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礼儀ってのはある種の身体作法・操法だと思うのですが、それが身に着いていない人達が多いような気がします。おそらく僕も例外ではないのでしょう。

推測ですが、昔は礼儀正しい作法というのをある程度、誰でも周知していて、だからこそ、それに対して反発してその作法を崩してみたりするということがあったんだろうと思います。その場合、たとえ表向きは礼儀正しい身体作法に反する行動をしていても、崩すべき礼儀というものに確固とした存在感があったんだろうという気がします。

今はそれがない、というか、礼儀正しい作法という型が最初からないので、だから礼儀正しさも無ければ、その逆に、無礼・非礼と言われるような作法もない。それが当たり前になっている。「それは作法になっていない」と指摘でもしようものなら「どうして?」と問い返されることでしょう。「それが当たり前だから」では通用しないわけです。その人達にいくら理屈をこねくりまわして説明してもやはりその理屈を言っている当人が、「礼儀の良し悪しに理屈なんてない」と思っているから、どうも説得力を持たない。だから、礼儀作法の大事さも伝わらず、礼儀正しさも無礼・非礼もない状態が当然のこととして定着している。

礼儀について何かお考えがあればおきかせください。

A 回答 (5件)

 礼儀というのは集団の中での潤滑材というか、流れをスムーズにするためのもので、機械の種類によってグリスやオイルが異なるように、組織や団体の性格やレベルによって、礼儀のレベルや性質、求められる所作やしきたりも変わるのが当然ではないでしょうか。


 ヤクザが仁義を切る、掟を守る、というようなことも礼儀でしょうし、一般人が挨拶をしたり、会社で上司に敬語を使ったり、引越しの際に隣人に贈り物をしたりするのも礼儀でしょう。
 要は相手に気をつかう、ということができているかどうかが問題とされるのであり、その形は状況によって千差万別、一つではないでしょう。

 また、礼儀作法の「作法」の部分を徹底するのは最初は好印象ですが、親しくなってきたのに繰り返されると鬱陶しく感じるもので、よそよそしい感じすら抱かせてしまいます。
 正さなければならないところは正すが、基本的にはフレンドリーに。
 親しき仲にも礼儀あり、とは、まさにそういう状況なのでしょう。 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

できるだけいつも機嫌よくいたいものですが、なかなかそうもいきませんね。

もしかしたら、一番の無作法は不機嫌な状態で他人と接することなのかもしれませんが、いつも機嫌がいい人なんていませんし、無理するとそれはそれで相手に気を遣わせることになってしまう場合があるから難しい。

アメリカ社会のように、「不機嫌な人間はなめられる」ような社会ともまた違う社会に生きているわけですし。

お礼日時:2013/02/23 10:54

礼儀の根本というのは、相手に「礼」を尽くすことだと思います。


相手を敬う、思いやる気持ちがあれば、本来型なんて必要ないのでは?というのが個人的な考え方です。
(気にされる方はいらっしゃいますので、知っている限りの作法は実践しますが)

作法というのは、礼儀に関する共通表現であり、気持ちを一々言葉にせず所作で表すものだと思います。
共通認識があって初めて機能するので、知らない人が増えれば機能しないのは当然です。
知らない人が増えたのは、教える人がいないからであり、昨今急に廃れたのではなく、伝承されずに徐々に機能しないことが増えた結果が現状だと思います。

私は機能しなくなる慣習というのは時代にそぐわないからであり、極端な言い方をすると不要だから廃れるので、礼儀作法が市民権を失うのは構わないと思います。
ただし「礼」の心が不要かというとそうではないと思いますので、その気持ちを示すコミュニケーションを心がける必要はあります。
自分がされて嫌なことはしない。
自分がされて嬉しい心遣いを相手にする。
それだけのことです。

礼儀作法は美しいと思いますし、知っている方が人間として器も広がると思います。
しかし「礼」の心もなく、それが作法だから型だからで礼儀作法を実践されるよりは、型外れでも気持ちのこもった振る舞いの方がいいのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

ご指摘痛み入ります。

僕なんか、仕事のため、とかじゃなくて、生き方の根本に関わる問題として、ちょっとした趣味として礼儀作法を身体化させたいと思ってるんですが、礼儀作法を身につけることがなんらかの手段として認識されている現状でそういう考え方は成り立たないのでしょう。

お礼日時:2013/02/23 10:50

礼儀とか言葉使いてのは、単なる形ではありません。



礼儀や言葉遣いてのは、その人の人格を形成して
いくのです。
礼儀や言葉遣いに注意しているひとは、姿勢や
顔つきまで変わってきます。

ある高校の話ですが、相手を呼ぶときに「君」「さん」
をつけるだけで、いじめが激減したそうです。

日本の若者が劣化した、と言われて久しいですが、
その原因は、礼儀作法の欠缺にあると思っています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

おっしゃるとおり、形だけではだめでしょうが、まずは形が大事なことは確かです。特に子供や若者にとって形というか型は非常に大事でしょう。

大人になってから、ビジネスマナー研修とかで付け焼刃的に礼儀作法を身につけても遅いと思います。昔は、家庭や学校で礼儀について言われていたから、社会に出てからの研修はその程度でよかったんでしょうけども、今は、ぼろぼろの状態で社会に出てきて、そこから身につけなきゃいけないから、どんなに礼儀正しい形をなぞっていても、身体化されていないわけです。

仕事の時だけ、その型をなぞって振る舞うけれど、ちょっとでも仕事から離れるとそれが崩れてしまう。地金が出てしまうといいますか。「相手に対して失礼だから礼儀作法を守る」という感じであって、礼儀作法を身につけることが自分にも快をもたらすという感じはない。頭のどこかで「めんどくさいけど、仕事だからしょうがない」っていう感じで礼儀作法を守る。いくら型だけは礼儀正しくても、それでは相手に伝わらない。礼儀正しいのに相手を不快にしてしまう。

「他人のふりみて我がふり直せ」と言いますけども、難しい。

快・不快原則でいうと、礼儀正しい振る舞いって快だと思うんですが、めんどくさいこと、不快なことだという事になっちゃってるんじゃないでしょうかね。特に若い人達の中では。

お礼日時:2013/02/23 10:47

ご質問者様こんばんは。



礼儀とは所作、つまり動きのことです。定められた正しい動きを覚えることは、相手の方の心の静寂を侵さない配慮から生まれるのだと思います。

また、文化というものは「詩、歌、舞」という要素を含むと考えます 。所作、つまり動きは「舞」に当たると思います。つまり、礼儀とは文化そのものなのです。

現在の礼儀についてご質問者様は危機感をお持ちですが、歴史に培われてしぶとく鍛え抜かれた文化を、近代の日本社会では相応の時間をかけて経験する機会に恵まれる方は多くはありませんね。礼儀にまつわる深い知識や教養が備わっていなければ、無論、相手の方へ対する配慮の実現とは程遠いものに成り下がるでしょうね。

現在の日本は「消費者」としての礼儀さえ守れば良いと社会から要請されていると思います。消費者の礼儀は、必ずお金と交換すること、新商品を有難がること、消費することの奴隷となって、それを至上の喜びとすることだろうと思います。お金と交換することの最大のメリットは、お金に見合う価値あるものと交換をすることで、時間を節約することが出来ることですね。

節約した時間を礼儀作法を学ぶ時間に使えないのは、自分の時間を得るために更に膨大な時間が必要となったからです。せっかく作ったそういう大切な時間を、礼儀作法の訓練にあてるよりも、消費者としての自分を守ることに使いたいと人々は願うようになったのだと思います。つまり、相手の方への配慮よりも、自分自身の満足さえ追っていれば良いのです。

歴史に裏打ちされた文化は、今の時代とはズレています。そもそも日本の文化の源流は農耕ですから、現代の商業化された社会とのズレが生じるのは仕方のないことかもしれません。ただ、現代は、文化的な礼儀に対して寛容になったと言うこともできますね。

変化して行くものを愛を持って受け入れることも大切ですね。明確な意志を持って「何をしない人間になるのか?」ということを、現代社会では一人で答えを見つけなければなりません。それはとても難しい作業であると思います。そしてまた、時間は消費されて行くのですね。
ご参考になれたら幸いです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

とても興味深く拝読しました。

ただ、僕は今の世の中を憂えているわけではありません。どういう世の中があるべき姿なのか、なんて理想像は持っていません。ただ、消去法的に「これは不快だな」とか「これはいい(快)な」とか、感覚的に好き嫌いを感じ、できるだけ不快は少ない方がいい、と思っているだけです。実際に生きていると世の中は不快なことで満ちているわけですが、その不快をどう減らすか、というのが個人的な課題です。

他人の振る舞いを批判し否定することによって自分の不快が減じることはあまりありません。むしろ余計な反発を買って不快が増えることの方が多い。でも、誰も言わなくなると、どんどんひどくなり、不快が増えてしまう。一体どうすればいいんでしょうね。

家庭での教育、学校での教育、マスメディアの影響、などいろいろありますけどね。

お礼日時:2013/02/23 10:39

大人になって分からない事があれば基本に戻る。


朝はおはよう。世話になればありがとう。保育園児だってできます。
言葉は心の表れですから素直な人や謙虚な人は普通に言える。恥ずかしいと言い訳できるのはせいぜい10歳まで。礼儀を欠けると人間関係は著しく悪化します。ビジネス上ではチャンスロスや損失もあります。
気は心という言葉もありますから人の言葉に耳を傾けると己が見えてきます。
ビックな人ほど紳士ですよ。あなたの周りにもいませんか?
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。

「礼儀を(たぶん「に」でしょう)欠けると人間関係は著しく悪化します。」とありましたが、どうでしょうか。

礼儀に欠けている状態が当たり前の集団の中では、礼儀正しく振る舞うと却ってその中で浮いてしまうために居心地が悪くなるということがあります。だからといって、わざわざ無礼な振る舞いをするのはおかしいのですが。

礼儀といってもその集団の中でどういう振る舞いが礼儀正しいと認識されているのかが結構違います。日本の社会は均質的だ、なんて昔から言われてますけど、本当にそうなんでしょうか。

ただ挨拶をしていればいい、とか、ただ敬語をそれなりに使えればいい、とか、その程度のレベルにまで落ちちゃってます。身体作法とか声の出し方とかなんかそういうのはもうだめですね。なぜだめになったのかという仮説はたくさんありまして、そのどれもがもっともらしいのですが、所詮仮説ですし、意味がありません。そのような仮説が仮説に過ぎないのに力を持ってしまうとそれはそれで犠牲者が続出してしまうわけですが。

なんかいい質問が思い浮かびません。礼儀正しい振舞い方というものに存在感があった時代には、修正も楽だったでしょう。崩す側にもその型の意識があったわけですから。

崩れている状態が当たり前だし、型があるということすら思いもよらないと言う感じ。

不思議ですな。なんか元気でないですけど。

残念ながら自分の周囲に紳士と呼べるような人はいませんね。出会ったこともありません。

礼儀とも関係するかもしれませんが、自分の善意を遠慮せずに発揮しやすい環境にいたことがあまりありません。

保育園児とか幼稚園児でもできる、といいますが、彼らや彼女らと比べる意味はありません。大人は大人と比べましょう。

ビッグな人ほど紳士ですよ、(ところでビッグな人って具体的にどういう人物のことなんでしょうか)とありましたが、たくさんの人々に注目されているがゆえに紳士的に振る舞う人物を高く評価する場合にはそれなりの留保が必要だと思います。不特定多数の人々からその一挙手一投足を注目される人なら、誰だって紳士的に振舞わざるを得ないでしょう。まあ、僕とは無縁の世界なので関係ありませんが。

今は紳士然としている人物が、若い時にはろくでもない人物だったなんてことはそんなに珍しくもないでしょう。

お礼日時:2013/02/23 03:20

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