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 神など存在しないことは猿でも知ってます。
しかしながら愚かな宗教対立や、神の名においての殺りくが絶えません。
宗教を廃絶することによって、多くの罪のない生命が救わます。
人間と神との決別は何時になるのでしょうか。

A 回答 (14件中1~10件)

私が神を信じる理由をお答えします。


この宇宙は、物質のみで構成されている訳ではありません。もし、私たち人間が物質のみから出来ているとしたら、ロボットと同じ存在であるはずです。科学が発達し精巧なロボットが出来ると、そのロボットは世間話をし、またやかんに触れれば熱いと言うでしょう。しかし、ロボットはそう言っているだけで実は何も感じてはいないのです。
これに比べて、人間はやかんに触れれば、実際に熱いと言う感じが生じます。そして、その熱いと言う感じは、物質ではありません。幾ら顕微鏡で脳の中を覗いて見ても、熱いと言う感じを見る事は出来ません。確かに、物質が熱いに対応した動きをしていることでしょう。しかし、それは熱いと言う感じそのものではありません。
脳と言う物質の熱いに対応した動きが刺激となり、私が熱いと感じているのです。熱いと言う感じは物質ではありません。従って、それを感じている私は物質ではないのです。私は、無限の感受性である精神です。
心は、物質と精神のコラボレーションです。物質がなければ、何の刺激も受けないので精神は何も感じません。また、物質のみでは何も感じることが出来ません。
では、一秒前に私の脳が刺激を送っていた精神は、今の私である精神でしょうか。その保証は何処にもありません。精神に記憶が蓄えられるのであれば、一秒前に私の脳が刺激を送っていた精神と、今の私の精神とは同じか違うかが分かるでしょう。しかし、記憶は脳と言う物質に構造として蓄えられます。
脳と言う物質が移動する度に、異なる精神に刺激を送っているかも知れません。一秒前に他の精神が感じた記憶を脳と言う物質に蓄え、今の私の精神に記憶と言う刺激を送っているだけでしょう。そうなると、この宇宙には、精神が満ちていることになります。若し、精神のない空間があるのであれば、人がその空間に移った時、何も感じなくなります。しかし、その様なことは起こりません。
精神は宇宙に一つあり、全宇宙に満ちています。人は移動する度に、その精神の異なる部分に刺激を送ります。ですから、私は私と言う特定の存在ではないのです。他人も私も同じです。ですから、汝の敵を愛することが出来るのです。
物質の全体を宇宙と呼びます。精神の全体を何と呼んだら良いでしょうか。私達は皆、至高な精神の一部分なのです。
また、精神は物質を動かすことが出来るのです。物理学では、物質を動かす力は、重力・電磁力・強い力・弱い力の4つの力であるとします。しかし、実際には、私と言う精神は手と言う物質を動かすことが出来ます。 
そして、この社会は、精神の意思により動いています。この様に、社会の動きを物質のみで説明することは出来ないのです。
そして、この宇宙の始まりを物質のみで説明することは出来ません。物質の因果関係は、原因が結果を生じ、その結果がまた原因となり結果を生じると言う形となります。宇宙の始まりは、原因なくして結果が生じなければなりません。つまり、無から有が生じなければならないのです。
しかし、物質は無からは生じません。これに比べて、感じは生じたり消えたりします。精神は原因から自由です。従って、宇宙の始まりにおいて、最初に動いたのは自由な精神でしかあり得ません。宇宙を創造した精神を何と呼ぶべきでしょうか。
 私は、その至高な精神がどの様にこの宇宙を作ったのかを探求しています。もし、物質の因果関係のみでは説明出来ないことが残されたら、それは神の存在を証明したことになります。こう言う意味で、物理学と神学とは、排斥し合うものではありません。
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難しい問題ですね。



ユダヤ、キリスト、イスラムの争いの問題に関しては、一神教の世界ですので、神がいなければ彼らの争いは無くなるのではないかと思います。
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ほほぉ。

、猿と話ができるとは素晴らしい。それにいつ神の非存在が証明でしたんでしょう?
まさか、高名な物理学者が言ったからとか言わないですよね。そうだったらそれこそ宗教じみている。

もし、宗教のないところに戦争がないのであれば、中国やソ連は100%戦争しなかったでしょうね。北朝鮮も戦争などしない国ということです。
テロを行っているのはイスラム教徒やキリスト教徒ではなく各原理主義者だということです。
それに中には支配者のエゴによる戦争を宗教戦争だと意図的に報じている馬鹿な日本のマスコミもある。
まさかソレを見て「宗教がなければ」なんて考えては居ないでしょうね。

信仰は自然発生的に、しかも世界で何の脈絡もなく他地域で発生しています。
この現象の正確な根拠も示せない科学とやらが宗教を否定するなど数千年早いということですよ。

それに貴方の言う宗教戦争とやらは要するにキリスト教徒イスラム、或いはキリスト教徒ナニガシということでしょ。ソレは単にキリスト教批判でしかないですし、或いは宗教に名を借りたイスラム同士の部族紛争でしょうか。それを宗教と括ってしまっては価値のない論理だということです。
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「神の名における殺戮」は、その集団の外との「殺戮」であり、


その集団の中では、逆に「神の名において」意識の利己性は
コントロールされ、「殺戮」は遠ざけられているのです。

神との訣別は、そうした“嘘も方便”を要さず、自己の社会生命
性の自覚化(愛)により、(お金のためにイヤイヤ働くのではなく)
自律的に社会行動をとれるようになった時である。

現実は、神に代わる“他律的社会性”=お金によって、人の
意識は一層自己チュー化しており、この先、神が消滅すると
したら、人が歯車化し、条件反射的に社会行動をとらされるよ
うになった時、意識の中の世界と共に神は消滅するのだろう。
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ご質問をお読みしまして、以下の聖書箇所を思い出しました。



「あなたは、あなたの神、主の名を、 みだりに唱えてはならない。」 

願わくば、神を知って、その時点で神との決別を検討してみていただければよろしいかと存じます。現時点では神を知っておられないので、つまり神と出会ったことがないので、そもそもご質問者さんご自身に関して言えば、神と決別することは理論的にありえません。

ただ、神を知る者としては、神に関心を寄せていただいていることに感謝を申し上げたいと思います。聖書の言葉

「主を畏れることは知識の始まりである」

聖書に語られているイエスを調べていただけますと、神がわかるのではないかと思います。
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 こんにちは。


 あえてこてこての宗教の議論をかかげてみます。

 ▼ (アウグスティヌス:神の治療) ~~~~~
 ところで治療は健康にいたる道である。
 これと同じようにこの治療は罪びとたちを救いだし 健康を回復させるためになされる。


 医者が傷口を縫い合わせるときは むやみにでなく 適切におこなう。そして傷の手当という実用だけではなく 見た目にも美しく見えるようにする。
 それと同じように知恵の行なう治療は人間の姿をとることによって われわれの傷口に合わせてくださる。

 ある傷にはそれに合ったものをまたある傷にはそれと反対のものをあてがうのと同じである。

 身体の傷を治療する医者も 熱を帯びたものには冷たいもの 湿気のあるものには乾いたもの その他そうした類のもののように ある反対のものをあてがう。

 ところが似たものをあてがう場合もある。丸い傷口には丸い絆創膏を 細長い傷口には細長い絆創膏をあてがい すべての肢体に同じものをあてがうのでなく 同じ形の傷には同じ形の布をあてがう。

 このように神の知恵が人を治療なさるとき 治療するために ご自身をさし出される。医者みづからが薬になる。



 だから人は傲慢のために高みから落ちたので 人を癒すために神が低くなられたのである。蛇の知恵によって欺かれ 神の愚かさによって解放される。

 けれども神はかの知恵と呼ばれているのに 神をなみする者にとっては 神は愚かであった。そのようにかの愚かと呼ばれた方は 悪魔に打ち克つ者にとっては知恵なのである。

 われわれは われわれが死ぬために不死の性質を悪用したのであるが キリストはわれわれが生きるために死すべき性質をよく用いられた。女性の腐ったこころから死が始まり 女性の完全な体から救いが現われた。

 神の徳を模範とすることによってわれわれの悪徳が治療されることは異種療法に属する。
 女に欺かれた者どもを女から生まれた者が 人びとを一人のひとが 死すべき者たちを一人の死すべき者が 死者たちを死によって解放されたのは われわれの肢体や傷口に 傷と似た形の繃帯をあてがうのと同じである。
 やりかけた仕事を私のように進める必要のない暇な方々がもっと熱心にお調べになったら これ以外にもいろいろ キリスト教的な異種療法や同種療法の症例が見つかることであろう。

 『キリスト教の教え De doctrina christiana 』 加藤武訳 第一巻第14章〔13〕)
 ~~~~~~~~~~~~

 ☆ 人間は死んでいた。というわけのようです。高みに登りそこから落ちたけれども なお高みにいると思っていたと。
 いや いまも死んでいるのかも。それゆえ 神が――神の独り子が――死を死に去って行かねばならなかったというたいそうな話です。
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全人類が全く同時に、絶対的に正しい生き方を教わりたいとか、心の支えが欲しいとか、苦しみから救われたいとか、死後の幸福を望むとか、地上を天国にしたいだとかの都合の良い考えを捨て去って、自分以外の何者も頼りにせず、超然と独り歩む覚悟を決められたら、神と決別する事が出来るでしょう。



・・・まあ、そんな日が来るわきゃないけど。
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猿は神の存在を認識していないので、猿は知らないと思います。



神の名の元に行われる殺戮や宗教対立は、神の名を隠れ蓑に、別の理由からも生じているので、仮に宗教を根絶したとしても違う隠れ蓑をみつけて行われると思います。
表側の理由だけを無くせば全てうまくいく、と単純な解釈しか出来ない見方の狭い人が、簡単に洗脳されてるのだと思います。

世の中、そんなに単純じゃないので、もうちょい頭を使って下さい。
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”神など存在しないことは猿でも知ってます。


    ↑
さすがに、猿は知らないと思います。
京都大学の研究によると、猿には希望も絶望も
存在しないそうです。
そんな動物には、神という概念もないでしょう。

”しかしながら愚かな宗教対立や、神の名においての殺りくが絶えません。”
    ↑
そうですね。ただ、宗教の対立が戦争の原因に
なったのは、あの30年戦争まででしたよ。
それ以後は、領土や資源が戦争の原因になりました。
EUは石炭と鉄鋼を巡る争いを防止するための組織が
発端でしたし、イラク戦争は石油目当ての戦争である
ことは、国際政治学者の間では常識です。

”宗教を廃絶することによって、多くの罪のない生命が救わます。”
    ↑
それはありますが、宗教を廃絶することによって、あたらに多くの
罪の無い生命が失われるでしょう。
倫理や法の基礎となっているのが、宗教ですから。
マックス・ウェーバーは、プロテスタントの勤勉、質素
思想が資本主義を成功させたとしています。

”人間と神との決別は何時になるのでしょうか。”
    ↑
人間と神を完全に切り離してしまったら、
家族の遺体もただの生ゴミに変わります。
そんな世の中は背筋が凍ります。
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こんにちは。



我が家では仏教なので神様を崇めた事がありません。
だからといって仏様を崇めている訳ではありません。
先祖の墓の事もあり、我が家は仏教なのですが、
私自身は無宗教主義者です。
宗教は残念な事に争いの元です。
古くは十字軍の遠征、織田信長の比叡山の焼き討ち。
江戸時代になると踏み絵。
アメリカと中東諸国などの衝突も元を辿れば宗教による
思想の違いから始まったものです。
自分の悩みを解消するのに神様・仏様を信仰するのは構いません。
しかし宗教を理由に争い事を起こさないで頂きたい。
切なる願いです。
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