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私は死が怖いです。
深夜に一人で死について考えると叫び出したくなります。
小学生のときから28歳の今までずっと変わりません。

死の恐怖は
(1)身近な人や社会との別れに対するもの
(2)肉体的苦痛に対するもの
(3)死の理解不可能さに対するもの
などと分類されることがありますが、私の場合はとくにかく(3)が怖いです。
死を考えると全てが残酷で不条理に思えてなりません。

そこで、死の恐怖を克服した人はいるのか
いるとしたらどんな経緯で克服できたのか、をうかがいたいと思いました。

はじめから怖くない、という方ではなく
以前はこわかった(特に(3)やそれに近いもの)方で、
今は怖くなったという方のお話をうかがいたいです。
切実です。よろしくお願いいたします。

A 回答 (17件中1~10件)

生き物であることを捨てない限り、必ず『死』というゴールに辿り着きます。


途中でリタイアしても『死』です。
今この瞬間も私たちが生きて、歩いて、過ごしているのは『生』という道。
しかし両サイド、そしてゴールには『死』という川が流れています。
こればっかりはどうしようもありません。克服なんて出来る話でもありません。
できたならそれは、仙人だとか神様だとかでしょう。
でも「考え方」を変えることはできますよね。
どう考えるかなんて、その人の自由なのですから。

質問者さんは『死』が理解不可能さ、に対して恐怖心を抱いておられるとのこと。
しかし、誰もがそうなのだと思いますよ。
哲学者や神学者などの学者さんはそういった分野での答えや考えを
述べてくれるとは思いますが、死んだ経験が無い以上は、
誰も本当の意味で『死』を説明も理解もできないんですよ。
ギリギリ生きているうちに理解できるとしたらそれは、死ぬ寸前。

私は自分が交通事故に遭い、女性しか持っていない内臓を
取り払ってしまうハメに陥りました。随分昔の話ですが。
事故に遭った直後、私の意識は飛ぶことなく、
それまで立っていた筈の地点から随分吹っ飛び、
視線の先には床に零したジュースのように血液がぶちまけられていました。
暑いと寒い、熱いと冷たい、そして痛みと快感、全てが同時に感じられました。
そして意識が途絶える瞬間、本当に「ああ 死ぬんだな」と思いました。

でもこうして生きています。不思議なもんです。
定期的にホルモンがどうのといった調節をしなければなりませんが、
それ以外は日常生活に何の問題もありません。
出血は派手だったみたいですけれどね。
元気になってから現場に行ってみたら、綺麗さっぱり何もありませんでした。

日本は34秒に1回どこかで交通事故が発生している訳ですから、
『死』について考えるよりも『生』について考えていた方が、
ゴールに辿り着くまでの時間を有意義に使えると思います。
どうせ人生なんて、その人生の主が死ぬ寸前に納得できるかどうかです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
とても稀なご体験をお聞かせいただき、ありがたく思います。

死について考えるときはその「有意義」といった評価軸自体に疑いを感じてしまうので
またなかなか堂々めぐりなところもあるのですが…。

お礼日時:2012/05/25 22:51

分からないから怖い。



まぁ分かります。

克服はできそうです。
一度きりの人生を思いっきり生き、
後悔しないだけ思う存分頑張って生きれれば
後悔しないと信じています。

やり残したことがあったり、
善く生きなかった人は死が怖くなるのではないでしょうか。

質問者様も命の炎を燃やして生きれば、
きっと満足の死が迎えられると思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

そうなのでしょうか。
後悔することが怖いわけではない(と思っている)ので
なかなかピンとこないところです。

お礼日時:2012/05/25 23:30

  貴方と同じ人がいました、この人は森田療法というのを受けて死の恐怖から解放された人です



  失礼な話に成るかもしれませんが病名を付けるなら 貴方さまの場合は神経症です不安症

  あくまでも病名を付けるならです。 神経症(不安症)には森田療法がいいとされてます。



  森田療法の本も沢山出ています、お薬を吞んでも根本的な解決には成りません

     

  森田療法は禅の覚りに近いとされています。











   http://www.jinseimondainokaiketsu.com/
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私の場合、以前は質問者様のように自分の死に対して恐れていました。



ところがもっと怖い事を見つけました。
それは身近な人の死です。
取り残される恐怖です。

なので自分自身の死に、もはや恐怖感は薄れて今はほとんどありません。
逆に家族を始め身近で大切な人達の死に耐えられる自信がありません。
…誰よりも先に死ねたらどんなに良いかと思います。

そしてもう一つ、自分の死に対して諦めがついたのは…生まれてきた以上、必らず誰にでもやってくる公平なところです。
一人、一人、人生の長さは異なりその時点で不公平に思いますが遅かれ早かれ必らず死ぬのです。

そう思えば大切な人達の死を想像すると、叫びたくなりますが自分自身の死に対しては別にイイよという感じになったんです。
とにかく残される方がよっぽど怖いんです。
どうでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

あまり、それによって、私の死の不可解さ不条理さといったものが解消されるイメージがわかないので
こまったところです。

同じ状況になれば同じように感じるのかもしれないのですけど、
自分が死ぬのが怖いのに子供を同じ目にあわせていいのか、という思いから
私は現時点では子供を持とうと思えない(そのため結婚しようとおも思えない)ので
同じ状況になることもなさそうで、このアプローチについてはちょっとデッドロックなかんじかもしれません。

お礼日時:2012/05/25 23:35

残念ながら、動物であれ植物であれ生を受けた全ては生まれた瞬間から死を運命付けされます。



ただし、死を怖がるのは人間だけでしょう。

あなた程若くなく死が身近に迫るわたしですが、残り少ない人生を燃焼させて生き続けます。

もし、あなたが余命1カ月と宣告された時あなたはどうしますか?

死におびえた1ヶ月でしょうか?

私なら、さらに生のアフターバーナーまで点火させて激しく燃焼して生きますよ。

もう、何も怖くない年代です。

(1)(2)(3)への回答は他の回答者の方がしてくれるでしょう。
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生命の間近にいると生と死は同価値に感じます(事実、生か死かの確率は50%ずつだし)。


自然に触れ古い文化を知ると、死は特別ではなく普通に感じられます。
考えても分かるものではないので、体験や生活で「実感」するしかないでしょう。

農業や園芸では、世話をした植物が枯れたかと思えば、放っておいた植物が豊かに実ることがあります。
野生動物はたくましい反面、生態系のバランスが崩れると、その環境に適応していた種ほど絶滅するリスクも大きいので、進化は諸刃の刃でもあります。
そういう生物の営みに触れると、ヒトの死だけを特別視する気にはならなくなります。

生物の死骸は分解されて、土や海で新たな命の養分になります。
生まれて、生きて、生まれたところに還るだけのことです。
自然の摂理を目の当たりにすると、死は無でもないし淋しくもないことに思えます。

世界の民俗芸能の多くは、生や死、生の根元の性、豊穣がテーマです。
昔の人は今より死と隣り合わせに生きていたのに、死を恐れているだけではありません。
死と表裏を成す、生や性や豊穣を高らかに謳い、神仏に感謝しています。
プリミティブな芸術は命そのものを表現しているから力強く、見る者にも力を与えます。

生と死はセットです。死だけを取り上げて恐がるのではなく、大きなスケールで命をとらえてみて下さい。
自分の頭の中で死を恐がっていては、負の気持ちに支配され続けてしまうでしょう。
そこから抜けだし、自然界のダイナミズムに触れ、昔から伝わる文化を知り、命を実感してみて下さい。

私の親は特に病気でもなかったのに、急に意識を失って1時間も経たずに死にました。
私自身も事故に合ったり、一人暮らしの時に病気が重なったことがありました。
ショックだったし混乱しましたが、自然や芸術に関わっていたら恐くなくなりました。
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この回答へのお礼

私は生と死がセットで怖いです

お礼日時:2012/05/26 09:06

小さい頃から別に「死」は恐くありません。


それより、例えば、ボロボロの状態で生きている方が嫌です。
もし、ずっと激痛に苦しめられ続けるとすれば
むしろ「死」は「救い」とすら言えるでしょう。

ただ、昔、ある俳優が
「親友が死んでから、死というものに親しみを感じるようになって
それほど恐くなくなった」と言ってました。
私も3才の時に母親を亡くしておりますのでその影響もあるかもしれません。

それと、子供の頃「これで良し」と言って死んだ人の話を聞いて
私もそう生きようと思いました。
それには、毎日毎日を精一杯生きるしかありません。
失敗は数々ありましたが、58才の今、悔いはありません。
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死への恐怖は本能、つまり「種としての」存続の意思です。

正常な男女なら、性欲を覚えるのと同じです。

もし死への恐怖=自殺への歯止めがなかったら、生きるのがちょっと辛いとどんどん自殺してしまい、種として途絶えてしまうかも知れません。怖いのは自然と思って下さい。

歳をとるとボケるといいます。それは死の恐怖を緩和するための生態反応ということも聞きます。まあ、如何に死の恐怖が嫌でも、ボケるのは質問者さまも望んではいないと思います。
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この回答へのお礼

具体的な危険に対して恐怖を覚えることは、淘汰の結果生まれた機能だとおもいますが
自分の死について考えるのはもっと副産物的に生じた現象だと考えています。

お礼日時:2012/05/26 09:06

>以前はこわかった(特に(3)やそれに近いもの)方で、


今は怖くなったという方

これにピッタリ当てはまるのですが、なぜ?と言われても、
自分でもわかりません。

私の場合、幼稚園、小学校からキリスト教系の学校だったので、
最初は、死の恐怖=「地獄」の恐怖でした。
とにかく、夜中に目が覚めて死の恐怖心で眠れなくなり、よく母の布団にもぐりこんでました。
母の温もりに抱かれて眠ると、とりあえず安心して眠りにつけました。
小学校も中学年くらいになると、宗教や、神の存在にも疑問を感じ始め、そうなると、
死ぬと、天国か地獄、煉獄に行くのではなく、「無」になるのではないかと思い始め、
「無」(永遠)というのが、なぜか、たまらない恐怖となりました。
いつの頃からか覚えてませんが、なぜか「無」になることの恐怖心がなくなりました。
なので、「死」の恐怖がなくなりました。
中学2年の頃、カミュの「異邦人」を読み、これはまるで私って思いました。
でも、人殺しはしない、どちらかと言えば、人には優しいです、その方が気分がいいから。

あんなに恐かった「死」「無になること」「永遠」が、大人になると全く恐くなくなり、
何も感じなくなりました。なぜそうなったのか自分でもわかりません。

因みに(2)は今でも恐いです。溺死、圧死、なんて恐怖以外の何ものでもないです。
それに50代の今は「老い」の方が恐いかもです(笑)
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死が怖いのは殆どの人がそうだと思うのですが、、、



ある本と出会い、その程度が弱くなった感じかな。。。

それは「いきがいの創造」 飯田史彦 (一番最初に出た本)続編も何冊か出てます。

これは世界中で臨死体験(医学的に死の宣告がされ生き返った人)をされた人のケースで、信頼の持てる発表(権威ある大学での発表等)を纏めたものです。

死と判断された時間にどんな体験をしたか、、、それが詳しく書いてあります。

死の世界が苦しく、辛く訳の分からない所でなく、至福の世界と書かれていました。(詳細はお読みください)

これが事実かどうかは別として、私は自分がより幸せな心境になれる方を選び、こちらを信じる事にしました。

死の恐怖が半減した事は確かです。
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