欲望(意志の信仰)
意志の信仰を通じて菩提心と云う。菩提心とは無上大道徳心と云うこと。此処に二義あり。一に願作仏心、二に願度衆生心、前者を向上心とし後者を向下心とす。また前者を往相とし後者を還相とす。菩提心とは菩提とは無上菩提とて宇宙大道無上覚の仏に成るべき道である。
仏に成らんには仏は宇宙全体が仏であるから、一切衆生を共に円満に完成せんとの願望である。初めに自己が仏に成りたいと云うのは、自分が仏に成らなくては、総ての人々を仏に為(す)る事は出来ぬ故に、論註に我仏に成り度(た)いとは一切衆生を度(ど)せんが為に。一切衆生を度せん目的は一切衆生と共に円満に完成して、永遠の安寧を得たい為である、と。此(か)く仏の志願である。
此の志願を満たしめんが為めに全生全力を献(ささ)げて聖意に仕えるのである。やはり之が御親(ミオヤ)の聖意である。聖意を自己の意(こころ)と為(す)るから凭(かく)の如きの大道心と成るのである。愛の信仰を花とすれば、欲望の信仰は実を結ぶのである。全人格を完成するに在る。聖子の分(ぶん)を尽くすにある。
願作仏心、また向上心、また往相と云う。願とは我仏に成り度(た)いと云う志(こころざし)なり。仏とは円満完全なる霊格である。是、御親(ミオヤ)より受けたる、み子としての霊我実現せんとの欲、自己の性を遂げ伏能を開発し、有らんかぎりを尽くして完成せんとの欲望である。
伏能は行為に依って実現す。総て行為働かざれば善悪共に発達せぬ。霊性は自身の中(うち)に伏して自由を求む。自分の中(うち)より発(はっ)せんとする霊に活きんと欲する性能を持っている。けれども大法に依らざれば発現は出来ぬ。
心霊は自身の中に自由に実現せんとして居る。それを実現するのは行為である。人、十、度(ど)すれば己、百、度せんと一心不乱なれば何事か成らざらん。己の力を竭(つく)して働けば自己が益々顕明と成る。自己が発達すれば、する程自己の全体が顕われて来る。
視よ梅の種子(たね)から芽を出し、蕾から花、花から実と云うも、つまり本の種子の中に凭麼(こん)な物が伏在して居るから、外貌(そと)からは不明であるがそれが己が力を竭(つく)して働きだして、芽を吹き蕾や花とも現れたのである。
霊の生命も、本は動物本能の皮殻(から)の中に仏性を種子(たね)として有(も)った間は狗子仏性とて何の価値も認められぬ。一心不乱に専精努力の結果に於いてこそ自己の真価が判明(はっきり)と現るる。如何に聖人とて聖人の徳を顕わすには矢張り全身全力を竭(つく)し生命を堵してこそ始めて聖徳が顕わるる。
何れの処にか天然の釈迦自然の弥勒あらん。実に自己霊性を顕わさんが為に、一切の幸福を犠牲にし有らん限り全力を尽くしてこそ釈迦の聖徳が顕現なされた。又、基督教徒(きりすときょうと)はキリストは生まれ乍ら神の子であると云う、けれども、ヨルダン川のヨハネに至誠心に洗礼を求め、野に四十日断食して全力を竭(つく)して肉をせめ霊の活現を望んだではないか。
☆ 以上は或るお坊さんの書籍「人生の帰趣」より写しました。
このお坊さんの文章に接するたびに、これこそは現代の“お経”ではないかと思えてなりません。
皆様はどう思われますか。
ご意見いただけないでしょうか。
よろしくお願いいたします。
独り言(質問タイトルの副題に“ブラジュロンヌさんに捧ぐ”なんてかっこよく付けようかと思ったけれど、失礼になってしまうかもしれないと、躊躇してしまった)
A 回答 (4件)
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No.3
- 回答日時:
自己を客体視する認識の主体は其の客体の外部に佇んでいますので、
其の外部の主体を『再起的に』客体視して貰う為には、
別の主体が登場してくれないといけなくなります。
但し、そもそも、再起的な自己認識には、
default対策向けの初期値が準備されていますでしょうか?
(上記の内容は『逆説』です。)
自己を客観視するということは、“内観”と言うことだと思います。
回答文で言っていることが、自分の心をその心から離れて見る、と言うことならば、それは不可能だとおもうので、回答文の様な疑問は起きません。
その様に考えてみても無意味かと思います。
内観と言っても心を二つにするわけではなく、例えれば池に張った水を自分の心とするならば、その心の働く意識は水(心)の中にあってその“水”を観る、という作業だと思うので。
ありがとうございました。
No.1
- 回答日時:
こんばんは。
かんたんに。
1. 《わたし》は 生まれながらにおのが身と心に《仏性》もしくは《神の霊》をやどす。空性ないし神が 霊としてこの世界にあまねく満ちているという想定のもとに。
2. そのわたしは 物心がついてから 初めてのウソをつきイツワリをおこなったとき ふとわれに還る。ウソをウソだと知ることは たましい(感性)がよこしまを嫌い あたま(理性)がそのマチガイをみづから認めることをとおしてである。しかも われに立ち還ったわれは 感性と理性とを含み包む境地としてのわれである。
3. われに立ち還るというのは 自己還帰とか自己到来とも呼ばれるが 立ち還ったわれは 数として《一》なる存在だとすれば:
(α) わたしは わたしである。 1=1
4. そして立ち還るときの姿としては:
(β) わたしは 《わたしがわたしである》わたしに立ち還る。 1x1=1
5. 人はみづからのウソからわれに還り 他人(ひと)のイツワリにあざむかれたと知ってやはりわれに還るとき この(β)の言わば自己の二乗を繰り返し《わたし》を生きる:
(γ) 《わたしがわたしである》わたしは わたしする。 1^n=1
6. ところで 上の(α)の姿は 人間の意志や思考を超えている。存在そのものは 思考した結果得るというものではなく 同じく意志によって得たものでもない。つまり人間なる存在にとって 所与の条件である。
この条件を受け容れることが 自己の内なる仏性ないし神の霊にめざめることである。そのときわたしは 仏性につうじている空性ないし神に向かうなら それについて きよらかなおそれをいだく。ここで《非思考の庭》が成る。
7. 非思考の庭 これが 《信仰》のことであるが もし
▲ 欲望(意志の信仰)
というのであれば それは (β)および(γ)における意志行為が その基本であり中軸を成す。花が咲き実が成るという場合も 中核は (α)の《わたしはわたしである》その動態にある。
8. あとは この世の中のシガラミであり よく言えば飾りや誉れであったり よくもわるくも自己の心の充足である。これは 空であるが 仮りのものごととして確かに現象している。
9. 《さとる》とは――つまりすでに生まれつきブッダである者がそのブッダであることを成就するというのは―― シガラミやら栄光の関係やらそれらの縁起(因果関係)から 自由となることである。栄誉からも自由でなくては 空とは言えない。
生身のまま完全に自由となることは出来なくとも その視点としては 自由を実現することである。
10. 言いかえると この《自由の視点 ないしそれとしての人間の境地》は 人は社会的動物として関係性において生きているからには つねに他者とともにあって 《〈わたし〉たち》が互いにコミュニケーション過程をとおして 実現しようとするものである。
ここに(α)の《わたし》にそなわる仏性は 《慈悲――ともだちであること――》もしくは《愛》という言葉でも説明される。
・・・
この回答への補足
この捕捉は“途中”のままのお礼の続きです。
ちょっと時間がかかってしまいましたが、私には必要な、そして意義ある時間でした。
ブラジュロンヌさんの表現する処の“我に立ち返る、わたしは わたしである”を良く云う処の真我、の事ではないかと漸く気が付いたのですから。
そのような思いで頂いた回答を受けてみれば、「非思考の庭」は自我が自己に気付くという過程において生まれた発想、表現とも思えます。
自己は「非思考の庭」でもあるのですよね。
たぶん、ブラジュロンネさんは釈尊の“潔癖性”的、なものに抵抗があるんだろうと思います。
釈尊が微笑んでいるのではないでしょうか。
ありがとうございました。(2012/6/29 10:24)
回答2から思ったこと。
本能と言えば学習することなく、生まれつき備わっている能力、の事を言いますが、ここでたましいがよこしまを嫌う、というのは学習以前の状態を想定しての事の様に思います。
となると、たましいに秘められた能力には感性的な善悪の好悪感があると思え、それは本能と言えそう。
この時点では、理性はまだ働かないのでは、とも思う。
ここまで考えて見て、“たましい”そのものは仏性と言えるのだろうかと思ったら、いや 既に植物の種子のように“煩悩の殻”が付いている筈で、だから“仏性”なるもはそのなかに有るわけで、そうすると“たましい”は煩悩と仏性で構成されている、と思えました。
そうしたたましいが学習以前に、善悪の好悪感を感じても、不思議とは思えない。
正確に言えば、善悪ではなく単に好悪感なのだと思う。
そのたましいにとっての好悪感が善悪に繋がるのか、ここで疑問が起きてしまった。
途中で申し訳ないけど、時間が無くなってしまったので、とりあえずのお礼です。
ありがとうございました。
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