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1. たとえば こういう表現があります。

▲ (パウロ:ローマ署 1:17 ) ~~~~~~~~~~~~~~~
神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。

これは、「信仰による義人は生きる」(旧約・ハバクク書 2:4 )と書
いてあるとおりである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

2. 煮詰めて言えば こういう問いだと思います。:

〇 《信じる》とは どういう行為か?

3. 人間の意志行為であるとすれば 確かに何かを心に受け容れるこ
とだと見られます。《受け容れる》という意志行為でしょう。

4. 何を? ――と言っても 人知で分かるのは無理ですよね? 

5. 言うなれば 《無根拠》をである。つまり 無根拠を根拠とする
ことである か?

質問者からの補足コメント

  • №7つづき


    自己表現の自由 つまり 表現は いっさいの行動をふくみますか
    ら この自由とそれゆえの平等とで 人間論を基礎付け得ます。


    ★ キリスト教には当てはまりません
    ☆ そのままそれは オシへです。


    ★ エセ宗教や占い 霊などは論外です
    ☆ 感性(感性の原野)と理性(思考の緑野)を超えたところは 
    非思考の庭と呼んでいます。信仰のことです。これは 感性と理
    性や知性を超えており 何とも規定しがたくやはり昔からの《霊
    性》とよぶことに落ち着くのではないでしょうか。

    No.7の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/07/03 10:13

A 回答 (12件中1~10件)

動物は義理原則を持たない



この言葉自体、優劣論にしか聞こえません。
そもそも「動物は義理原則を持たない」は結論ですね。しかし、その結論に至る検証が全く為されていません。つまり、ご質問者の勝手な思い込みにしか思えません。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


☆☆ 動物は義理原則を持たない

★ この言葉自体、優劣論にしか聞こえません。
☆ いえ。優劣など論じていません。良し悪しさえ 問うていません。

けれども 義理原則が よいことだとか まして高尚な行ないである
とか そんなことは言っていません。

むしろ 人間の自己表現の自由が この義理のしばりで制約されると
したら それは よくないことです。

つまり 恩を返すことはよいことなので その限りでは 義理志向は
わるくはないでしょう。けれども 一回の恩が 一生――それにしば
られるという意味で――つづいたとしたら? それは よくないこと
です。

互いにもっと自由にふるまうのがよいでしょう。


つまり 義理原則は 人間にのみあり 動物にはないと言ったからと
いって 人間であることを自慢しているとか 動物を見下していると
いった受け取り方は ご無用としていただきない。無理な要求ではな
いと思うのですが。・・・


★ そもそも「動物は義理原則を持たない」は結論ですね。
☆ ちがいます。両者の違いをそのように指摘したまでです。


★ しかし、その結論に至る検証が全く為されていません。つまり、
ご質問者の勝手な思い込みにしか思えません。
☆ ならば 動物にも《恩返し》の――物語だけではなくて――事実
がふつうに自然にあるんだというところをおしえてください。

お礼日時:2020/07/05 07:58

この場合でも 《虚構――想像力――》や《事実――その認識としての理性――》をも超えた何かこそが 《信じる》という問題なのかもですよ。



それはそうだと思います。
しかしそれが高尚な事なのかどうかは疑問です。
そういう妙な《信じる》という問題が、古代から宗教的大虐殺、偏見、差別を生み、近現代も大量破壊兵器による瞬間的大虐殺を含む大戦争に繋がっているわけです。
《動物とは違う》というコメントもありましたが、それは”大いなる驕り・傲慢”ではありませんか。
私は人間は動物に劣る愚かな存在と思っています。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆ この場合でも 《虚構――想像力――》や《事実――その認識
としての理性――》をも超えた何かこそが 《信じる》という問題な
のかもですよ。

★ それはそうだと思います。
☆ はい。

★ しかしそれが高尚な事なのかどうかは疑問です。
☆ いやあ 高尚だとは言っていないですね。

信じるという行為が生じるとしたら そういう場合がある・・・と捉
えたまでです。


★ そういう妙な《信じる》という問題が、古代から宗教的大虐殺、
偏見、差別を生み、近現代も大量破壊兵器による瞬間的大虐殺を含む
大戦争に繋がっているわけです。
☆ うむ。そうですかね。つまり わたしから見れば そういう争い
が生じるのは オシへを奉じる宗教の場合だということになります。

つまり 信じるは 高尚かどうかに関係ないわけです。たとえばオシ
へに関して生じるところの《ここはどうだ そこはこうではないか》
といった議論は――信仰からは―― 出て来ないんです。

心に受け容れる対象は 何であるか分からないからです。無根拠なる
何かなのですから。そのようなナゾをめぐって 議論などはまづなく
そして分派をつくり党派に分かれてあらそうということは ないんで
す。

信教・良心の自由という大前提もありますし。



★ 《動物とは違う》というコメントもありましたが、それは”大い
なる驕り・傲慢”ではありませんか。
☆ いや だって 動物は――歴史というものを持たず そのような
人間の過去の継承として 恩を感じるとか負い目を負っているとか借
りがあるから返すとかのような――義理原則を持たないですよ。

単なる事実の問題なんだと思います。


★ 私は人間は動物に劣る愚かな存在と思っています。
☆ ですから ここは 優劣を問うていないんです。動物は 快楽原
則が妥当するが 人間は 動物として同じくであると同時に それと
は別に 義理原則で生きる側面もある。という事実認識だけなんです。

お礼日時:2020/07/04 17:10

拠り所一般において


それを最初から確固たる土台として
迷わずに進んでいくのは難しいことだと思います。
迷ったときに宗教という拠り所では
自らを超越した存在を想定してハードルを超えていく。
その結果の意味が大きいという経験の蓄積から
そうした信仰という意志の強化という要素の
重要度の高さに弾みがついていく。
つまり経験則の確率の高さを
最終的に根拠にしてきたのではないかと思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 拠り所一般において
それを最初から確固たる土台として
迷わずに進んでいくのは難しいことだと思います。
☆ それはそうです。人生という旅路では あたかもいくつかの
いろんな寺院や聖地を回ってこそ めざす場所にたどりつく・・・
といったことが ふつうなのかも分かりません。


まぁ それでも 一発でドンピシャリと行く場合がないとも限り
ません。

しかも 初めっから――ガキの時から――ひととおりの巡礼を終
えてのように おのが目指す道に付いたのだという人がいないと
も限りません。

(つまり 先回りになりますが すでに《無根拠》によりどころ
を得て すんなりと行く場合です)。


★ 迷ったときに宗教という拠り所では
☆ ですから 《宗教》とは違うんですよね。宗教は オシへで
あり 自分で考えるもの(思想)です。(それを 鵜呑みにして
しまいなさいと説く宗教もあるようですが)。


★ 自らを超越した存在を想定してハードルを超えていく。
☆ これは ふつう一般の社会人が――宗教に関係なく――たど
る道ですね。思想(≒生活態度)を形成するのも ふつう一般の
ことですし。


★ その結果の意味が大きいという経験の蓄積から
☆ たいていは そういう宣伝だけなのでは?

★ そうした信仰という意志の強化という要素の
☆ 信仰は 最初に何かを受け容れるという意志行為がはたらき
ますが あとは バカみたいに無根拠にて判断を成す場合が――
思考を尽くしたそのあと―― ふつうになります。

★ 重要度の高さに弾みがついていく。
☆ その判定は さだまったものではないように思います。宗教・
宗派の自画自賛が しばしばです。

★ つまり経験則の確率の高さを
最終的に根拠にしてきたのではないかと思います。
☆ それは 社会人一般・特に企業家や経営者の場合には 宗教
家に負けないほどの経験やそこに得られている経験法則のたくわ
えがありますから 宗教がひとり偉いとは 口が裂けても言えま
せん。――とわたしは考えます。

お礼日時:2020/07/04 13:37

人間の最も根源的な行動原理は好悪感です。

「好き」なら寄り添う。「やりたい」から積極的に行動する。「嫌い」だから避ける。「やりたくない」から逃げる。

それ以上のことはすべて後付けの理屈です。ヒトの行動規範の根源は原理的な感性に基づきます。ゆえにヒトは虚構でも信じたいものを信じ、事実でも信じたくないものは信じない。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 人間の最も根源的な行動原理は好悪感です。
☆ まあ フロイト方面の見方では 快楽原則とまで言いますから。

部分的には 義理と人情とも言いますから けっこう義理堅いひとも
いるでしょうね。人情の気持ちをおさえて 恩を受けている相手やい
わゆる借りのある相手に対しては その義理を果たすことを優先する。


★ 「好き」なら寄り添う。「やりたい」から積極的に行動する。
「嫌い」だから避ける。「やりたくない」から逃げる。
☆ というふうに ヒトは あたかも動物とおんなじなのか? と言
えば ちがうかも分かりませんよ。問題提起までですが。




★ それ以上のことはすべて後付けの理屈です。
☆ ですから 社会に出て大人になったあとでは 快楽原則と義理原
則とが拮抗するかも分かりません。あるいは 使い分けるのかも。

まったく完全に動物と同じということは あり得ないでしょう。


★ ヒトの行動規範の根源は原理的な感性に基づきます。
☆ 感性を超え理性をも超えたところが あんがい人間存在の《根元
的》な推進力となっているかも分かりません。

そういう場合には 人間の考えや想像をも超えており 行動規範がど
うだこうだでは おさまり得ない何かが はたらくかも。

★ ゆえにヒトは虚構でも信じたいものを信じ、事実でも信じたくな
いものは信じない。
☆ つまり 初めから茶々を入れる側に回ってしまっていますが こ
の場合でも 《虚構――想像力――》や《事実――その認識としての
理性――》をも超えた何かこそが 《信じる》という問題なのかもで
すよ。

お礼日時:2020/07/04 13:18

信仰を持って生きるとは、


クリスチャンの場合は日常生活で
常にイエスだったらどうするか?
又はイエスの教えだったらどうすればよいのか?
と意識して生活することだと思います。
すごくシンプルに言うと。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ クリスチャンの場合は
☆ という前提をおくことになるんでしょうね。


★ 日常生活で
常にイエスだったらどうするか?
又はイエスの教えだったらどうすればよいのか?
と意識して生活することだと思います。
☆ これは たしかに:
★ すごくシンプルに言うと。
☆ とやはりことわっておられるように 個別の情況や場面
での具体的な対処法であるように思われます。


言いかえると 《信じる》とはどういうことか? をめぐる
理論的な定義を飛ばして考えた場合でしょうか。

あるいはつまり要するに その信仰がすでに大前提になって
いるということから来ていましょうか。


使い方がへんかも知れないですが 信仰にかんする或る種の
プラグマティズムのように わたしには感じられます。


と言いますか このご回答内容については 決まったコメン
トを出すのは 合わないのかも知れないと思います。

お礼日時:2020/07/03 21:05

信は知恵に変化します


信は分からない事が分かるようになるのです
疑いは簡単な事でも分からなくなります
人間は信じで行動する
その反復堆積なのです

トルストイは人間は
宗教なしでは生きられない理由を
① 宗教のみが善悪の決定を与えるからだ
② 宗教なしでは人間は自分のしていることが善いか悪いかを
  知ることが決してできないからである
③ ただ宗教のみが利己主義をほろぼすからである
④ 宗教のみが死の恐怖を打ち消すからである
⑤ 宗教のみが人間に生の意義を与えるからである
⑥ 宗教のみが人間の平等を樹立するからである
と言っています
キリスト教には当てはまりません
エセ宗教や占い 霊などは論外です
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 信は知恵に変化します
☆ 信――おそらく感性と理性とを超えたところの何かとわれとのカ
カハリ――の中から ヒラメキを得て そこから知恵が芽生え思考へ
とつながると思います。

その意味で:
★ 信は分からない事が分かるようになるのです
☆ とわたしも思います。


★ 疑いは簡単な事でも分からなくなります
人間は信じで行動する
その反復堆積なのです
☆ ここは どうでしょう。そうとも言えますし その反対の一面
も言えるかも知れません。

常識をうたがうことで あたらしいよい知見が得られるかも知れな
いし 行動するときの《信じる》は じつは 経験的なことがらを
めぐる知識やその確信であるにすぎないかも分かりません。

人間の思考がかかわった信念や信条であるかも分かりません。それ
は 《信じる(信仰)》とは 次元が別だと考えます。



★ トルストイは人間は
宗教なしでは生きられない
☆ わたしはこの宗教は 思考の問題としてのオシへではなく 信
じるの信仰と解しますが:

★ 理由を
① 宗教のみが善悪の決定を与えるからだ
☆ 微妙ですね。究極の善悪は 思考による判断を超えて信じるの
領域に入っているかも分かりませんが ふつうは 人知たる経験合
理性で判定しますね。


★ ② 宗教なしでは人間は自分のしていることが善いか悪いかを
知ることが決してできないからである
☆ 微妙ですね。次も同じくです。
★ ③ ただ宗教のみが利己主義をほろぼすからである


★ ④ 宗教のみが死の恐怖を打ち消すからである
☆ これは――議論できませんが(答えの用意がないので)――分
かりません。その時その場での心理としては つねに恐怖が起き得
るように感じます。

★ ⑤ 宗教のみが人間に生の意義を与えるからである
☆ これは オシへというより 信仰がだと思います。オシへなら
いろんな思想と同列だと見ます。

★ ⑥ 宗教のみが人間の平等を樹立するからである
☆ 《信教・良心の自由》は 信仰の問題でしょう。その自由が互
いにひとしくそなわるとすれば 平等です。

つづく

お礼日時:2020/07/03 10:11

人知と非知の狭間にあるのが人間ですから、非知にも自己を預けざるを得ないでしょう。

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 人知と非知の狭間にあるのが人間ですから、
☆ はい。そしてまた 《有限(人知)と無限(非知)とをあたか
もそれらの一体性としてやどす存在》が 人間だとも見られます。



★ 非知にも自己を預けざるを得ないでしょう。
☆ わたしのひとつの例として:
☆☆ [3] 何かを心に受け容れるという意志行為
☆ を提出しましたが いま:
★ 〔非知に〕自己を預ける
☆ という回答例がしめされました。《あづける》のは たしかに
人間の意志行為です。


あるいは 《ゆだねる》・・・もいいかも知れませんね。

お礼日時:2020/07/03 09:46

信じるとは、他者に自己への関わり許すことと世界を構築するにあたり、共同創造者であることを認めることです。

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この回答へのお礼

となると 人知のおよぶ範囲内にありますね?

つまり 《考える》であって 《非思考としての信じる》とは
ないような。


――ご回答をありがとうございます。


そこんところは 重大ですね。どうでしょう。

お礼日時:2020/07/03 08:26

極力自己の行為=コントロールで世界を構築するというのが小乗仏教なら、そんなものは不可能だと思います。

究極の他者から身近な他者も含めて互いの関わり、強力なしに、世界構想創造はあり得ないでしょう。大乗仏教がリアリズムを持ってます。他者抜きの世界はあり得ませんね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 極力自己の行為=コントロールで世界を構築するというのが
小乗仏教なら、そんなものは不可能だと思います。
☆ 自律しようとしたのかも分かりません。その昔。その初期に
は。



★ 究極の他者から身近な他者も含めて互いの関わり、強力(協
力)なしに、世界構想創造はあり得ないでしょう。大乗仏教がリ
アリズムを持ってます。他者抜きの世界はあり得ませんね。
☆ そうなんですけれどね。


つまり 関係主義は 構造主義も言っているわけですから その
あと《信仰》が どこでどう出て来るか? しっかりと整理した
いとは思います。

お礼日時:2020/07/03 10:33

信仰によっていきるは、喩えれば、大乗仏教であって、小乗仏教ではないということです。

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 大乗仏教であって
☆ 菩薩あるいは仏界が 世界観にくわわったということでしょうか?

そしてそれは 人間の修行といったチカラ〔のみ〕によっては 成就
し得ないゆえと。


このブッダタ―(仏性)は―― 一切衆生悉有仏性と言われるわけです
が―― 問題としては それが《或る根拠》であるか否かだと思われ
ます。(この質問の問題意識としてはです)。



そこんところが わたしには あいまいであるように思われます。

ということは そのブディズムにおいてやはり:
☆☆ 2. 《信じる》とは どういう行為か?
☆ が明らかではないように思われます。どうですかねぇ。

お礼日時:2020/07/03 07:59

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