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人を愛したとき、その人の”何か”を愛したと思います。
それは、容姿かも知れない、男らしさ(女らしさ)かもしれない、優しさかもしれない、趣味の一致かもしれない、”肌が合った”からかもしれない。そして”尊敬”だったからかもしれません。

でも、その気持ち、本当に相手への愛ですか?
その人は「自分好み」だったからではありませんか?

真の愛はたとえ奇形で産まれてしまった人へも持てるはず。
そう考えると、人への恋心という存在は実は自己満足やマスターベーションではありませんか?
それで相手を振り回すことは業因になるのではないでしょうか・・?

最近、そう思うようになりました。
人を愛したことのある人・・・・なぜ相手を愛せたのか。それは相手の個々の要素以外で何を愛しましたか?

私は最近、一人の男性を心から愛したつもりでいました。
でも思ったんです。その男性によって満足する自分を仮定してその男性を愛していたのではないかと。
自分自身を可愛いがゆえにその男性に何かを求めていたのではないかと。
自己愛だけだったのではないかと。

長文失礼しました。質問にすべて答えくださらなくても結構です。
「愛する」について、フランクに述べて頂ければと思います。

A 回答 (18件中1~10件)

私は「何か」を愛したわけではありません。


強いて言えば「彼」を愛しました。
彼だから愛しました。
彼を愛しました。
性格悪いです、容姿も特別ではありません、経済力はありますが贅沢をしたことはありません。
そんな彼を愛した理由などありません。

彼が辛いこと苦しいことから守りたい、支えたい、彼が安心する場所になりたい。
ただそれだけです。

エゴかもしれません。
ただ何かを好きになる時点でそれは「愛」ではないと思っています。

理由なき感情こそが真実だと思います
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

いいですね~
「私は「何か」を愛したわけではありません。
強いて言えば「彼」を愛しました。
彼だから愛しました。
彼を愛しました。」

無条件にいいです。
そうなんですよね。結局のところ、彼だから愛した、彼を愛したんですよね。そこに理屈もなにもないのが、恋であり愛なのかも知れないし、理屈なんて求めたら、それこそ打算かも。
xxxxHOLExxxxさんのピュアな気持ちが感じられて、とても清々しい気持ちにさせていただきました。

ありがとうございます。

お礼日時:2013/10/18 22:21

 ひとには、「自分のことを価値ある存在だと思いたい」という社会的動物としての欲求があり、好きになってもらえると悪い気はしないものです。

そして男や女としての動物としての欲求があり、子孫を残すために、より強く頭の良い男を好きになったり、見目麗しい女を好きになったりもします。
 そういう無意識の欲求に気付いている人の愛は本物で、気付いてない人の愛は自己満足のニセものだとしたら、理屈っぽい人の愛だけが本物だという、妙なことになってしまいます。自分の無意識の欲求に気付いていようが、気付いていまいが、大した差ではないように思います。
 何か見返りを要求するなら、それはもはや愛ではなく、ギブ・アンド・テイクです。自分がそうしたいからする、そうすることが自分にとっても楽しい(嬉しい)のが愛ではないでしょうか。楽しいのでなければ、それは義務感です。長い愛の歴史の中では、義務感に陥ってしまう時期もあるのがふつうでしょう。相手の義務感を感じ取って、『それは本当の愛ではない』と、若い娘さんは父親を糾弾するかもしれませんが、大目に見てあげてほしいものです。
 だって、愛とは意志だからです。自分の頭で考え、こうすることが正しい愛の形だと思ってするのです。打算的な匂いもするでしょうが、頭で考えてしている以上、そういう匂いがするのは仕方のないことです。なら反対に、動物的な性欲丸出しが愛の正しい形でしょうか。どういうミックスバランスが好みかは、個人の嗜好でしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

こちらで様々なご意見を拝見していくうちアタマで考える愛も、愛なのでしょうが、やはり無条件に相手だから愛せた、相手だけを愛せた、思いやれる相手に持つ感情こそ真の愛なのではないかと思い始めました。

人間だから頭脳があって、なにかと理屈をつけたくなって私もこの様な質問を立てましたが、やはり、人を好きになるって、すべて理論的に定義づけられるものではないのでしょうね。

でも、参考になりました。
ありがとうございます!

お礼日時:2013/10/18 22:34

「愛」と「恋心」は違うと、よく言われていますよね。


でも、とても密接に関係しているものとも思います。

私は、ある人に恋をしました。
初めは、彼からも好かれること、近づいてもらうことを求め、願っていました。
そうしてもらうことが、私にとっての幸せだと感じたからです。
やがて彼を深く知り、関わっていくにつれ、彼の幸せを願うようになりました。
彼の幸せが、自分の幸せとイコールになりました。
だから、万が一彼が、私と別れたほうが幸せになれるというのなら、
それも受け入れてその後の彼の幸せを喜べます。
これが、私の、異性としての彼への愛の形かなと思います。
彼の場合、「恋心」から「愛」が生まれました。
彼に「恋心」を抱いた理由となった、彼の「部位」は、「雰囲気」でした。

一方、初めから存在そのものへ感じる愛情もあります。
私には年の離れた妹がいます。
彼女がこの世に生まれてきた瞬間から、それこそまだ顔を見る前から、
彼女の存在を愛していました。
遠くから見守りながら、でも彼女のためにできることは何でもしたい、
彼女の幸せのためなら自分を犠牲にすらできる。
そういう愛を、四半世紀たった今も持っています。
これも、一つの愛の形です。
そしてこれに関しては、無条件に愛しているため、なぜ愛せるのかはわかりません。

どちらも、愛する対象の何かを愛しているというよりも、
存在そのものに感謝しているという感じでしょうか…
あなたがどのような姿であれ、またどのようなステータスであれ、
そこに生きていてくれてありがとう。
これが、私の愛し方なのでしょうね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

やはり相手のために自分を犠牲にできることが「愛」なのでしょうね。思いやりと言いますか。
存在そのものに感謝できる・・・すごくわかります!
そんな人と巡り会えただけでも幸せですね。お互いに!
ありがとうございました。

お礼日時:2013/10/18 22:31

こんにちは。


愛というものは 態度や言葉でお互いが確認しあい そして感じ合って生まれるもの

奇形で生まれた そうですね 小児科病棟ではほぼ寝たきり状態で
脳に障害がある子など 沢山見て来ました ある母親は 痛いとか悲しいとか
言ってくれないし 顏にも出さない だから全然わからない だけど たまに笑ってくれる
その顔がうれしいと おっしゃっていました この先ずっと介護の人生です

わたしも一人の人を愛しました 付き合ってはいません 告白もしていません
ただ 見守っているだけでした 彼が誰かと付き合っていると知ったとき ショックでした
でも 好きでした 表情や声 髪型 すべてすべて好きでした 
彼は結婚しました その時初めて身を引きました それが自分の彼への最後の愛でした

愛というものは様々な形 どれが本当の愛なのか それは自分自身にしか分からない
それがたとえ自己愛だとしても 誰かに愛されたいという気持ちはおかしくはないと思うし
いたって普通の感情だとも思う 

誰かを守りたい どんな時も支えていたい 傍にいたい 
この人と一緒になってよかった 愛は時に身勝手でその名目だけですべてを破壊するときもある
私は相手の気持ちを思いやれることが本当の愛だと思っています  
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
素敵ですね。

「誰かを守りたい どんな時も支えていたい 傍にいたい 
この人と一緒になってよかった 愛は時に身勝手でその名目だけですべてを破壊するときもある
私は相手の気持ちを思いやれることが本当の愛だと思っています」

思いやりこそ、愛の象徴かも知れません。
漠然としていますが、結局のところ、そうなのかも知れません。
私も片想いで振られてしまった相手がいるのですが、彼が心苦しさを感じないよう、どんな苦しくても普通を装ったり、相手が負担に感じることを出来るだけ避けようとしました。
私なりに彼を本当に愛せたのかな、と少しだけ満足できる気がします。私のことばかり書いてすみません。

ありがとうございました。参考になりました。

お礼日時:2013/10/18 22:28

 「愛」の定義が異なっていれば、いくら意見を言い合っても不毛です。

それはちょうど、それぞれの家から、船と自転車とバスと自家用車と徒歩で、それぞれ違う目的地に向かう、その方法を言い合っているようなものです。

 まず質問者様ご自身の「愛の定義」をはっきりさせないとすべての意見はすれ違いに終わり、求める回答は得られないでしょう。補足をお願いします。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

実はその「愛の定義」を求めて質問しました。
「愛ってなんだろう」「人を愛するってどういうことなのだろう」・・・って。
なので、漠然とした質問になってしまいました。

色々ご意見を拝見できて良かったです。
これから切磋琢磨して愛の本質をさぐってホンモノの愛を見出したいと思います。

お礼日時:2013/10/18 22:18

> 人を愛したとき、その人の”何か”を愛したと思います。



 『その人の”何か”』ではなく全部です。相手の女性が愛してくれたから私も愛した。それで良いでしょう。お互い幸せなんだから。

> でも、その気持ち、本当に相手への愛ですか? その人は「自分好み」だったからではありませんか?

 そりゃ、所詮人間ですから好き嫌いは仕方ない。それを『本当に相手への愛ですか?』なんて考える必要もないでしょう。大体『本当の愛』ってなんですか?どう定義なさる?孔子の言う『仁』とかって?感情を定義するなんて無理でしょう。自分本人だって理解できないのが人間の感情です。

> その男性によって満足する自分を仮定してその男性を愛していたのではないかと。

 それで良いんでしょう。ただ相手がどう思っていたのか? だから安全?なのは自分を愛してくれる相手を愛せるかどうかです。残念ながら私の場合はそれでしか『相思相愛』なんてありえない。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

相手の全部を愛したってすごいと思いました。
どこかしら、不満があって、それが原因でその人自体を嫌いになってしまう場合も多々あるようですので。

そこまで愛せれば、それは本物の愛かも知れませんね。
ありがとうございました。

お礼日時:2013/10/18 22:15

人間の行動で「自分のため」以外にすることってあるでしょうか?


例えば、自分が多少損をしても誰かのためになることをするような犠牲的な精神も
「そういう事ができる自分でありたい」という自分の理想や信念のための行動ではないでしょうか。
(意識的ではないと思いますが、起因するところはそういう事では?と思ってます)

また、子供への愛も、子供を愛して無償の愛を捧げている自分のための行動だと思います。
私は子供がいて、本当に本当に大事だし、大変なことも時にはあるけれど耐えられるのは愛しているからだし、叱るのだってこの子が将来自立して生きていけるようにだし…と思ってますが、やはり、根本は「自分がそういう親でいたい。そういう子育てがしたい」なのだと思います。

子供から親への愛こそが無償の愛だと言われたりします。それは本当にそうだとは思います。
ただ、それも「自分が生きていくために必要な相手に執着する本能」の表れとも言えると思います。
ですから、ある意味で「自分のため」なのでしょう。

それから、破滅的な相手を付き合う人はどうなのか?と思う事があるのですが
それも、自分の潜在的な意識に「私のような人間は不幸になるに決まってる」というものがあって
それを証明できるような相手を選んでしまっている(本人は魅かれたと思っていても)のだと考えています。

こうやって書くと、人間はみんな自分勝手なんだよ!と冷めた意見のように感じるかもしれませんが
自分のために行動して何が悪い?と思ってます。
むしろ、全部自分のためなんだって思えば「私がしたいんだから」「私の選択だから」と誰かのせいにすることなく、心を強く持っていられます。

異性の愛に関しては、お互いが一緒にいる時の自分が好きって思えて、その関係をできるだけ維持したいから譲り合って助け合って生きていくって感じかな~と思ってます。
夫の事は愛してますが、彼が私を愛してくれなかったらここまで愛せなかったかも。
私はきっとこれからもずっと、自分がより良い幸せな人生を歩めるように、夫と子供を支え守っていきます★
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

>子供から親への愛こそが無償の愛だと言われたりします

あはは!こりゃ、一本取られたって感じでしょうか。
まさに、お子様のおっしゃる事も理解できます。
私も以前、母がガンになったときに、母から「ガンになった人間の気持ちなんてわからないでしょ!!」と言われたとき、
「じゃあ、母親がガンになってしまった子供の気持ちもわからないでしょ!」と言い返したことがあります。
そんな事を思い出しました。

お互いに親子って愛し合っているんですよね。
旦那様とも支え合う素敵なご夫婦のようで、羨ましいです。
これからもお体に気をつけて一家の太陽として、照らし続けてあげてくださいね。
ありがとうございました。

お礼日時:2013/10/18 22:13

ある時期、人を好きになるって、一体どういうことなんだろう?



と悶々としている時期がありました。

10代の終わりから3年間付き合った彼の時は、
寝ても覚めても頭から離れないって感じで、
本当に好きで好きで仕方なかったことを自分自身も自覚してましたが、

その後、年を取るにつれていくらお互いに好意を持って付き合いだしたとしても、
何故かしら、相手と自分の思いがイコールじゃないような虚無感を味わいました。

その頃、私には特に”好き”と心から思える相手も存在せず、

何となく、その場のノリでおつきあいていた感じが多かったような気がします。

それで、相手が自分にのめりこんでくるのを見て、
シラケまくっている自分がいました。

あまりにもざらざらとした関係が長々と続いたので、
もう、昔のように誰かを好きになることはないだろうなと感じ始めていたころ、
運命の出会いがありました。

まあ、見かけも自分好みだということもあったのですが、
その人に言われたひとことにすっかりと心を奪われ、
その時、人を愛するってことはこういうことなんだろうなって教えられた気がしました。

実際にその人に言われた言葉は、
「ボクは彼女の繊細な心を愛している」と。

これはどういうことかというと、当時、付き合っていた男性が
かなりの束縛やで自分の思い通りにならない私のことを束縛している姿を
見ていた共通の男性友人が、私が付き合っていた男性に向かって、
私のことを解放してあげてくれ!!といったときにのことです。

言われた側は何を言われているかさっぱりわからず、
「じゃあ、君は彼女のこと好きなの?
どこが好きなんだか言ってみてよ、何も知らないくせに」と言われたときに
出てきた言葉です。

私はこの言葉を聞いたときに何だかホッとしたのと同時に、
ざらついた自分の心を吹き飛ばすような、自分にもまだまだ繊細さが残っているんだ、
ということに気づかせてくれました。

話は長くなりましたけれど、
結局、人を愛するってことは、その人の心を好きになるってことなのではないでしょうか?

その人のことを本当に好きならば、
その人の考え方、行動、癖、その他、諸々、
その人のすべてを愛せるようになるように思えてなりません。

まあ、このような感激するような出来事は二度と味わえないと思っています。

だから、今はだれを見てもどうせ…という気持ちのほうが強いし、
心の中は隙間風だらけですが、でも、一生に一度そのように大切に思われたことは、
自分の宝だと思っています。

すみません。

ただの戯言だと思って読み流してください。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
cyrus-kunさんも、一時人を好きになるということが、どういうことなのか悩まれた時期があったのですね。
今、私がまさにその時かも知れません。

でも、とっても素敵な言葉を言われた経験があって羨ましいです。人の繊細な心まで認めてくれる人こそ、本当に愛してくれる人なのかも知れませんね。

とっても素敵です。よいお話ありがとうございました。

お礼日時:2013/10/18 22:09

一口に「愛」と言ってもイロイロ有りますからねー。



「博愛」みたいに崇高な愛が有れば、「自己愛」のようにワガママそうなのもあります。

どちらも「嘘の愛」ではないと思いますしね。

貴方が思ってるのは、崇高な方かな?

他にも、「人類愛」のように大きな物から、「地元愛」のように少し狭い物も有りますね。

「親子愛」「兄弟愛」もあれば 、「ペット愛」もあります。

収集物に執着する「愛」もあります。「ドロドロの愛」もありますしね。

それぞれについて論じるのがよろしいかと。

いずれにしても、凡人には崇高な愛を持つ事は難しいと思います。人間は基本的にワガママだし、与えた分与えて欲しいと思ってしまうモノだと思います。「聖人」と呼ばれた人以外は。でもそれでいいと思います。崇高な愛以外を否定されちゃったら、堅苦しくツマラナイ世の中になっちゃうから。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

そうそう、そうなんですよね。
愛には色々形があって男女間だけの愛ではなく親子・兄弟・飼っている動物への愛、仲間同士の愛などなど色々なんですよね。

崇高な愛とは究極は慈悲なのかもしれません。
やはり、それは聖人(仏さま)以外には難しいですよね。
人間は欲深いし、それゆえに相手に求める物も多いからですよね。

ありがとうございました!

お礼日時:2013/10/18 22:06

こんにちは。



確かに。一般的には「愛する」というのは「それを愛している自分を愛している。」と言う状態になることだと思いますね。

恋愛は特にそうですよね。下手したら自分の子どもにさえ、そうおもうかもしれません。人間は自己愛の塊だと思いますし。

相手のために死ねる、そう、そう思うことですら、そんな自分を愛しちゃったりするかもしれません。

お互いにそう思い合う、それでうまく行けばお互いに騙しあうような感じですが、心地よければ恋愛成立。
良いと思います。一方が不快になったらアウトですが。

愛すると感じた相手が不快を示して、拒絶さえも受け入れられる、これは愛かもしれません。

相手がどんなに自分を嫌っても、相手のために苦痛を飲み込める・・・。そんな自分を愛せたら、本物かも。

それが出来るかどうか?あんまり自信がありませんが。

あと、もうひとつ。

全く理屈を超えたものはあるかもしれません。ハートに響く感じというか、魂で感じちゃうっていうか。

あ、変な宗教とか、スピとかじゃないですよ。

これも人間に備わった機能かな、と思っています。

参考になるかどうか??
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

>愛すると感じた相手が不快を示して、拒絶さえも受け入れられる、これは愛かもしれません。

他の方の意見にもございますが、やはり相手の為に自分をも犠牲にできるか、(相手にどれだけ合わせられるか)という事なのでしょうね。

やはり家族愛なのでしょう。
恋では見返りを求めますからね。

ありがとうございました!

お礼日時:2013/10/18 22:02

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