己の死を判断できるのは他人だけです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

他人の死の判定も今ではあやふやになりました。
脳死、中絶、クローン・・・・
昔のように心臓が止まったら「死」とはいかないようです。

お礼日時:2012/05/18 18:25

屁理屈



貴方が死を自覚しなくても周りの人は判ります

>主観的にみると私は死なないという結論になりました。

貴方が「自分の死」を自覚しないだけ

死なないのと自覚しないのは異なるでしょう

言葉遊びしても...絶対に貴方は死にます
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

私には自覚することが出来ないのですが、
私の家の押入れにはタコ型宇宙人が住んでいるそうです。
毎晩、家人が寝静まった頃に出てきて冷蔵庫を物色するそうです。
私には自覚が出来ませんので、いないことにしています。

お礼日時:2012/05/18 18:22

あなたは偉い、西洋の哲学者が言ったように


「私は思う、だから私がある」
その反対を言っておられるのですね。
「私が(そう)思わなければ私は死なない(変わらない)」

あなたがそう思うには、生きていることが条件ですから、これは破たんしています。
生→死 への変化は、当人にとって認識の限界(閾値)を超えることです。
瞬間的にそれを認識する人間はいるかもしれませんが、微妙ですね(斬首された人間のその瞬間の意識など)。

いずれ私はあなたの論理を認めません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

私は事実をただ並べているだけですから、
思うか思わないかの問題ではないと思います。

お礼日時:2012/05/18 18:17

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