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宗教の目的はなんですか?
やはり、お金を集めやすくしたり、人をまとめやすくする装置ですか?  信仰は後付ですか?

A 回答 (14件中1~10件)

其処でも本音と建て前とが…。

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そんなことここにいる信者になるような生き方している連中に聞いたってしょうもないでしょ。


教祖様に聞け。
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宗教団体が、一方向を向く利用し易い団体となっていることも事実でしょうが、本来、信仰とは人間の心や精神の学びとなるものですし、だから生きることに役立つわけで、他の方も仰るように、利用されたり、集団になって何を主張するような性質のものではありません。

ある意味で信仰は「立場」から自由になるものでもありますが、教団の信者という立場に縛られるなら本末転倒です。

宗教は、人間にとって最大のテーマである「生きる意味」などを教えたり、ヒントを与えるものでもあるのでしょうが、どのような方法にしろ、人を悟り(又は学び)へと指導できない人物が宗教指導者となることには非常に問題があります。
心のプロであるはずの宗教指導者が、「これが正しい信仰だ」などとi言い、排他的、狂信的な信仰を指導すれば、当然争いは起きるし、その拘りが逆に人を苦しめます。

そういった意味では道を外れた宗教(団体)は世界中に五万とあります。むしろそちらの方が多いのかもしれません。
それはとても残念なことで、日本でも多くの人(特に若い人)が「宗教はどれもインチキだ」「悟りなんてものはない」などと思っているようです。ただ、「自分は凡夫だ」という謙虚さと他の信仰も認める寛容さがあれば、どんな信仰でも、さほど問題とはならないと思います。

人は経験だけでは、その経験の意味を理解できないし、知識だけでは当然、何かを体得することはできません。両方が必要であり、それを教えるのが(宗教に限らず)指導者のはずです。指導者に値する人物は一人ではありません。
しかし、宗教に関わらなくても特殊な経験をする人はいますし、「私は指導者だ」と勘違いすることがあるのも事実でしょう。インチキ宗教家により頭でっかちになり知識だけで「この信仰は素晴らしい」「この指導者が本物だ」などと勧誘ばかりに夢中になる信者も沢山います。

人それぞれ、何をきっかけに信仰心に目覚めるかは分りません。同じ教えを聞いても理解できる人もいればできない人もいます。誰にも共通する万能な教えなどありません。だから指導者の責任は重いのです。心を扱う指導者が心の扱い方を間違うと非常に危険なものとなります。信者を殺すことも、殺人鬼にすることもできるので社会に大きな影響を与えることになります。

日本では宗教法人の認可には非常に問題があります。指導者としてふさわしくない人物が沢山、指導者として認められ、人を指導しているからです。だから貴方のような疑問が生まれるのでしょうが、それはとても残念なことです。

今、ネットにはありがたい教えや、個人の貴重な経験を沢山目にすることができます。いきなりどこかの教団に入る必要もなく、信仰について自分なりにじっくり考えることも可能です。どういう信仰が人にとって良いのかじっくり考えてみることをお勧めします。
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個人の魂を救うのが目的と思います。

救われる必要の無い人はもう既に救われているのかも知れません。

救われたいと願う場合には、自身の解けるはずが無いと(思っている)疑問、有限の壁に阻まれている閉塞感、或は現実的な苦しみ=(肉体的、精神的、金銭的、人間関係、或は意識出来る限りにおいての苦)を抱えている事を意味します。

今の自分が置かれている環境や状況の中に『精神的にせよ、肉体的にせよ、経済的にせよ、人間関係にせよ』何がしかの違和感を抱える場合があります。こういった違和感(罪の意識や、漠然とした不安感や、生きている事に対する実感が伴わない感覚)を感じて、もっと『別な本当の人生があるのではないだろうか?』といった疑問を感じる場合があります。

もっと直接的な言い方をするなら、『他人の死は、別に当たり前の事として、受容れていながら、肉親の死や、愛するものの死や、自分の死に直面する場合には』心は穏やかではいられなくなります。

こういう場合に必要な事を『魂の救い』として、人間は宗教文化の発展として、後押しをして、促してきた歴史があります。その答えが『釈迦の教えや、キリストの教え』と云う事になります。

つまり、心を病むという場合や、身体を病むと言う場合や、経済的な困難を抱えて喘いでいる場合に、『どのような心持で生きる事がその、困窮した状態から抜け出す事が出来るのか?』という、『真の心の癒しの心理学』という、真理を解き明かした教えと言う趣があります。

経典や聖典は長ったらしく、分かり難い事が、回りくどく書いてありますが、その内容は『簡単明瞭です。』

かいつまんで書くなら、以下の通りです。

人間は目の前の人生そのものを二つのものとしてみている場合が在る。一つの世界観が『真実の世界』を見ている場合です。この場合には『心を病む事も、身体の健康を損なう事も、貧乏に苦しむ事も無くなる世界観』の中に生きている。と言う真理の中に生きる場合です。

この反対の世界を見ている場合『仮相』或は『虚』の世界に生きていると言います。この世界は『頭の中の世界と現実の世界が二つの世界となって戦っている世界観』です。

言葉を替えて言うなら『自分自身の心の中で、自分自身の心同士が、矛盾を起して、対立したり、分裂している。』ことを意味します。

科学的な証拠を示して置きます。ウイキペデアからです。

”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究

ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”

心の矛盾が解消する事を『見性』と表現しています。つまり『悟る』事です。右脳の人格と左脳の人格との間に『ホットライン』と言う回路構成が完成する事を意味します。

その証拠となる動画です。

URL:

見性した場合、心を病む事、自律神経失調症や難治性の心身症や過敏性腸症候群、神経症や、働かないための貧乏に喘ぐ事がなくなります。

心を病む事、自律神経失調症や難治性の心身症や過敏性腸症候群、神経症や、働かないための貧乏等の場合では『いくら検査をしたとしても、健常者との差が無いからです。』つまり異常はないからです。

現実と頭の中の事実が一致していないだけだからです。現実と頭の中の事実が一致した場合『真実の世界が目の前に展開している。』と表現します。

釈迦の教えの中に、真実を見る方法があります。真実が見えた場合『寛解』を取り越した世界『完治』と言う世界が展開します。

とはいってもただの健常者の仲間入りをするだけの事ですが。
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創価学会 壮年部の者です。



>宗教の目的はなんですか?

・苦悩にあえぐ、人類の救済です。


>やはり、お金を集めやすくしたり、人をまとめやすくする装置ですか?  信仰は後付ですか?

・宗教、なかでも仏教については、本尊・教義がキチンと確立されています。それがなければいけない。
もともと、日本では学問として宗教がありました。僧籍を取得すれば国から僅かながらの給金が払われたのです。
比叡山延暦寺などは、現在の東大的な存在で、多くの優秀な僧を発生させました。と、同時に、宗派も多く開宗されたのです。その多くは、本来の仏教の本位を無視した、独自の法門の上に成り立っています。本尊・教義を問えば、その宗教が正しいか誤っているか判断できます。

・お金については、創価学会に関してだけお話しますと、先ず信仰が先にあります。お金については、仏道修行の一つに『布施行』というものがありますが、その一環として年に一度『財務』といって、一万円を一口として寄付(布施)を行います。金額については任意です。そのお金は、創価学会の様々な施設の建設や維持管理にあてられます。
良く巷にうわさで流れているような、教団トップがお金を得るような事はありません。
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宗教って言ったって、アブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)から、ヒンズー教や、仏教や、アミニズムの神道まで、いろいろあります。

無理やり共通しているものを考えると、この世の不条理を形而上で克服しようということではないでしょうか。

不条理を克服するアプローチとして、盲目的に神を信ぜよというアブラハムの宗教系列もあれば、徹底的に疑うことから始めようとする禅宗のような仏教もあります。

仏教では、初期のころは、お布施に現金は禁止されていたのです。現金を集めるとろくなことがおきないと判っていたからでしょうね。でも、その後、米などの食料をお布施してもらうだけでは、仏教寺院は建立できないので、現金でのお布施を認めるようになったようです。

宗教の目的と、宗教法人を設立する目的はまるで異なると思ったほうが良いかもしれませんね。
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1 安心立命


2 真理の探究
3 苦の解決

1は 健康の基本の 心を静かに穏やかに、と、規則正しく無理のない生活
の内の 心を静かに穏やかに というところを信仰により得ることができます。
何事にも動じない心の平安を得ることは大切です。

2は この世界と自らの存在の真実を知りたいという自然な欲求です。
科学によって明かされてゆく法則を知ることは 部分的な真実を知ることに過ぎないものです。
自らの存在の本質を知ることによって 直接真実を知ることが出来るとされています。
求めれば その道は開かれています。

3は 精神的、肉体的苦痛の解決を図ろうとするものです。
肉体的苦痛の解決は ほぼ医療が担うものとなりました。
精神的苦痛の解決は 1の信仰によって得られる場合が殆どのようです。
これからも その有効性が失われることはないようです。

宗教は お金集めでもなく 人気取りでもなく 一人一人の幸せのためにあるものです。
簡単な信仰から 深い信仰へと入ってゆく場合が多いようです。
気を付けたいのは 信仰と甘えは紙一重の違いだということです。
努力をしないで 何でも解決してもらえると思うのは 甘えです。
神仏に見守られているという安心感の上に立ってこそ 落ち着いて努力できるところに信仰の価値があります。
信じるという安心感が 広く一般的な宗教の価値であることは変わりない事だと思います。
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宗教の目的とは本来、我々にある基本的というか、根幹となる重要なもの、つまり、人間として絶対に知っておくべき貴重な情報を教えようとしているのですが、それは万人誰もがその自身の内にすばらしい特性を持っていて、それを発揮させることによって、あらゆる所願は満足し、あるいは、いかなる困難をも克服していくことが出来るというもので、つまりは、早い話が我々にとって『鬼に金棒』たる自身の宝の存在を教えようとしているものなのです。



そして、この自身の宝とも言うべき特性に自ら気付き体現したのが釈迦であり、そのことを他の人々にも知らしめようと始めたのが仏教であり、その真髄が説かれているものが『法華経』なのですが、それは今から2800年程前のことであり、それ以後のユダヤ教やキリスト教、イスラム教はそれぞれが『神』というものを説いて、それに依拠することを人々に強いていますが、これでは自分の幸福を自分以外のものにゆだねることになり、云わば他力本願の御すがり信仰でしかなく、本来、内在する宝に気付くこともなく、結局、自身の宝が発揮されずじまいで宝の持ち腐れとなってしまうことになるのです。

ですから、本来、宗教とは、自らが持つすばらしい宝の存在を覚知して、それを発揮させてその人生に自在に活用するためにあるのであって、決して単なる精神修養とか気休め、あるいは盆や正月、葬式等の儀式のためのものではないのです。ともかく、どこかの宗教家や僧侶の難解な仏教解釈等で混沌としている人々も、この一点さえハッキリと認識できれば、霧中のような漠然としていたものが晴れて、宗教や信仰等に対しての明瞭な視点を持つことができるかと思われます。

つまり、宗教や信仰とは『宝の持ち腐れ』状態の自身の宝を活用できるようにするためのもの、との明確な目的や意志が持てれば、誰だって欲がありますから、せっかく持っているものなら発揮させないともったいないと思って、宗教や信仰に自発能動的になるのではないでしょうか。

ともかく、「何かに幸せにしてもらう」のではなく「自力で幸せになる」ことができる能力を誰もが持っていることを教える、つまり、自分の価値に目覚めさせることこそが真の宗教の役割かと思われます。
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人が望むものは、千差万別です。


仏教が良い人もいれば、キリスト教やイスラム
教が良い人も。
人が幸せと思える感謝に満ちた境地に至るには
たくさんの方法があると。
山に登る経路が一つでないように。
入口が違っても目指す先は、きっと同じです。

宗教はとっかかりとなる複数の入口と考えては。
賛同できる考え、興味をひく考えが入口と。

大きな宇宙の中心は、誰も知ることはできませ
ん。いいかえれば、どこでも中心になりえると
いうことなのかもしれません。師と仰ぐのは、
だれでしょうか?自分自身が師と感じた者を師
とするなのだと思います。天井に曼荼羅がたく
さん並ぶように選んだ場所からさらに周りにつ
ながっていく。果てをつくってしまうのも感じ
るのも自分自身。線引きさえしなければ、そん
なものはないのかもしれません。

まとまらない戯言ですいません…。
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『信者達にとっての役割』と『教祖達にとっての役割』とは、


根本的に食い違っています。

例えば、『本音と建て前との間での葛藤』が此処にも介入しています。
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