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年寄りの人達に戦争時代の話を聞くと決まってみんなが、食べ物がなくて苦しかったと言います。

四六時中腹を空かしていたと言うんですけど、なぜ戦時中はそんなに食べ物がなかったんですか?

戦時中だから工業製品や鉱物資源が不足するのは分かるんですけど、食料なら自分達の土地で農作業さえ続けていればいくらでも生産できそうなものなのに(もちろん栽培品種は限られるでしょうけど)、でも国民が餓死するほど食べ物がなかったのはどうしてなんですか?

A 回答 (12件中1~10件)

兵士に食わせるために主食(米 麦 豆)を優先的に供出させて 戦地に送った


せっかく送ろうとしても 次々と輸送船が敵国の手で沈められた
国内で主食を増産しようにも 働き手が 戦地に取られて農村にいない
カリやリンなどの 工業的な生産が必要な肥料が 物資の不足で作れないので 田畑から作物がたくさん収穫できない
では天然素材の魚かすなどの肥料を撒こうとしても 食糧事情がそれどころではないので取れた雑魚さえすべて人の口に入る。
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 そもそも、「増えすぎた人口」 とういう問題が当時の日本にありました。



 さらに、「飢餓作戦」 

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%A2%E9%A4%93% … 
 
  をアメリカが実施したのです。
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ああ、もっとわかりやすい例が目の前にありました。


北朝鮮の現実を見ればいいんですよ。

肥料もない 農薬もない 人手もない 治水能力もない
無計画な食料生産計画で 地力もない
輸送力もないし経済はガタガタ
それでも謀反を防ぐため 軍人にだけは食料を配らにゃならん、

「みんなで自分の分を作れば間に合うだろう」なんて考え方は 「北の大将軍様 」と同程度の思考だということですね。

そういえば以前ここで「 国民みんなで 海に行って魚を獲れば食料は間に合ったのでは」てな投稿があったような気もします。
毎日何千万人も 海に通うだけの交通機関もありませんし、国民みんなが漁民になったら他のモノが作れなくなりますね。
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昭和16年、昭和17年と2年続けて冷害となり、米は不作、凶作となりました。

さらに昭和20年には大凶作となりました。

昭和6年、7年、9年、10年も東北地方では不作、凶作、大凶作と続いて、昭和東北大飢饉、昭和東北大凶作と呼ばれる惨状を呈しました。

だから戦争がどうとか言う前に、米じたいが採れなかったのです。どうしてかというと、まだ冷害に強い品種が開発されてなかったからです。昭和東北大飢饉の後なのです。なんとしても冷害に強い品種を開発しなければならないという機運が起こったのは。しかし、それに成功したのは戦後の事です。10年以上かかってしまったのです。残念ながら、昭和16年からの冷害には間に合わなかった。

江戸時代の三大飢饉と何も変わりません。貪欲に飽食を貪る現代人にどう説明すればいいのか。
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 都市部で食料を自給自足できると本気で思っていますか?


 農村部からの輸送が問題なく行えると思いますか?トラックが走り回っている現在とは大違いです。
 雪国では冬に収穫できるものは基本的にありません。
 保存できる穀物類は戦地へ送られます。途中で沈みますから届くものは当然少なくなります。
 その為に要求は大きくなります。

 某国では農業生産を増やすために山の木を切って耕作地にしました。雨が降れば土砂崩れが発生して全滅です。
 いくらでも生産できるというのは机上の空論です。
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http://oshiete.goo.ne.jp/qa/539587.html
に似た質問の回答が載っています。農産物生産量はある期間は持ちこたえましたが、化学肥料の不足などで最後は半減しました。

日本は戦争などの目的を達成するための直接的な(装備などの)お金だけは使う一方で、捕虜は裁判にもかけずに現地で殺しましたし、戦地に食料を送らないとか(現地調達)、直接戦費以外の費用を軽視したのですね。食料生産も同様で化学肥料の手当などは行わずに「食料なら自分達の土地で農作業さえ続けていればいくらでも生産できる」みたいな甘い考えでやったわけです。戦争は国の総合力が必要なのに、わかっていてそうしたのか、軍部の上層部に馬鹿が揃っていたためかはよくわかりません。
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>食料なら自分達の土地で農作業さえ続けていればいくらでも生産できそうなもの



★「太平洋戦争」の時代は、「耕耘機」さえ無い時代です。
★この時代は、1年を通じて収穫出来る農業技術も無い。
★「農作業は全く機械化されていない」ので「農作業」は「手作業」。
しかも、「働き盛りの男性」は、「兵隊」として戦地へ入ってます。
★圧倒的な人手不足だった。

★一番重要な点は、生産した食料の大部分を戦地へ供出しなければ成らなかった事。
(生産した食料が、そのまま口に入る訳では無い)

質問者さんの質問は、重要な点を何箇所も見落としていると思いました。

都市部に住む多くの人は、自分たちが食べて行けるだけの作物を作れる「畑」や「田んぼ」など、持ってる訳がありません。
単純に、
「田舎に移り住めばいい」
と言っても無理なことです。
しかし、都市部の「空襲」が激しくなると、子供達の「疎開」は行われました。

終戦近くの「どん底」の時代は、空き地を見つけては「カボチャ」を栽培したという話しを、母親から何度も聴かされました。
(農作物の中では、カボチャは栄養価も高く、栽培し易かったからです)

それでも、大部分が「女子供や高齢者」で、農業機械やハウスも無いのです。
「農作業で、いくらでも生産する」
なんて、不可能な事だったでしょうね。

ご自分で、「カボチャ」育てた事有りますか?。
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そういえば



爆薬 農薬 肥料
これらは、原料がいっしょなんで、過激派の爆薬作りでは、農薬や肥料から作ることになっています。

言い方を変えると、原材料が決まっていて、爆薬をたくさん作るためには 農薬や肥料を作れない


http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kensh …

「一方、化学肥料は、硫安の国内生産量が戦前時ピークの四一年一二四万トンから、四三年九七万トン、四五年二四万トンへ、過燐酸石灰の国内生産量が戦前時ピークの四〇年一六四万トン、四三年五六万トン、四五年一万トンへと壊滅的な減少傾向を示した。」以上引用
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追伸


戦争中よりも「終戦直後」の方がひどかった地方もあります

戦争から帰って来た兵士を食わせるコメがない
食料を運ぼうにも トラックもその燃料もない
イナカに買出しに行こうにも 鉄道車両が破壊されまくったので 乗車券が枚数制限で買えない
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訂正



正 とあるうち、戦後に新規に行われたのが 3,4,5 で戦前もできたのに、戦中や戦後まもないころにできなかったのが 1)2)です。
誤 とあるうち、戦後に新規に行われたのが 3,4,5 で戦前もできたのに、戦後ができなかったのが 1)2)です。
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