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僕は、未だに中学校から数学を学ばなければならない事に疑問を感じています。
結論を言うと、小学校までの算数を学ぶまでで、将来社会人となって働くには充分だと思います。

高校数学は勿論、中学校で学んだ数学が今までの日常生活はおろか、現在社会人である僕の仕事で

役に立った事など全くありません。

それもそのはず、日常生活でする計算など、電卓やレジやエクセル等を使えば充分なのに、
方程式、連立方程式、1次2次関数、証明、平方根、因数分解等が何の役に立つのですか?

これらの数学が出来なくて、困った事など、断言します一度もありません!!!!

とはいえ、将来は理系に関わる仕事(土木・建築・医療・薬学・電気・機械系・農学等)がしたい人や、数学を専門的に学べる大学や大学院に進みたい人もおり、あるいは国立大学に進みたい人、数学の
教師や塾講師になりたい人もいるでしょうから、そういう道に進みたい人だけ数学を学べば良いのです。

しかし、私が納得いかないのはそんな数学が、中学から国語と英語に並ぶ、重要教科になっているという事です。一般教養だかなんだか知りませんが、英語や国語ならともかく、数学なんて一般教養の科目にしても何の意味もないと思います。
更に、大学入試だと、私立の文系大学なら受験科目に数学を選択しなくても良いのに、高校入試だと
必修選択です、それも実に納得いきません。

ちなみに数学が嫌いや不必要という考えを持ってる人は僕以外にも沢山おります。mixiのコミュニュティーでも「数学嫌い」というコミュもあるぐらいです。

ここで、質問に入りますが何故日本という国は、数学なんかを中学で強制的に学ばせ、必修教科にする等訳のわからない事をし、何故選択教科にしないのでしょうか?

A 回答 (21件中1~10件)

単純に、色んな勉強をするための1つの手段だと思います。


大体本当の勉強なんて、社会にでて、自分が危機にさらされてするもんだと思いますがね。その時に、少しでも頭がいい方が助かる確率が高いだけと違う?
別にやりたくなきゃやらなきゃいいじゃん。逃げ回ってればさ。
だけど、カリキュラムについてはさ、
大学受験を意識するまで、学生の方向性は、定まらないし、苦手なのを知っておく事や、知能のバランスを考えて、何百万の学生に公平で公正な価値として、高卒を認定する。という前提・・・さ、あなたならどんなカリキュラムにしますか?世界各国から認められている日本のカリキュラムを覆す素晴らしいご意見をどうぞ!
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じゃあ、ぼくからもっと過激な意見、いいですか?



学校の科目って、どれも義務化する必要なくねって感じです。

ぼくね、理系だったんです。

古典とか、社会、意味わかんなかった。

古典なんて、誰も使わないし、地理なんて地図見りゃわかるじゃんって。

なんでこんなの覚えなきゃいけないんだろうって。

みんながやりたい勉強やれば、しあわせでしょ?

お花勉強したい人はお花を、スポーツならスポーツ、お笑いならお笑い、
物理なら物理、法律なら法律。

あんな画一的な教育の意味がわかりません。

ってか、あなた勘違いしてますよ。

あなたは勉強する義務なんてないんです。

先生の言う「勉強は権利でありがたいものだ」とは違います。

あれは、権利と言う名目の義務です。(笑)

そうじゃなくて、国民の義務は「教育を受けさせる義務」です。

あなたが受ける義務じゃない。

あなたが「勉強したい」って望んだ時に、「それを大人は受けさせろ」ってことです。

権利ですから、当然放棄していいんです。

まわりがガミガミ言おうが、数学やらなければいいんです。

どうせ、まわりはガミガミ言うことしか、できません。
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 こんばんは、三度目の回答です。


質問者様は「現在の中学校の数学カリキュラム」と70年代頃のそれとの違いにお気付きでしょうか。現在、中学校の数学の教科書には三角関数の項目がありません。
 僕が過ごした70年代には、この項目があって中三の段階で「サイン」「コ・サイン」「タンジェント」を扱っていましたが、それには理由もあります。この「三角関数」を実際に使用するシーンが実業界でもあり、それは測量を扱う建築の分野です。
 中学校の教育課程は義務教育課程ですから、国民としての最低限の知識を習得する場でもあります。つまり中学校を卒業した段階で一人の日本国民としての最低限の素養を持つことを意味します。これは裏を返せば、中卒でも仕事に従事できる人間を育成するとの意味であり、日本の得意とする分野でもあった土木建設の領域で即戦力となる人材育成を意図してのことに他なりません。現在なら差し詰め、異文化とのコミュニケーションを図ることを企図しての外国語教育に相当するとお考えになっても差し支えはありません。
 質問者様の論理からすれば、「英語は役に立つから必要科目ではあるが、数学は役に立たないから必要科目ではない」との帰結になりますが、この英語も数学も「論理とそれを示すための適切な表現手法」との点では一致もしています。むしろ問題であるのは、そうしたファンドメンタルな部分の意味を教えず、節枝末葉に拘ってしまう運用上の不味さと、教員の独創的なアイデアを中々認めたがらない文科省の基本姿勢にあるともいえるでしょう。
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学校教育の内容に関していろいろ問題があるのは事実でしょうが、「実社会に出てから使わない人には必要ない」「必要になりそうな人ややりたい人だけやればいい」というのは最も陳腐で浅はかでつまらない考えです(だからたくさんいるんですね) 。

しかしあなたにそれを説明しても無駄だろうからやめておきましょう。こういう投稿をする人って、ただ自分の考えを主張したいだけで、それに対する反対意見を真摯に受け止めようとする姿勢を持っていないんだもの。
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そんなこといってたら、社会だって国語だってなんだって別に知らなくてもできなくても生きることはできますし、それによって損をすることと特をすることを天秤にかけたら習わなくてもなんとかなるのではないでしょうか?例えば、読解力とか言いますけどそれって結局何?って思いますしね。

漢字だって書けない読めないと困るときもあるでしょうが、今はパソコンで打てばいいですし、知らない漢字が出てきたらネットで調べればすぐにわかりますよね。メールの文章力とかそういうのだって結局国語ができるからといっても結局社会で通用する「マナー」みたいなのはもともとお手本のパクリみたいなものであって別にオリジナリティを発揮する必要はありません。これもどちらかというと知らなければネットや本で調べて真似すればよくって結局そう言う事を言っていたらどちらかというと最低限の日本語力があれば(多分小学校+中学校の一部)、あとはネットとか情報端末とか人脈とかを駆使してどのようにして知らないことをすぐに調べてやりくりできるかとかの方が必要なことになってしまいますよね。

 数学が苦手とかそういうのは人それぞれですので、結局国語や社会が苦手な人からすればそれを知らなくてもいいでは?と思うこともあってもおかしくないでしょうよ。ですが、結局何が言いたいかというと中学校とある程度高校までの内容ってのはやっぱり教養として考えるべきである意味それは”基礎”であります。義務教育までは管理する側の都合と考えると、高校以上の教養ってのは基本としてそこまではエリートとして(本来は)どのような分野にいる人であろうと対応できなればならない”基礎”という位置づけであるべきものだと思います。実際高校までの数学なんて本当に基礎ですから、できないならやっぱり嫌いだから使わないから知らなくていいという問題ではなくてできないなら(理解)できるようにならなくてはならないものだと思います。

 そもそも学問なんて根本を突き返すと実学的なものというよりも好奇心の探求のようなものなのであって、昔であればそれは貴族の暇を持て余した趣味に過ぎないでしょう。だから、当然自分の生活に余裕のない人とかそんなん学んでいる暇があったら仕事しないと生きていけないと思う人がいれば、それは当然優先順位としては低くてもいいでしょう。まあ日本でいう義務教育ってのが最低限国の保証する期間だとすれば高校以上は当然趣味の域であって、本来なら勉強したくなければしなくてもいいんではないかなあとも思います。ただ、いずれにせよ国語だろうが数学だろうが本来ならば中学あるいは高校レベルは好き嫌い苦手得意を問わずして対応できるようになるべきものであって、できないならばできるように努力するのは至極当然なものなのではないかと思います。
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いや、Excelで「関数」つかうでしょ。

関数って小学校の算数では習わないと思うけど?ひょっとして四則演算しかしてない?(それでも本当に数学音痴な人は四則演算の式も立てられないよ)

中学校の数学で習ったことを小学校の算数で習ったと思ってないかな?


私は仕事も理系ですが、趣味でも数学使いますよ。

旅行→移動距離や所要時間の計算。海外旅行では外貨計算して準備しておかないと。

天体観測→もうこれは数学の塊。実際自分で計算することは稀だが数学的な感覚は必要。

鉄道模型→三角関数の計算するために関数電卓買った。パソコンより使いやすい。電気工作でも数学必須の理系の趣味。(苦手でもできるが金がかかる。電気関係は自作した方が圧倒的に安いので)

コンピュータ→ハードいじるのは数学の知識要ると思うけど?

高校の物理・化学は方程式が解けることを前提としているので、中学校の数学が無いとほとんどわからないです。だから強度計算が必要なものを作ったり、化学反応を伴ったり、数字の持つ意味を理解することが必要な仕事や趣味は数学要りますよ~。
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 序でにいうとね。

英語よりも「国語教育」をもう少し何とかせねばならない、と僕は考えてもいます。
何となれば「日本語」は全ての成立過程において「翻訳語」でもあり、万葉仮名は一字一音の原則で音を示すことに目的がありましたが、それに「意味」を与えるとの行為に変化するのは、少なくとも「カタカナ」の登場を待つしかならない。
 カタカナは構造として漢字の旁の一部を取りだすことで成り立ってもいる。そこから逆算すると「漢字が持つ意味」を理解できなければカタカナの由来も説明することは困難でもある。
 実際にカタカナには61もの発音があり、ハ行でも「ハ行点呼音」などといって、助詞の「ハ」を「ワ」と発音するものと「ハ」自体が“pha”であるものとそれ意外に分けることもできます。
 漢語そしてサンスクリット語や古代朝鮮語、日本独自の仮名と発音、中世での西洋との出会い、近代以後の本格的な西欧語の移入と外来語が日本語に転化する過程などを踏まえますと、より一層「翻訳文化としての日本語」に関する教育時間を割くことが必要であるとも考えられます。英語はその後でも十分です。英文を日本語訳してもわけの分からない文章になってしまっては意味がありませんから。
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 こんにちは、大学教育に携わる者の一人です。

ネコの先生が仰る「認識論としての数学の位置付け」これはとても大切な部分です。
 突き詰めてしまえば、物事の筋道や流れそして論理なるものを数学の中心的課題とするならば、中学校での連立方程式やら図形の証明問題などは「生活の上」では一見して必要のないものに見えるかもしれません。確かに数値を出すだけならば、電卓や表計算ソフトを使えば瞬時にして値をはじきだすこともできます。
 けれどその電卓なり表計算ソフトの裏側では「その過程」が演算されていることも忘れてはならない、こともあります。
 数式が国語の「説明しなさい」との部分と同じであると考えるならば、それは「意味を示す」ことと等値である。大学の一般教養で自然科学領域として「数学」が挙げられていることも「論理や発想の仕方」を学ぶ一つの方法論、であるとお考えになってはいかがでしょうか。
 かくいう僕も理工学部の一般教養課程で「歴史学」を扱った経験もありますが、論理的な思考のできない学生に限って、「こんなことやっていても意味がない」との答案を書き、「ではなぜ意味がないのかを説明して下さい」といっても説明ができない。だから僕はそうした学生の答案を撃墜します。ネガティブであっても論理がそれなりに通っていれば認めもしますが、何もなければ通すわけにはいかない。
 逆に「文章を書けない学生や社会人の増加」が今では深刻な問題になってもいます。それは「論理」と「言葉の遣い方」に関する基礎的なトレーニングがなされていないからであり、これこそ深刻な事態ともいえます。
 先日、文科省が教育再生に関する答申を受けて「国際的に活躍できる人間の育成」を一つの方向性として打ち出す指針を示しましたが、何を以て国際社会で活躍できる人間といえるのか、その定義もなされていません。外国語でコミュニケーションを図ることと、自らの言葉で自国の文化なり政治風土などを説明できなければ、外国の方々にそれを説明することなどできないことは火を見るよりも明らかです。
 何か最近の文科省や教育再生会議は誤解しているようにしか見えませんね、僕がその様な審議会に呼ばれたなら、イスを蹴飛ばして「ふざけんな、あんたらは教育の現場を見ているのかね」とその場を立ち去りますね。だから僕など一生呼ばれる可能性は皆無でもある 爆!

 【補足】
因みに「哲学」や「歴史学」そして「政治学」や「経済原論」が日常生活の中で「役に立つ」シーンがありますか?。
「役に立つ」ものはおしなべて皮相な存在であるともいえます。生物学においても「オパーリンのコア・セルべート説」といった生物発生などは片隅に押しやられている状況で、そうした光景は学問そのものにとってもとても不幸な自体であると考えますが、この辺りに関しては質問者様はどの様にお考えでしょう。役に立たない学問は存在する意味がない、とお考えでしょうか。
 「役に立たない学問」ば実は、学問の基礎的部分を構成しているとの事象を踏まえるなら、質問者様がお立てになった今回の質問は成り立たないはずですが。
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小学校の算数でも、中学入試のような複雑な問題になると


中学校程度の数学を知っていると簡単に解ける問題がたくさんあります。

大学に入って、数学あるいは数学的思考能力が不要という
学部学科は非常に限られます。
経済系の学部は微積分必須ですし、
法律系だって、今の世の中の法律関係は工学的な技術抜きに語れませんから
当然数学の知識は必要です。
一番数学と縁が遠そうな文学系だって、社会学や心理学では統計的な
アプローチは必須です。

かつて、数学は日本人のお家芸でした。
一方、今、国力を増している中国やインド、
ロシア、トルコ、シンガポールなどは
国を挙げて数学教育に力を入れています。

日本で「数学が苦手」という人口が増たるのと、
日本の国力の低下していった時期はほぼ同じで、
相関関係があると思います。
質問者さんのように考える人が増えると、
日本はどんどん貧しくなる一方でしょう。

ちょっとソースは失念しましたが、
数学ができる方が平均収入が高いという統計結果も
実際出ているようですよ。
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高度な教育を使ったり応用できる人は、高収入な仕事に就くことができる。


できなけえればできないだけの仕事に就くしかない。
でも、低所得のままで終わるだけ。
若いうちにサボれば社会人になってから大きなしっぺ返しがくる。
最後はホームレスですかね。
社会人になってから勉強しておけばよかったと思っても遅い。
運よく会社に入れても、いつかは勉強ができた同級生が上司になってくるだけ。

数学を学ぶ意味は、数式から予測する力を身につけることです。
また、数式を変形して応用することを学ぶことができる学問ですので、これって社会人で重要なことですよ。
あー、それと数式で表せたものは誰が何と言おうとも証明されたものになるので、説明する道具にもなるよ。
計算だけが数学ではなく、いろいろなことに使えるしいろいろな教科につながっているからね。
そのほかの教科も別の見方をすれば同じだよ。

自分で考えて発見できなければ、能力分の給与となるだけですから。
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