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何の宗教にも所属していない大学生です。
キリスト教徒・イスラム教徒・仏教徒etc.……何らかの宗教に入っており、そこで修行されている方に質問です。
日々の「目標」は何かお持ちなのでしょうか?

キリスト教徒だと「最後の審判」、仏教徒だと「涅槃」などの最終目標は設定されていますが、それに到達するまでのマイルストーンとしての目標は何かないのでしょうか。
例えば、仏教徒だと「5年後には寺院の○○の地位について、悟りに近づく」とか。
クリスチャンであれば「聖書を暗記する」とか。

あるいは、修行者は目標など持たず、黙々と祈りや修行に励んでいるのでしょうか。

A 回答 (4件)

私は宗教を特に問わず、道や修行、という観点で答えたいと思います。

ですので、あくまで参考という程度にとどめておいて下さい。質問者のニーズに無ければ捨て置いて下さい。
私の考えでは、道や、修行と言った事柄に興味を持つ事が第一歩、そして、精神修養に入るのが第二歩目です。第三歩目がゴールとするなら、これら三つの(マイルストーンとは言えないかも知れませんが、)単位があると言えます。喩えるなら、旅に出ようと心に決めるまでが一単元、旅に出る事が二単元目、目的地に着くのが三単元目、という感じでしょうか。
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宗教の目的は『魂の救い』です。

貴方がこの事を望むとするなら、必然的に学ぶようになると思います。

この世の中が『有限』で出来ていながら、貴方が永遠に付いての価値観を求める時です。或いは、自分の中で『何か落ち着かない気持ち』や、『何かしっくりしない気持ち』が湧き上がって、この気持ちを充足させるために、『何か?』を求め始める時などです。

或いは湧き上がる疑問や不安や、恐怖感等に付いて『自分なり、に決着を付けようとする時』等です。

人間が本来抱く疑問は『自分自身の答えが分かっている者』からの質問という意味があります。この意味は『何故疑問に思うのか?』と、『自分に質問出来るからです。』

こう云った自身に湧き上がる疑問の答えの行き着く先が『宗教』です。人間の頭の半分は『宗教』で出来ているからです。

科学的な証拠です、ウイキペデアからです。

『”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究

ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”』

この事実を、脳卒中と言う体験を通して、内部から脳の機能を追体験した脳科学者の動画を紹介します。良く観察して下さい。

『脳卒中、ジル、ボルト、テイラー博士』と検索をしてみて下さい、動画が出てくる筈です。

テイラー博士が語っている内容は正に『宗教体験』です。結論から書くなら『右脳の人格』は神や仏という意味です。右脳の人格の機能は『生命発生装置兼生命維持機能』です。

この『命の働き』=『仏性』との脳内での出会いを見性体験=悟りを開くと表現します。

人間が感じている疑問も、不安も、恐怖感も、安心感も、結局のところ『自分自身を知る事』によって、『完全解決出来る』性質があります。

ソクラテスが言っていた事『汝自身を知れ!』ですが、東洋では『無為自然』です。『道に至る』です。仏教では『見性成仏』です。キリスト教では『神と和解して、神の僕となる』です。

これ等は『全く違って見えていますが』同じ脳内反応を言っています。

禅ではこの答えを知る事を『生死の問題が解決する。』といっているようです。最重要課題となっています。生にも死にも左右されないで『自在の生き方が出来るようになる、考え方の事』です。

こう云った考え方になる事が『宗教の目的』です。有限の壁を乗り越えて永遠に至る事を教えているものが『宗教』の原点です。

人間である事に『永遠の価値観を見ながら生きる事』を意味します。それも自分の欲や得を度外視しながら、生にも死にも執着しないで、です。
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>あるいは、修行者は目標など持たず、黙々と祈りや修行に励んでいるのでしょうか。



○知の欲求のためですね。人生のありよう、地球のありよう、宇宙の有りよう、宇宙を超えた世界のありようなどなど知りたいからですね。修行者は黙々と学んでいるのですね。その過程で真実を知らない愚か者に教えることもありますが、主体は黙々と学んでいるのですね。それだけですね。知らずして生きること、知らずして死ぬことほど恥ずかしいことはない。ということを知れば自ずとそうなりますね。
また、知らずして地位や名誉を受けることほど恥ずかしいことはありませんね。
この世の知識は、「ごみくず」程度のものということに気づいた時の衝撃はいかなるものかを体験すればわかりますね。「ごみくず」にまみれた人の群れを「あわれ」と感じることもありますね。そこで、修行者はまずは「仏にすがりなさい。」と諭すのです。それが修行者にできる唯一のことですね。真理はあまりにも深遠で膨大、摩訶不思議観に満ち満ちているからですね。
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ある一定の修行をしている人には段階ごとに、自分の体に変化を感じます。


その変化が色々な形で、例えば口伝や、本などによって伝えられています。
しかし、それらは「忍耐して待つ」という姿勢が求められます。
そして、ある時、自分が遅々として進まなかった修行の成果が、表れていることに気づくことになります。
まあ、実践していない人には分からないことでしょう。
地位につくとか、聖書を暗記するなど、修行の目標としてはあまりに滑稽です。
名誉心が強いのか、はたまた、単に褒められたり崇められたりしたいだけなのかは分かりませんが、
もうちょっとましな目標を掲げるべきですね。
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